異世界奇譚 ―鳳凰の旅路―

雪村ことは

序章

第1話:緋色の鳳凰

激痛が全身を貫いた。


結城智也ゆうきともやの目の前で信号が青に変わり、一歩を踏み出したはずだった。しかし、よく見れば信号は赤。横から猛スピードで現れた白いセダンが、避ける間もなく彼の体を吹き飛ばした。


「ぐっ...」


アスファルトに叩きつけられた体が悲鳴を上げる。冷たい路面に横たわる中、自分の血溜まりから伝わる生温かさだけが、まるで皮肉のように感じられた。意識が遠のく中、智也は必死に目を開こうとする。スマートフォンの着信音、人々の悲鳴、救急車のサイレン。それらが遠ざかっていく。まるで水中で聞こえるように、ぼんやりと。


(こんな場所で、こんな風に...)


結城智也。34歳。疲れ目を隠すように大きめの黒縁メガネをかけ、シワの目立つスーツを着たIT企業のプロジェクトマネージャー。昨夜も終電近くまで残業し、休日出勤をこなしてきた男。今、交通事故の犠牲者となった。

視界が徐々に灰色に染まっていく。不思議なことに、激痛は既に遠のいていた。代わりに、これまでの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。開発スケジュールに追われる日々、深夜まで続くミーティング、休日返上の作業。プロジェクト成功の陰で、後回しにしてきた両親との約束、友人との飲み会、いつか行きたいと思っていた海外旅行。


(なにかもっと、もっと、仕事だけじゃなく...)


智也の心に後悔の念が押し寄せる。大学時代に夢見た、世界を変えるような革新的なソフトウェア開発。その夢は、効率と利益を追求する日々の業務に埋もれていった。先週も父親との食事をキャンセルし、その代わりにクライアントからの急な要望に応えていた。


(本当に、これでよかったのだろうか...)


幼い頃の夢が蘇る。世界を旅する冒険家になりたいと語っていた少年時代。その夢を「現実的ではない」と諦め、堅実な道を選んだ。そこには失敗を恐れ、安定を求める弱さがあったのではないか。夢を追いかけることから目を背けてきたのではないか。

意識が完全に途切れる寸前、智也の目に映ったのは、先ほど古書店で手に取った不思議な本だった。まるで異世界の文字のような、しかし漢字に似た文字。表紙には緋色の鳳凰が描かれ、その鱗には見慣れない文字が刻まれていた。なぜその本を手に取ったのか、購入しようと思ったのか。まるで何かに導かれるように...


(もし...もしもう一度チャンスがあるなら...)


その瞬間、智也の心に強い決意が芽生えた。もし奇跡が起こり、再び生きるチャンスが与えられるなら、今度こそ自分の人生を悔いなく生きたい。仕事に追われるだけでなく、自分の夢を追いかけ、大切な人々との時間を大切にしたい。その思いが、意識が完全に闇に沈む前の最後の輝きとなった。

そして、全てが闇に包まれた。


* * *


突如、強烈な光が目に飛び込んできた。寒気が全身を包み、思わず震えが走る。そして大きな泣き声が部屋中に響き渡った。


「おぎゃーーー!」


その泣き声の主が自分だと気づくまでに、少し時間がかかった。


「夫人、無事に男子でございます!」


年季の入った声が響く。大きな手に抱き上げられる感覚。甘い香りのする白布で体を包まれながら、智也は産婆の姿を目に焼き付けようとした。白髪交じりの髪を後ろで結い、深いしわの刻まれた顔には、長年の経験から来る落ち着きと威厳が感じられる。その手つきは赤子を扱い慣れた、確かなものだった。

部屋には漢方薬のような独特の香りが漂い、どこか甘みを帯びた匂いが鼻をくすぐる。暖炉の火が温かな光を投げかけ、壁には高価そうな掛け軸が飾られている。


(これは...まさか本当に生まれ変わった?)


