異世界奇譚 ―鳳凰の旅路―
雪村ことは
序章
第1話:緋色の鳳凰
夕暮れの交差点に、春の冷たい風が吹き抜けた。
三月も終わりに差し掛かった東京の街。夕暮れ時の空は、まるで血を流したように赤く染まっている。高層ビルの窓ガラスが、その赤を反射して禍々しく輝いていた。
信号が青に変わった――はずだった。
一歩を踏み出した瞬間、視界の端に白い塊が飛び込んできた。猛スピードで迫る白いセダン。
(あ――)
思考が追いつかない。体が反応できない。過労で鈍った神経が、危険を認識する前に。
鈍い衝撃音。
そして、激痛。
「がっ...!」
世界が回転した。空が地面になり、地面が空になる。アスファルトの冷たさが頬に張り付き、肺から空気が一気に押し出される。金属の味が口いっぱいに広がった。自分の血の味だ。
冷たい。痛い。動けない。
視界が歪む。白昼夢のように、街の喧騒がぼんやりと遠のいていく。誰かの悲鳴。急ブレーキの音。スマートフォンの着信音が、まるで別世界のものように聞こえる。
路面に広がっていく赤黒い液体。生温かさが体から染み出していくのを、不思議なほど冷静に感じていた。
(ここで...こんなところで、終わるのか)
結城智也、三十四歳。大手IT企業のプロジェクトマネージャー。昨夜も終電を逃した。休日出勤は当たり前、有給休暇は取得義務の五日しか取っていない。そんな男が今、都心の交差点で血を流している。
激痛が、不思議なことに遠のき始めた。代わりに訪れたのは、奇妙な平静さ。そして、走馬灯のように蘇る記憶の断片。
オフィスの蛍光灯。真夜中に明日の朝までに資料をなおせと怒鳴り散らすクライアント。深夜三時まで続く内部ミーティング。疲労で霞む視界の中、画面に向かって打ち続けるキーボード。休日も出勤し、クレーム対応に追われる日々。
そして――後回しにしてきた全て。
父親との約束。「次の日曜日こそ」と言い続けて、結局一度も実現しなかった食事。友人たちの結婚式。欠席の返事を送るたび、少しずつ疎遠になっていった人間関係。行きたいと思いながら、一度も実現しなかった海外旅行。
本棚に積まれたまま、読まれることのなかった小説たち。
(俺は...何のために生きていたんだ)
大学時代、智也には夢があった。世界を変えるような革新的なソフトウェアを開発すること。テクノロジーで人々の生活を豊かにすること。目を輝かせて語っていたあの頃の自分。
いつの間にか、夢は「現実」という名の檻に閉じ込められていた。
効率。利益。納期。株主。クライアント。
本当に大切なものが、少しずつ、確実に、削られていった。
先週も父親との食事をキャンセルした。「急な案件が入った」――いつもの言い訳。電話口の父の声は「構わないよ」と言っていたが、その奥に隠された寂しさに、智也は気づかないふりをした。
(もっと...もっと早く、気づくべきだった)
視界が灰色に染まっていく。音が遠ざかる。体の感覚が消えていく。
不思議なことに、恐怖はなかった。あるのは、深い深い後悔だけ。
そして――。
智也の焦点の合わない目に、散乱したビジネスバッグの中身が映り込んだ。ノートパソコン、資料の束、そして、血に濡れた一冊の古書。
先ほど、何かに導かれるように古書店で手に取った本。表紙には、鮮やかな緋色の鳳凰が描かれていた。漢字に似ているが、どこか違う。見たこともない文字で綴られた題名。触れた瞬間、指先に奇妙な熱を感じた。
なぜあの本を買ったのか。
なぜ、まるで呼ばれるように、普段は絶対に入らない古書店に足を踏み入れたのか。
血溜まりの中、緋色の鳳凰だけが、まるで生きているかのように鮮やかに輝いて見えた。
(もし――)
意識が闇に沈む寸前、智也の心に一つの願いが灯った。
(もし、もう一度やり直せるなら)
(今度こそ、自分の人生を、悔いなく――)
その思いを最後に、結城智也の意識は完全な暗闇に呑み込まれた。
***
闇。
深い、深い闇。
それがどれほど続いたのか。時間の感覚さえ失われた虚無の中で、智也の意識はただ漂っていた。
だが――。
遠くから、何かが聞こえる。
それは歌のようでもあり、呪文のようでもある不思議な音。低く、重く、しかし心地よい響き。聞いたことのない言語なのに、なぜか懐かしい。
光が、少しずつ差し込んでくる。
温かい。
そして突然――。
***
「おぎゃああああーーーーっ!」
自分の声だと気づくまでに、数秒を要した。
視界がぼやけている。目を開けているはずなのに、何もかもが霞んで見える。強烈な光が目に飛び込み、思わず目を閉じた。体が震える。寒い。とても寒い。
そして――小さい。自分の体が、信じられないほど小さい。
「夫人、無事に男子にございます!」
老いた女性の声が響く。大きな手が自分を抱き上げる。白い布で包まれる感触。独特の香り――漢方薬のような、しかしもっと複雑な、甘く苦い匂い。
(これは...夢?)
