第2話 奴隷のアン

 アンは奴隷である。

 母親が奴隷だったので、奴隷の子として生まれた。父親は母を所有する奴隷商人で、美しかった母を手籠にして、その結果生まれたのがアンだ。

 忌むべき行為の果てに生まれてきたアンを母は愛さず冷たく扱い、父である奴隷商人は、実の娘である筈のアンのことを商品としてしか見なかった。

 ボロ切れのような服を着て、毎日毎日、水汲みと床磨きをさせられて、薄いスープとカビかけたパンだけを与えられて、ドブネズミと罵られ、他の奴隷たちにいじめられて育った。

 アンはとにかく寂しくって、それが故に、自分のことを疎んじる母が大好きだった。

 けれども、母に縋り付こうとしても、母はアンの手を振り払って「近寄らないで!」と叫ぶばかりで、アンはいつも一人になると泣いていた。

 子供ながらにも、アンは母の苦悩を悟っており、母とて本当は自分に対して酷い言葉を投げ掛けたくないのに、そうせずにはおれないのだとも理解していた。

 なんとか、劣悪な環境と酷い待遇の中で、アンは十二歳まで生き延びた。

 けれども、十二歳を迎えた途端に、父から呼び出され、服を脱ぐように言われ……欲望に塗れた目で品定めされて、アンは静かに絶望した。

 父は性奴隷として、成長したアンを売り捌くことに決めたのである。

 ああ、神様、どうか、助けてくださいーー。

 毎日アンは一人で祈ったが、神は応えなかった。

 不安に襲われて押しつぶされそうな心地で過ごして、三日、四日。永遠にも思える時間が流れて、そして、奇跡が起きた。


《妾は魔王である》


 天から声が降ってきた。

 そして、父が倒れて動かなくなり、驚く中、アンは突然、知らない場所へと転移していた。

 真っ黒な石で作られた、豪華な回廊だった。

 青く柔らかい芝生の整った広い中庭があり、中央には清らかな水を湛えた噴水があって、周囲には、アンの他にも多くの子供達が居た。身なりはそれぞれ違っていたが、魔王の宣言通り、つい先ほど身寄りをなくした子供たちなのであろうと知れた。


《ふはははは! よくぞ参った。こここそは妾が自慢の魔王城。その最下層である! ここのものは好きに使って良いが、喧嘩をした者には罰を与えるゆえ、仲良くするのじゃぞ。魔王の勅命じゃ》


 子供たちは、やはり不安なのか、近くに知り合いや兄弟姉妹が居る者は互いに身を寄せ合った。

 けれども、アンは一人きりだったので、自分で自分を抱き寄せるように身を縮ませるしかなかった。

 魔王は、自分たちをどうするつもりなのだろう。

 機嫌を損ねたら、どうなるのだろう。

 きっと、魔王である以上は奴隷商人だった父より残虐に違いない。鞭で打つより辛く、苦しい罰を与えられるのだろう。


《まず、食事は三食、朝昼晩。メニューは妾が独断と偏見で決定するぞ。鐘が鳴ったら食堂に全員分を用意する。一時間で全て片付けるので、食い逃すでないぞ。おお、そうじゃ、子供であるし、おやつも必要じゃな。うむ、午後におやつタイムを設けるので、そちらも全員分用意するぞ。衣服はそれぞれ違うのを用意するのが面倒じゃから、全員おんなじ白いシャツと白いズボンとする。パジャマも支給するので、一日が終わったら洗濯カゴに服を入れておくのじゃ。風呂もできれば毎日使うのじゃぞ。妾は清潔を好むのでな!》


 当たり前のように言われて、アンを始め、子供たちは魔王の言葉の意味がわからなかった。

 この世界において、奴隷や賎民は一日一食など当たり前だし、下手をすると一食さえもままならない。農民の子であっても朝夕の二食は普通だし、王侯貴族であっても、よっぽど裕福な国でなければ、朝昼晩の三食だ。おまけに、麻であれ綿であれ、布は高価だ。しかも毎日洗濯するなど、通常ならあり得ない。それこそ王子様かお姫様でもごく一部でしかない。更には風呂など。それこそ水の豊かな国の皇族ぐらいしか入れないものなのだ。


《うーむ、子供が多いとなると、果樹があったほうが良いかのぉ。適当に生やしておくので、各々好きに取って食べて良いぞ》


 魔王が言った途端、中庭のそこかしこに、ありとあらゆる果樹が生えた。林檎、オレンジ、それに、アンが知らないような果物の木が幾つも、芽吹いてメキメキと成長して枝を伸ばし、たわわに実を結んだ。

