5-6
ひと気のなくなったビジネス街を、ベガはひとり歩いていた。
裸足が場違いだが、それを見咎める者もいない。
人間や自動車の流れがなくなったのと入れ替わりに、通りには〈煤〉が忍びこんでいる。
六月なので日は長いものの、そろそろ黄昏が近い。
晴れてはいるが大気には〈煤〉が満ち、西の空は陽が透けて砂色の薄皮を張ったようになっていた。
やがてスカーラエビル正面エントランスに辿り着く。
スカーラエビルの低層部は、戦前、ビルの高さは百尺までと制限されていた頃に建てられたもので、地上八階、地下二階、重厚感ある花崗岩の外壁がヨーロッパの近代建築を思わせる。一九九〇年代、大規模に改築され、地上二十六階、高さ百二十メートル、ガラスのカーテンウォールが眩しい現代的な高層部・オフィス棟が建てられたが、ファサードは残され、古きビル街の名残を留めていた。
現在、低層部には、国際会議も開催できる広大なカンファレンスセンターや、企業や公益財団法人が運営するギャラリーなどが入っており、毎日のように多くの人間が出入りしているという。
だが今は誰もいない。
ベガは正面エントランスに足を踏み入れた。
自動ドアは何事もなく開いた。
エントランスホールは改築前の内装が保存されており、クラシックな趣が残る。五階まで見通せる大きな吹き抜けがあり、高い天井に張られた白緑色の天窓からは自然光が降り注ぐ。そして正面には、大理石の大階段が優雅に広がる。
ベガはこの象牙色の大階段を前にして足を止めた。
いる。
円柱の陰に、エレベーターホールの奥に、吹き抜けを見下ろす回廊に、そして、オフィス棟へ続く通路に――煤色のでかぶつが、顔を覗かせ、尾をふらふらさせて、こちらを窺っている。低い唸り声を漏らしながら。
穏健派も殲滅派も関係なく、本能だけでここに集まってきた連中だ。
アギトの役に立ちたがっている連中だ。
一様に、ひりつくような殺意をベガに向けている。
勾配の緩い大階段を、尖兵型が二体、身を低くして降りてきた。
他の場所にいる尖兵型も、物陰から出て、にじり寄ってくる。
大きな鉤爪のついた趾行の足を、音もなく動かして。
大階段の二体が、静寂を破り、ベガに向かって駆けだした。
と同時にエントランスホールの中で〈煤〉が風巻き、ベガに集中した。ベガの体が訓練服を引き裂きながら膨れ上がる。背骨に沿って鶏冠状の背鰭が並び、腰からは身の丈よりも長い尾が伸びる。煤色の外殻が全身を覆う。露尾しながらベガは、飛びかかってきた尖兵型の一体をカウンターで殴り飛ばした。そして突っこんできたもう一体の尖兵型の鉤爪をかわすと腕を取り、首投げで床に叩きつけた。
立ち上がり、外殻に絡みついた訓練服の残骸をむしり取る。
そのベガに、他の尖兵型たちが、まとめて押し寄せてきた。
突進してきたやつをいなし、別の方向から突進してきたやつの頭部を大理石の円柱に叩きつけて圧し潰す。ベガに向かって腕を振り上げたやつの懐に逆に飛びこみ、胸殻を貫く。腰に組み付いてきたやつの頸を掴んで握り潰す。至近距離から尾が槍のように飛んでくるが、これを鷲掴みにして止めると、引き寄せて把捉し、尖兵型そのものをハンマー投げのごとく振り回した。スピードが乗ったところで手を放し、他の尖兵型数体にぶつけて薙ぎ倒す。
二メートル超の怪物たちが殺し合うので、都会のど真ん中の洗練されたエントランスホールは見る見るうちに穴だらけヒビだらけになっていった。
姿を保てなくなった尖兵型がどんどん銷失し、〈煤〉が濃くなっていく。
その〈煤〉を割って、どこから湧いてきたものか、新手の尖兵型がぞろぞろと姿を現した。
きりがない。
こんなところで時間を喰ってもいられない。
ベガの周囲に、ふわり、と薄く広がる何かが生じた。わずかな空気の流れにも揺らめく柔らかな煤色の膜は、水の中の魚のように宙を滑ると、尖兵型数体の足もとに密やかに絡みついた。これに気づかず走りだそうとした尖兵型は足を取られ、まとめて一斉に転んだ。
大きく広がり、ベガの体をやんわり包みこむ。
煤色をしたベイルは〈煤〉に溶けこんでしまい、境目すらわからない。
たちまち尖兵型はベガを見失った。
ベガは近くにいた尖兵型の頭を踏み台にして高くジャンプし、三階の回廊に転がりこんだ。ベイルが天窓に向かって走り、フレームに何重にも絡みつく。ベイルを腕にしっかり巻きつけて、綱引きするかのごとく引っ張り、床材が割れるほど強く踏みこむ。と、エントランスホール全体を震わすような音と共に天窓が天井から外れ、遮るものもないので、一階まで真っ逆さまに落下した。淡いグリーンに色づいたガラスが弾けて砕け、きらきら輝きながら、そこにいた尖兵型を何体も圧し潰した。
ベガは、天窓がなくなってぽっかり空いた穴から、外に出た。
低層部の屋上に上がって、オフィス棟を見上げる。
遥か高みに、黒い梢がある。
ベガは助走をつけ、オフィス棟の外壁を駆け上がった――倍強度ガラスのカーテンウォールである。手掛かり足掛かりになるものはない。また、多少強度があるとはいえやはりガラス、ベガの体重を支えられるはずもなく、爪を立てる端から割れていく。だからベガは、ガラスが割れ落ちる速度よりも速く、獣じみた動きで四肢を掻いてカーテンウォールを這い上がっていった。ベガが通ったあとにはガラスの破片が霰のように降った。
垂直に九十メートルあまりを一気に駆け、屋上によじのぼる。
と同時にベイルを広範囲に展開する。
高所の風を孕んでベイルは大きく膨らんだ。
これをスフィアが貫いたが、ベイルが覆っているせいで中身のベガには届かない。
「アギト、手を出すなよ!」
と、リゲルが進み出る。
リゲルの周囲にスフィアがいくつも形成されていく。
「ベガ、それ以上動くな! 人質を殺すぞ!」
ベイルがふわりと開き、ベガが姿を現す。
「おまえにはできない」
「いいや、俺はなんだってする! 信太陽子に会うためなら!」
ベガが纏う
次の瞬間。
ベイルが半ばで断たれ、はらりと萎れた。
スフィアもまた真っ二つに割れ、高い音を立てて屋上の床に落ちた。
叩き斬られたように。
ベガとリゲルは同時に同じ方向へ目を向けた。
彼らの視線の先に、青年がひとり立っている。
手に
――カペラ!
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