智也の意識が混乱する。さっきまで、自分は東京の交差点で死にかけていたはずだ。いや、死んだ。確かに死んだ。なのに――。
「大きな声で、元気な赤子でございます」
産婆らしき老女の声が、喜びに満ちている。智也を抱く腕は確かで、長年赤子を扱ってきた経験が感じられた。白髪交じりの髪を後ろで結い、深い皺の刻まれた顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
部屋を見回す。いや、「見回す」というより、ぼんやりとした視界に映り込む光景。
天井は高く、太い梁が走っている。壁には精緻な彫刻が施され、どこか中国風の――いや、中国風というより、中国の古代王朝を思わせる荘厳さがある。
暖炉の火が揺らめき、その光が壁に飾られた掛け軸を照らしている。墨で描かれた山水画。流麗な筆致。そして――読めるはずのない文字なのに、なぜか意味が理解できる。
部屋には独特の香りが充満していた。白檀、沈香、そして何か薬草のような香り。それらが混ざり合い、神秘的な空気を作り出している。
「さあ、体を拭いて差し上げましょう」
侍女たちが慌ただしく動き回る。彼女たちの衣装は、明らかに現代のものではない。深い藍色の長衣、腰には絹の帯。髪は複雑に結い上げられ、簪で留められている。その所作一つ一つに、訓練された優雅さがあった。
(転生...した?)
あまりに現実離れした状況に、智也の思考が追いつかない。だが不思議なことに、パニックにはならなかった。まるで、この状況を受け入れる準備ができていたかのように。
「あら...?」
突然、産婆の声のトーンが変わった。
室内の空気が、一瞬にして張り詰める。
「これは...」
侍女たちの動きが止まる。誰もが、智也の体の一点を凝視していた。
「緋色の、痣...」
老女の声が震えている。
「龍では、ない。これは――鳳凰」
その言葉が発せられた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
侍女たちが息を呑む。誰一人として動かない。まるで時が止まったかのような静寂。
そして――。
「
太い男性の声が響いた。柱の陰から現れた人影。灰色の長衣、腰には翡翠の飾り。顔立ちは厳しく、目には鋭い光が宿っている。執事か、あるいは家令のような人物だろう。
「ただちに
張大娘と呼ばれた産婆が叫ぶ。その声には、長年の経験を持つ彼女らしからぬ動揺が滲んでいた。
廊下を、複数の足音が駆けていく。絹の衣擦れの音。扉が開閉する音。そして――。
遠くから聞こえる、低い鐘の音。
それは、何かが始まる合図のように響いた。
(よう...大人?楊?)
