6-2
なぜカペラが生きている?
なぜ今スカーラエビルに?
〈アストルム廃棄スキーム〉はカペラの銷失から始まったというのに――
宇野真希葉は悪夢に魘されるように呻いた。
「……こんなの」
こんなの、どうすればいいんだ。
あまりにも想定外だ。
リゲルと千々岩の攻防に巻きこまれ、あるいはアギトの枝が起こす風でコントロールを失い、小型観測体ラミナはすでにかなりの数が墜落してしまっていた。生き残った機体が送ってくる映像も、断片的で、もう何を映しているのだかよくわからない。
距離をとって遠景で撮っている機体もあったが、アギトはもはや画角に収まりきらなくなっていた。あれだけ巨大化してしまっては、重みでスカーラエビルが圧壊しかねない。
カペラも、数値上ではたしかにそこにいるはずなのに、高速で移動しているのかなんなのか、姿をはっきりと捉えることができないでいた。
こんな状況にSAKaUを投入するわけにもいかない。
宇野真希葉がなすすべなく立ちすくんでいると、今井が悲鳴に近い声を上げた。
「チーフ、外に」
車外カメラのモニターを見て、思わず身の毛がよだつ。一体どこからやってきたものか、いつの間にか、指揮車の周辺を、多くの人間がぞろぞろ歩いていた――いや、これは人間ではない。
アクガレだ。
〈煤〉にまみれた朽ちかけの体を引きずって、スカーラエビルに向かっている。
空気をつんざく軋みを上げながら、何百という枝が寄り合わさって一束となり、巨大なムカデのように身をくねらせ、カペラに押し寄せた。カペラに体当たりをかますと、スピードを緩めることなく屋上から押し出し、道路上空を横断して、隣接する三十階建ての高層ビルの中ほどに叩きつけた。外壁のガラスは容易く割れて、どこかの会社のオフィスに突っこむ。アギトの圧力を受け止めきれずに天井や床が裂けていく。整然と並んでいたデスクや椅子を薙ぎ倒しながら突き進み、壁付けのキャビネットにカペラごとぶつかってようやく止まった。キャビネットは大きくへこみ、収納されていた書類がしこたま吐き出され、驚かされて飛び立つ鳥のように慌ただしく舞った。
カペラは自身に絡みつく枝を力任せに引き剥がすと、ブレイドを上段から振り下ろした。ムカデの頭は床ごと叩き斬られ、しかし、その後ろから新たな枝が押し寄せた。が、押し寄せてきた分、真正面から乱切りにする。
狙いが粗い。
巨大化した分、細かい動きはできなくなっているのかもしれない。
ざわめくムカデの脚をくぐり抜け、カペラは風穴の開いた外壁のほうへ駆けた。アギトに飛び移ると、アギト伝いに外へ出て、スカーラエビル屋上に向かって走る。
黄昏が迫っていた。
破壊されたビルからは、白くひらめく書類が尽きることなく吐き出され、〈煤〉が立ちこめる道路に舞い落ちていく。
スカーラエビルに近づくに従ってほとんど垂直になっていくアギトの表面を、八艘飛びで渡り、脚力だけで駆け上がる。少しでもスピードを緩めれば滑り落ちてしまう。そして、あと少しで屋上に辿り着く、というところで。
――二十五階にまだ人質がいる。
これに気づいて、さらに加速した。
もっとも近づいたところで足場を蹴り、二十五階の窓に向かって飛びかかる。
倍強度ガラスを体当たりで突き破り、フロアに転がりこんだ。
二十五階には黒い枝が張り巡らされ、プルウィス製薬社員が絡めとられていた。視界に入るだけでも十数人いる。突如飛びこんできた煤色の巨人に慄いて、あちこちから細い悲鳴が上がる。
アギトが気づく前にやらねばならない。