 好奇心旺盛な少年の一人が、林檎の木からひとつもいで齧って「これ食える、食えるぞ!」と叫んだ。

 よく見ると、果樹の枝の幾つかにはロープと木の板を使ったブランコまで作られていて、アンがそのことに気がつくのとほぼ同時に、魔王の声で《子供ばかりじゃから、ブランコはサービスじゃ♡》というアナウンスがあった。


《貴様らは一応、一時的には保護し、衣食住の保障はするが、妾は子供など大嫌いじゃ。各々勝手に暮らすように。以上じゃ!》


 一方的に説明と設備が押し付けられて、驚くアンをよそに……一部の子供たちは楽しげに歓声を上げて、魔王城の探索を始めた。

 結果、中庭の他に、広い食堂、広い男女別に別れた浴場、洗濯室などがすぐに発見された。魔王城最下層という発言は嘘ではないらしく、上の階に繋がるのであろう階段がありはしたのだが、蓋のようなものがされており、余りにも頑丈なので上には進めないようになっていた。

 加えて、驚くべきことに……各々のための部屋が用意されていた。

 ベッドと小さな椅子と箪笥、それに洗濯籠が設置された部屋が幾つも連なる一角があって、子供達がそのうちの一つのドアを選んで触れると、金色の細い腕輪が嵌って、その腕輪の持ち主が部屋の主として認識される魔法が掛けられているようだった。腕輪が嵌ると、自動的に箪笥の中に腕輪の持ち主のサイズに合った衣服が出現する仕掛けで、アンは自分専用の、真新しく、真っ白なシャツとズボンが用意されているのを見て、思わずウットリとため息を吐いた。


「すごい。こんな真っ白で柔らかい布、初めて見た……。」


 アンの選んだ小部屋は中庭に面した一室で、可愛い小さな窓がある。外からの目隠しとなる白いカーテンも付いていて、アンは早速、ボロ切れのようだった服から、新しい清潔な服に着替えた。肌着や下着までもが用意されているのは気恥ずかしくもあったが、純粋に有り難くもあった。

 着替えてから廊下に出ると、同じ年頃の女の子に声を掛けられた。


「ねぇ、大浴場に行ってみない?」

「あなたは?」

「アタシはベル。あんたは?」

「私はアン」

「よろしくね、アン。大浴場、すっごいらしいよ。先に使った子が言ってた。どんな王侯貴族もあんなの使ったことないぐらい凄いってさ! ほら、行こうよ! アタシたち、お互い垢まみれ埃まみれだしさ。魔王が何考えてるんだか知らないけど、使わなきゃ損だよ!」


 確かに、よく見ると、ベルという少女はアンと同じくらい汚れていた。ベルの髪は皮脂と埃まみれだったし、手足には細かな土と砂がはりついている。対して、ベルは煤汚れが酷かった。汚れ具合としてはお互いさまで、改めて、アンは綺麗な新品の服に、体の汚れを落とさないまま袖を通してしまったことを後悔した。

 大浴場に行く道すがら、ベルとアンはお互いの身の上話をした。

 互いに探り探りではあったものの、どちらも奴隷の身分だと知ってからは、一気に警戒心が解けた。

 ベルは元々、行商人の娘だったが、二年ほど前に両親を盗賊に殺されて、各地を飯炊き係の奴隷として連れ回されていたらしい。

 お互いに話が弾んで、そのうちに、歳の頃も同じだと分かったので、いよいよアンとベルは仲良くなった。慣れないながらも、青とグリーンのタイルで作られた美しい大浴場に入って、用意されていた石鹸を見様見真似で使って全身を洗った。


「アン、あんた凄い美人じゃないか。金髪だしさ。肌も白い。お姫様みたいだよ!」

「ベルこそ、すっごくかわいい。真っ黒な髪で、ふわふわしてて、すごく素敵だよ」


 泡が立たないほど汚れていた二人だったが、汚れを落とすと、顔の形や髪の色が明らかになった。

 アンは白に近い艶のあるまっすぐな金髪で、ミルクのように白い肌。

 ベルは真っ黒で波打つ髪に、小麦色の肌。


「アンは肌が白いねぇ。羨ましいよ」

「わたし、ずっと屋敷の掃除と洗濯をしていたから……。」

「ああ、なるほど。アタシは盗賊と一緒に、野宿ばっかりしてたからね。そうだ、アン、一人で体を洗えないチビも多いようだし、ちょっと手伝ってやろうよ」

「うん。ベルって、すごく優しいね」

「まあ、ね。アタシと同じ境遇のチビも、何人か居た時期はあったからねぇ」

「その子たち、ここには居ないの?」

「みんな死んじまったよ」


 それ以上はアンも聞かなかった。

 アンはベルと共に、幼い子供たちを洗ってやり、浴室の外にある脱衣所で体を拭いてやった。

 なんと脱衣所にはフワフワしたよく水気を吸う、見たこともないような布があって、体を拭うのによく適していた。

 ひとしきり、小さい子たちの面倒を見てやってから、アンとベルは喋りしながら城内をゆっくり見て回った。

 内気なアンに対して、ベルは快活でお喋りで、一緒に居ると気分が明るくなった。アンはベルが声を掛けてくれて本当に良かった、と思った。

 夜になって、空が暗くなった頃合いで、鐘が鳴った。

 すっかりこの環境に慣れた子供たちは大騒ぎしながら食堂に駆け込んで行く。

 