智也の頭の中で、断片的な情報が渦を巻く。ここは日本ではない。中国でもない。言語は中国語に似ているが、微妙に違う。服装も、建築様式も、匂いも、全てが――。
異世界。
「夫人」
張大娘の声が静かに響く。彼女は智也を大切そうに抱きながら、簾で仕切られた奥へと進んでいく。
簾の向こうから、繊細な香りが漂ってくる。蘭のような、しかしもっと高貴な花の香り。
「お子様の背中に、緋色の鳳凰の痣がございます」
張大娘の声は、敬意と畏怖に満ちていた。
「なんですって...!」
簾の向こうから、若い女性の声。それは疲労に満ちながらも、凛とした気品を失っていない声だった。
「見せてください!すぐに!」
簾が開かれる。そこには、絹の寝台に横たわる一人の女性。
智也の――この世界での母親。
年齢は二十代半ばだろうか。長い黒髪は汗で額に張り付き、顔は出産の疲労で青白い。だがその目には、強い意志の光が宿っていた。高い鼻筋、整った顔立ち。美しい、という言葉では足りない。彼女には、生まれながらの高貴さが漂っていた。
「これは...」
母親の手が、智也の背中にそっと触れる。その指先が、微かに震えていた。
「本当に...鳳凰...」
「楊家始まって以来の、瑞兆にございます」
張大娘の声が続く。
「歴代の当主には、蒼い龍の痣が現れました。今代の
「聞いたことがない」
母親の声が、張大娘の言葉を引き取る。
「しかも、緋色。龍は蒼。これは、一体...」
沈黙。
重く、長い沈黙。
部屋の外では、まだ慌ただしい足音が響いている。この屋敷全体が、一つの出来事に揺れ動いているのが分かる。
「夫人」
張大娘が、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「鳳凰は、古来より帝王の瑞兆。しかし今までの伝承において、鳳凰の痣を持って生まれた者の話は――」
「聞いたことがない」
母親が、小さく呟く。
「つまり、この子は...」
その先の言葉は、誰も口にしなかった。
だが、部屋に満ちる緊張感が、全てを物語っていた。
智也を、母親の柔らかな腕が抱き締める。白檀の香りに包まれながら、智也は母親の顔を見上げた。
その目には、愛情と――不安が混ざり合っていた。
「あなた...」
母親が、囁くように言う。
「あなたは、特別な運命を背負って生まれてきたのね」
温かい。
母親の体温が、智也の小さな体を包む。
(俺は...生まれ変わった)
意識が、再び眠気に侵されていく。赤子の体は、すぐに疲れてしまう。
だが、眠りに落ちる直前――。
遠くから、重々しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
扉が開く音。
そして、部屋中の空気が一変した。
誰かが――とても重要な人物が、入ってきた。
「どうした。子が産まれたのであろう」
低く、威厳に満ちた男性の声。
「お戻りでしたか、旦那様」
母親の声が、わずかに緊張を帯びる。
「緋色の鳳凰の痣、とは。まさか」
男の足音が近づいてくる。重い靴が床を踏む音。そして――。
智也の視界に、一人の男が映り込んだ。
年は三十位か。優しい目つき。たくましい体つき。深紅の長衣をまとい、腰には見事な装飾の施された剣を帯びている。その存在感は、まるで巨大な壁のようだった。
智也の、この世界での父親、か。
男は、智也の背中の痣を見つめた。
長い、長い沈黙。
そして――。
「これは...」
男の声が、初めて揺らいだ。
「楊家千年の歴史で、初めての...」
その先の言葉を、智也は聞くことができなかった。
眠気が、全てを呑み込んでいく。
意識が遠のく中、智也は思った。
(この世界で、俺は何をすればいい)
(何のために、ここに生まれてきた)
そして――。
遠くから、不吉な鐘の音が聞こえた。
それは、まるで警告のように。
まるで、これから訪れる運命を告げるように、夜空にその音は響き渡った。
翠玉朝、隆盛十四年、春。
緋色の鳳凰を背負う子が、楊家に生まれた夜。
誰も知らない。
この子が、やがて世界を揺るがす存在となることを。
誰も予想できない。
この子の運命が、どれほど過酷なものになるかを。
ただ一つ、確かなことがあった。
この夜――。
歴史の歯車が、静かに動き始めた。
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