智也の意識は混乱していた。たった今まで、現代の日本で生きていたはずなのに。しかし同時に、この状況に不思議なほどすんなりと順応している自分がいる。まるで、この世界に来ることが運命づけられていたかのように。


「あら...」


突然、部屋中が静まり返った。


「これは...緋色のあざ、でも、龍とは違う。よく見れば鳳凰の...」


「まさか...」


侍女たちが息を呑む音が聞こえる。黒や紺の上品な衣装に身を包んだ彼女たちは、興奮気味に互いの顔を見合わせている。その目は驚きと畏れで見開かれていた。


「張大娘!」


柱の陰から姿を現した男性が、太い声で叫んだ。灰色の長衣をまとい、腰には玉製の飾りを下げている。その声には明らかな緊張感が満ちていた。


「早急に楊大人をお呼びください!」


張大娘と呼ばれた産婆が叫ぶ。普段は落ち着き払った彼女の声に、珍しく動揺が滲んでいた。

慌ただしい足音が廊下を駆けていく。絹の裾が床を擦る音と共に、侍女たちの足音が遠ざかっていった。


(楊大人?これは...中国なのか?それにしても彼らの喋っていることがなぜわかるんだ、日本語じゃないのに...)


智也の頭の中で、前世の記憶と現在の状況が交錯する。論理的な思考で状況を理解しようとする一方で、赤ん坊としての本能的な感情も湧き上がってくる。


「夫人」


張大娘の声が静かに響く。品のある着物姿の彼女は、赤子を大切そうに抱きながら、簾で仕切られたベッドに近づいていく。


「お子様の背中に、緋色の鳳凰の形をしたあざがございます」


「なんですって!?」


簾の向こうから、若い女性の声が上がった。これが智也の、この世界での母親なのだろう。その声には驚きと不安が混じっている。


「見せてください!」


張大娘に抱かれながら母親の元へ運ばれる。産婆の手の震えが、わずかに伝わってくる。長年の経験を持つ彼女でさえ動揺するほどの出来事なのだろう。


「これは...本当に鳳凰の...」


母親の声も震えていた。しかしその声には、若さの中にも気品が感じられる。部屋に漂う高級な香りと、見える範囲の調度品の数々が、この家の格式の高さを物語っていた。


「これは、いったい何を意味するのでしょう」


「楊家の歴史の中で、蒼来様など蒼い龍のあざは何度か現れたと聞きます。しかし、鳳凰のあざは、しかも緋色のあざは聞いたことがありません...」


張大娘の声には、戸惑いが滲んでいた。


(楊家?鳳凰?)


状況を理解しようとする智也の意識とは裏腹に、赤子の体は再び泣き声を上げた。その瞬間、柔らかな腕が優しく包み込んでくる。かすかに白檀の香りがする。


「あなた...」


母親の声が耳元で囁く。その声には不安と期待が混ざっていた。


「あなたは、きっと特別な子なのね」


温かな抱擁に包まれながら、智也は強い眠気を感じ始めた。部屋の外では、まだ慌ただしい足音が響いている。廊下を走る足音、興奮した声、扉の開閉音。


(今度こそ...この世界で、自分にしかできないことを...)


智也を強烈な眠気が襲い意識が薄れゆく中、そんな決意が胸の奥で静かに灯った。前世で読んだ小説やマンガで見た「異世界転生」。かつては空想の産物だと思っていたそれが、今、現実のものとなっている。


(みんな、こんな感じだったのかな...)


記憶の中で、業後にアニメ好きの同僚と話していた会話が蘇る。


「最近のアニメは転生ものばかりだ」「俺が転生したら...」


誰もが一度は想像したことのあるファンタジー。しかし実際に体験してみると、そこには想像以上の重みがあった。前世の記憶、経験、後悔。そして新しい世界での可能性。全てが複雑に絡み合い、この小さな体の中で渦を巻いている。


部屋の外では、まだ慌ただしい足音が響いている。廊下を走る足音、興奞した声、扉の開閉音。この子の誕生が、この世界にどのような変化をもたらすのか。まだ誰にも分からない。


(これが俺の「転生」の始まりなのか)


自分が望むのは物語の主人公になるということではない。ただ、与えられた機会を最大限に活かし、この世界で意味のある存在になりたい。そんな純粋な願いが、智也の心の中で静かに形を成していった。


結城智也という魂を宿したこの赤子が、確実にこの世界に影響を与えていくだろう―そのことだけは、間違いなかった。そして、それはきっと誰も見たことのない、まったく新しい物語となるはずだった。

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