「どんな飯が出るものやら」

「パンがあるといいね」

「ゲテモノかもよ?」

「それでも、ないよりマシだよ」

「そうだね」


 食堂には、長いテーブルがたっぷり六本あって、沢山の椅子が並んでいた。

 それぞれの席の前には木の皿と匙、それに丸いパンが置かれていた。

 アンとベルは並んで座って、そのメニューの豪華さに目を丸くした。

 白くて、とろみのあるスープだった。嗅いだこともないようないい匂いがして、中にはオレンジ色の人参と、丸っこいキノコ、それに緑色の野菜に加えて、なんと肉がゴロゴロ入っているのだ。乳を使ったものらしく、甘い乳とバターと、それからチーズの匂いがした。

 ひとくち食べると、濃厚で、良い塩加減の味が口いっぱいに広がってゆく。


「凄いね。こんなの、食べたことないよ」

「ベル、見て。このパン、白いパンだよ」

「甘くて柔らかい。こんな上等なパン、一体幾らするのか。魔王ってのは凄いね」

「うん。凄いね。どうしよう。このパン、半分残して持って帰ろうかな」

「そうだね。アンは頭が良い。明日も本当に出るかわかんないし、アタシもそうしよう」


 美味しいスープとパンに舌鼓を打ちながら、アンとベルは全部食べたくなるのをなんとか我慢してパンを半分残して部屋に持って帰ることに決めたのだが、驚いたことに、食事を終えて膝の上にパンを抱え込むと、皿や匙がパッと消えていった。


「そうだ。折角だから、庭の果物を取っていこうよ」

「うん。長持ちしやすいのは、林檎かなぁ?」


 一旦、パンを部屋に置いてから、アンとベルは中庭に向かって果樹から果物を収穫することにした。

 同じ考えだったのだろう、何人かの子供たちが果物をもいでいたのだが、そのうちの一人の少年が、二人に声を掛けてきた。


「すげぇぞ、この木。取るはしから実が付くんだ。これなら食っても食ってもなくならない」

「本当だ。凄いね。ベル、ここで少し食べちゃわない?」

「賛成。誰だか知らないけど、ありがとね」

「俺は取って置いとくつもりなんだが、なんていうか……魔王ってのは太っ腹だな」

「アタシたちを太らせて食うつもりかも」

「かもな。でも、元いたとこよりゃマシさ。殺されたって、死ぬ前にこんな贅沢出来るんならいいさ」

「そうかもねぇ」

「あなた、名前は? 私はアン」

「俺はサイラスだよ。母親を殴り殺した飲んだくれのクソ親父が魔王に殺されてここに来たんだ。こっちは妹のデボラ」


 よく見ると、サイラスという少年の後ろには、四歳くらいの小さな男の子が居た。サイラスは癖のある焦茶の髪だが、妹の方のデボラはまっすぐで黒い髪をしていた。

 妹のデボラは兄であるサイラスのズボンの裾を引っ張ると、ぽしょぽしょと何かを喋った。

 サイラスは妹のために少し屈んで話を聞いてあげていて、少し言葉が荒っぽいけれど、良いお兄ちゃんなのだろうな、とアンは思った。


「あんたら、風呂で妹の面倒を見てくれたんだってな。ありがとな」

「いいよ。チビが多すぎて、いちいち覚えてないしね」

「そうだね。いっぱい居たものね」


 アンとベルが、念の為に果物を確保しておこうと思って来たのだと話すと、サイラスも笑って「俺と同じだ」と言った。

 聞いてみると、サイラスは街に暮らす平民の子だったが、奴隷だったというアンやベルを見下すところもなくて、すぐに仲良くなった。

 それぞれ両手にどっさり、林檎やオレンジを持ってそれぞれの部屋に戻った。

 一人きりの部屋という贅沢が落ち着かず、アンは部屋の隅に林檎やオレンジを並べて数を数えて、それからほぅ、とひといきついて、箪笥の中に用意された寝巻きに着替えて、まだほとんど汚れていない、真新しい服を洗濯籠に入れた。

 眠れそうにない、と思いながらも、柔らかいベッドにおそるおそる横たわると、すぐにアンは眠りに落ちた。

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