人質たちを拘束している細かい枝は、ヒゲのように一本一本個別に生えているのではない。人間で言うところの大動脈みたいな太い枝から、文字通り枝分かれして伸びているのだ。人質たちに絡みついているのは、いわば毛細血管の部分だ。大動脈を断てば毛細血管に血液は巡らない。
カペラは突進した。
強烈な踏みこみに負けて、床が薄氷のように砕けた。
常人の目には留まらぬ速度でフロアを巡り、フロアを区切るパーティションをぶち抜いて、二十五階に蔓延る太い枝を片っ端から刻んだ。大動脈から斬り離された枝――プルウィス製薬社員に絡みついていた枝は、たちまち崩れ、〈煤〉に還った。
フロア全体に〈煤〉が滞留し、視界が悪くなる。
カペラがようやく足を止めたそのすぐそばに、女性社員がひとり、立ち尽くしていた。
カペラを目の前にして、恐怖に顔を引きつらせ、慄く。
無理もない。彼らから見れば、カペラはウラグと大差ないのだ。
きっと怖くてたまらなかっただろう。
絶望していたかもしれない。
ふと思い出す。
うまくしゃべることができず、舌っ足らずに「あの」をくり返すカペラを見て、早見さんは笑うこともイラつくこともなかった。
ただこう言ったのだ。
もう大丈夫だよ。
言われた瞬間、涙が出るくらい驚いた。
この世界には、自分を助けてくれるひとがいるのだということを、初めて知ったから。
そしてそれは、魂が救われるほどのことなのだと。
だからカペラも今こう言えるのだ。
「もう大丈夫」
言われた女性社員はしゃっくりに似た息を呑み、糸が切れたように、その場にへなへなと座りこんでしまった。
周囲にいた他の者たちも、言葉を失ってカペラを見ていた。
フロアに空気の流れが生まれ、〈煤〉が動き出した。大動脈が再生しようとしている。
カペラはドアのほうを指差した。
「逃げろ。あっちの階段はまだ無事だから。でも外には出るな。地下通路を使って、とにかくこの建物から離れるんだ」
プルウィス製薬社員たちは躊躇していたが、カペラに「行け!」と叱咤されると、おっかなびっくり駆け出した。腰を抜かしてしまった女性社員も、両脇を他の者に支えられ、足を引きずるようにしてなんとか出ていく。
生き延びていく人々の背中を見送りながら、助けられなかったひとのことを思い出す。
流れ出す血、止まった呼吸。
たぶん忘れることはない。
何度でも思い出すだろう。
振り返りざま、再生途中のアギトを叩き斬った。プルウィス製薬社員を再び捕らえさせるわけにはいかない。こちらに引きつけなければ。
近くのデスクに飛び乗り、パソコンやファイルボックスを蹴散らしながら、大振りに天井を斬りつける。すっぱり斬り分けられた天井が落ちてくる。照明も空調も内包された鉄筋も、上階にあったデスクや椅子も、何もかもごちゃ混ぜになって。
アギトは下敷きになり、あらたか埋まった。
その場しのぎだろうが、今はこれでいい。
樽ほどもある瓦礫が落ちてきて、カペラの頭に直撃した。が、瓦礫のほうが砕けた。
カペラは、開いた穴から二十六階へ飛び移り――ハッと動きを止めた。あちこちに、死体がぶら下がっている。首や手足がいびつに折れ曲がり、胴が捻じれた、凄惨な死体。アギトが絞め殺したプルウィス製薬社員たち。
彼らから視線を引き剥がし、上を向く。
二十六階の天井には、アギトが巨大化した際に開いた穴が、ぽっかり広がっていた。めくれ上がったような大きな穴。そこから、さらに上階に躍り出る。
屋上だ。
スカーラエビルに太く根を張り影を落とすアギトを見上げる。
天を衝くような巨木である。
〈煤〉をまとう、神さびた威容。
思わずカペラは一歩後退った。
だがそこで踏みとどまり、アギトを気強く見渡した。
(アギトのシュマリ器官はどこだ)
(ないのかもしれない)
(ない?)
