第6話 come and save me

6-1




 遥か高みで、青い光が閃き、消えた。

(リゲル……)

 哀しくてたまらない。

 せっかく会えたのに。

 この気持ちは、たしかに、そうだ、〈寒さ〉に似ている。

 起きなければ。

 だが指先さえ動かせないのだった。全身を粉々にへし折られている。

 そのうえ、高さ百二十メートルあるオフィス棟の屋上から、低層部の屋上まで、約九十メートルを真っ逆さまに落下し、防水処理された厚いコンクリートの陸屋根にめりこんでいる。今、自分が、ヒト型を保っているかどうかもわからない。

 仰向けに横たわるカペラの視界に影が差した。

 くぼみの底で動けずにいるカペラを覗きこんでくる者がある。

 尖兵型だ。

 なかなか銷失しないカペラの様子を注意深く窺っている。

 最初ひとつきりだったその影は、ひとつ、またひとつ、と増えていった。

 顔を見せている者だけではない。その背後に、無数の気配が蠢いている。

(集まってきてる)

 アギトに従いスカーラエビルにやってきた者たちが、この場に群がり、カペラの〈死〉を今か今かと待っているのだ。

 悪い夢のようだ。

 実はアストルムも眠るとき夢を見る。

 ずっと夢を見ていたのだろうか?

 海の底で見る夢……

(いいや。俺たちはあの海岸でたしかに目が覚めた)

 頭の中の声は揺るぐことなく言った。

 内なる自分はいつだって決然としているのだった。

(ずっと歩いてきたろ。それを否定するな)

(でも、やっぱり、こんなことは望んでなかったよ)

(そうだな)

(そう。でも……)

 カペラは目を閉じた。

 瞼の奥に青い光がちらついている。

(でも、やらなければ)

(そうだ)

 戦え。



 薄暗い指揮車の中に、甲高いアラームが響いた。

 異状を報せる警告音だ。

 飛び上がるほど驚いて、宇野真希葉は振り返った。

「なんだ⁉」

 すかさず今井が応えるが、「スカーラエビルで何かが露尾しています。でも、これは……」と、口ごもってしまう。

 笹本が引き継ぐ。

「マッキベンスケールが二万四千を超えています。こんな数値は……」

 歯切れの悪い観測官ふたりに焦れ、宇野真希葉は身を乗り出して質した。

「アイラスはなんて言ってるんだ!」

 今井は腹をくくったように声を張った。

「アストルム6・カペラです!」



 穴を覗きこんでいた尖兵型が一体、なんの前触れもなく、ぱかりと縦に割れた。

 左右に分かれ、それぞれゆっくりと倒れていく。

 その断面は磨いたように滑らかだった。

 たちまち崩れて〈煤〉に還っていくのだが、あまりにもスムーズに、音もなく断たれたので――まるで何かの自然現象のようで、だから、これを攻撃であるとすぐに認識できた者は、この場にはいなかった。周辺にいた尖兵型たちは、皆、ぽかんとしていた。

 穴の底から何かが這い上がってくる。

 周囲の〈煤〉を啜りこみ、質量を増しながら。

 ふちにずしりと一歩を踏み出し、姿を見せたそいつは――蹠行の足、煤色の外骨格を幾重にもまとった巨躯、鶏冠状の背鰭に、身の丈よりも長い尾――ベガやリゲルとそっくりだった。ただ、額には深く大きなヒビが入り、内部に灯る青い光が漏れて、炎のように揺らいでいた。

 そして手にはブレイドを提げていた。



 尖兵型の頭を巨大な手で握り潰しながら、九々庭が「わ~」と声を上げた。

 二千メートル離れているにもかかわらず、スカーラエビルから凄まじい引力を感じる。何か大きなものがそこにいる。体のサイズの話ではない。膨大な〈煤〉を受け容れ、それに応じた力を漲らせている何かだ。

 飛びかかってきた尖兵型を空中でひらりとかわし、「あれカペラだヨ」と百々縄。

 一発ぶっ放しながら、千々岩はウギーッと地団駄を踏んだ。

「なんでカペラが生きてるのだ!」

「外しちゃったかなあ?」と九々庭。

「んなわけないのだ! 絶対当てたのだ! ぜ~ったい、シュマリ器官に当てたのだ!」

 もう一発ぶっ放し、尖兵型を見事に吹き飛ばしたあと、千々岩はスカーラエビルをビシッと指差した。

「やつのシュマリ器官はなんかヘンなのだ!」



 低層部屋上にはすでに数十の尖兵型が集まっていた。

 カペラのすぐ右側に立っていた一体が、喉を震わせ、敵意剥き出しに吠える。

 が、その咆哮はぶつりと途切れた。

 背後に立っていた数体ごとまとめて、胸のあたりを水平に輪切りにされていた。カペラは、振り抜いたブレイドを翻すや、今度は左側に立っていた尖兵型の、肩から脇腹に抜けて、斬り下ろした。さらに踏みこみ、奥にいた二体をまとめて一刀両断する。尖兵型だけで止まらず、背後の壁まで一文字の刀疵が走った。

 ほんの刹那のことだ。

 攻撃されていることをやっと知覚した尖兵型たちが身構える。尻尾の穂先がカペラに向けられる。一方、カペラは、姿を消した。駆け抜けたのである。いきり立つ尖兵型の隙間を縫うように。電光石火だった。尖兵型は誰もそれを目で追うことすらできなかった。

 そしてカペラが陸屋根のふちに立った。

 途端、カペラが通った跡をなぞるように、コンクリートの床にすっきり切れ目が入り、その切れ目に沿って積み木がずれるかのごとく垂直に床が沈んだ。あとは重力のまま。素直に崩れゆく足場と共に、数十体の尖兵型はみんな階下に落ちていった。

 屋上に開いた大きな穴を、カペラは黙然と見下ろした。

 そのとき。

「なぜだ? シュマリ器官を割ったのに」

 アギトの声がどこからともなく降ってきた。

 重ねて、ガラスを掻く音が空気を軋ませた。

 屋上と最上階だけに蔓延っていた黒い枝が、インクを垂れ流すように、ガラスのカーテンウォールを這い降りてくる。鏡面に似た外壁はたちまち黒い枝で覆われ、低層部屋上の床もすぐに黒々と浸食されていった。

 目らしい目がどこかにあるわけではない。

 しかし、視線を感じる。

 あらゆる方向から、矯めつ眇めつ、眺められている。

 やがてアギトはなにやら得心したように呟いた。

「そうか。

 黒い枝が一斉に顫動する。

 聴覚に障るノイズが大気に満ちる。

 周辺を漂う〈煤〉がありったけ、風呂の栓を抜いたかのような急速な流れとなって、アギトに収斂されていく。と同時に、枝が暴力的なまでの勢いで増殖し、四方八方へ伸び上がった。それまではごちゃごちゃ絡み合った枝の集合体でしかなかったものが、今、整然と寄せ集まって、どうどうと太りながら聳え立ち、幹となる。

 樹だ。

 見上げても見上げても視界に入りきらないほどの巨木が、スカーラエビルに根を張り、暗雲のごとく木末を拡げている。

 スカーラエビルを中心とした一帯は深い陰となった。

 いまだ止まず吹きつける〈煤〉の中、アギトの声が雷鳴のごとく轟いた。

「だがもうどうでもいいことだ。アストルムはすべて今ここで〈煤〉に還す。たちどころに再生するというなら再生しなくなるまで破壊する。欠片ひとつ残さない!」



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