(通常のウラグのように明確な形では存在しないのかも)
(じゃあどうすれば)
蛇のように地を這う細かい枝が四方から密かに集まり、ところどころ寄り合わさって、速度を増しつつ、カペラの背後から一斉に飛びかかった。察知したカペラは振り向きながらブレイドを一閃させ、これを端から端まで薙ぎ払った。が、この斬撃を逃れた一部がカペラの左の足首に到達して、あっという間に絡みついた。
それを端緒に、カペラの巨体をぐんと持ち上げると、一気に数十メートル上昇し、かと思えば急転直下し、床に叩きつけた。床は盛大に陥没したが、そこからさらに、今度は左右に振り回し、塔屋の壁に叩きつけ、折り返し、並び立つビル用マルチエアコンの室外機を薙ぎ倒した。
おまけに、膝のほうへ這い上がってこようとしている。
拘束されるとまずい。
ぶん回されながらも、カペラは体を捻り、自ら左足の膝下を切断した。
スピードがついたところでいきなり断ち切ったので、カペラの体は砲丸投げのように放物線を描いて飛んだ。屋上の端まで滑って、危うく落下しそうになるが、コンクリートの床に爪を立て、なんとか止まる。
左足がないのでうまく立てない。
ブレイドを杖代わりに身を起こす。
(問題ない。再生させろ!)
だがその隙を与えず、無数の枝がカペラに向かって狂走し、黒い高波のように迫る。
この機を逃すまいと。
絶対にここで仕留めるのだと。
殺意の塊となった枝を切り裂き、押し返すが、押し返した分、押し寄せてくる。
無尽蔵だ。アギトには果てがないのか?
(追いつかない。斬るだけではダメだ)
ベガやリゲルがいたなら――
三体いっしょだったなら、あるいは。
そんな考えが過り、一瞬、動きが止まりそうになる。
だが頭の中のカペラは毅然と言った。
(まだできることがある)
(……何ができる?)
(思い出せ。俺たちはなんのためにつくられたか)
そもそも私はなぜ。
ここに、この姿で。
(――〈煤の王〉を止めるため)
(夜光虫を覚えてるか?)
(夜光虫?)
波が肌を洗う感触で目が覚めたこと。
髪や睫毛の先から海水が滴り、雫が落ちて弾けたその場所が、滲むように青く光ったこと。
体に波がぶつかるたび、暗い色の水の中で青い燐光が灯っては砕けて拡散した。寄せては返す波頭も、近く遠く、悪夢のように青く光っていた。
(覚えてる)
(夜光虫はなぜ光ると思う?)
生物が放つ光がアリスティド放射光に似ているのはなぜなんだろうな。
なぜって?
(それが生まれ持った力だからだ)
(俺たちにも生まれ持った力がある)
そうだ。
この声が知っていることは、私も知っている。
何が言いたいかわかる。
私たちはそういう生き物なのだと。
(見せてやろう、俺たちがここにいるってことを!)
カペラの額の傷から漏れる青い光が、急激に燃え上がった。
松明のように。
しつこく頭部を狙ってまとわりついていた枝に火が移り、途端、枝は一斉にカペラから距離を取った。露骨なまでにざざざと退いていく。
火がついた枝は激しくのたうち回ったが、なぜか火は消えなかった。
しんしんと、枝を侵食していく。
カペラは身を起こした。
左足に〈煤〉が収斂し、失われた膝下が形成されていく。
そして、ゆっくり立ち上がった。
額の傷から溢れた青い火は頭部を覆い、背鰭に移って、順々に燃え上がって尻尾の先まで到達した。ブレイドもまた覆われていく。全身の外殻と外殻の隙間から、青い燐光が熾火のように覗く。
この火に熱はないのだった。
だから周囲の瓦礫などは燃えない。
枝だけが燃えている。
カペラの周囲の枝が、いや、巨木全体が、アギトが、戦慄した。
枝が顫動し、空気までもが震える。
カペラは地を蹴り、巨木の幹に肉迫した。背鰭の火がたてがみのようにたなびいた。燃え盛るブレイドを振れば、青い火の帯が生じ、刀疵がついたその場所に青い火が移った。返す刀でもう一度、深く斬りこみ、さらに斬りこんで、斬りこむたびに火勢が増す。
青い火は、まさに燎原の火のごとく、黒い巨木の先の先にまで及んでいった。
まとわりつく青い火を嫌がるように、樹全体がわなないた。
「燃える!……」
枝が軋む音にまぎれてしまうほど微かだったけれど、その悲鳴はたしかに響いた。
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