5-4
寒い。
どうしてこんなに寒いのだろう。ずっと寒いのだ。
最初は、冬だから寒いのだろうと思っていた。
でも、冬が終わっても、ずっと寒い。
今は六月で、気温はそんなに低くないのに。
寒くてたまらない。
どうしてだろう……
「千々岩三兄弟が来てるな」
隣に立つアギトが呟いた。
露尾したリゲルと並ぶと、アギトは本当にほっそりして見える。
スカーラエビル二十六階、東京の街を見下ろすガラスの際に、リゲルとアギトは並んで立っていた。こんなところにいれば、NAGIAはもちろんマスコミなどが向けるカメラにも撮られるだろうが、それはもう構わない。こちらは逃げも隠れもしないのだということを示すことにもなる。もしかしたら、信太陽子にも届くかもしれない。
リゲルはぼんやりと訊き返した。
「……ちぢ?」
「千々岩三兄弟。特別指定媒棲新生物第7号。二〇一二年に自分たちの意志で投降し、以来、NAGIA日本に協力している。今回のこの非常事態に駆り出されたようだな」
「ウラグのくせにNAGIAに協力を?」
「やつらにはやつらにしかできない役割がある。やつらはそれをよくわかっていて、もっとも効率的なやり方で果たそうとしている。私は好きだね」
背後からは呻き声や啜り泣く声が絶えない。
フロア全体にみっしり張り巡らされた黒い枝には、無数のプルウィス製薬社員が、蜘蛛の巣に捕らわれた小さな羽虫のごとく引っかかり、固定され、哀れに震えていた。全部で何人いるかは数えてないのでわからない。座っている者もいれば立っている者もいる。長時間ずっと同じ姿勢でいるので、そろそろ苦痛を感じる者も出ているだろう。アギトは彼らに前もって「窮屈だろうが人数が多いからひとりひとりの要望は聞いていられない」と言い放っていた。「構わないから排泄はその場でしろ」とも。
アギトは、数十のデスクが並ぶ広い執務室だけでなく、会議室や応接室などの細かい部屋にまで枝を伸ばしていた。二十六階と二十五階、二フロア共だ。一体どこまで枝を広げられるのか。まさか無尽蔵というわけではあるまいが。
恐ろしいものと手を組んでしまったのだということは、よくわかっている。
だがもう引き返せない。
「だがまあ私たちの邪魔をするならお相手するのはやぶさかでない」
そう呟くと、アギトの体はぐんと持ち上がり、足が床から浮いた。
バキバキ、パン、パキ……
細く硬いものがこすれ合い、軋み、あるいは折れる音。
黒い枝がアギトを支え、粘菌のごとく柱を這い上がり、天井を覆う。
すぐにアギトの頭はリゲルよりも高くなった。
「狙撃に気をつけろ。やつらは超長距離から当ててくるぞ」
「狙撃」
「そう、一月にカペラを狙撃したのはおそらくやつらだ」
「……」
アギトはくすくす笑いながら、背後からリゲルの肩に手を置いた。
女性のそれのように嫋やかな手である。
「なぜ連中がアストルム三体のうちカペラを真っ先に狙ったかわかるか?」
「一番強いから」
リゲルは即答した。
アギトの口元がにゅうっと歪み、おそらくこれは笑ったのだ。
アギトはそして、蛇のように囁いた。
「きっとベガも来る。気を抜くなよ」
黒い枝はなお蔓延り、バキバキミシミシと不穏な音を立てながら、密度を増した。
押し寄せる枝に耐えかねて天井にヒビが入り、すぐに砕けた。広がっていく穴から〈煤〉で曇る空が見える。アギトはコンクリートの天井を崩し、めくり上げながら屋上に這い出すと、空に向かってさらに伸び上がった。黒い枝は条々と乱れ茂り、幾重にも嵩んだ。そうして屋上の半分近くを木陰で暗くした。
スカーラエビルに寄越された先遣隊のひとつ、中川丙二等官率いるNAGIA日本本部配備SAKaU第六分隊、通称〈中川隊〉は、スカーラエビルの中にいた人々の避難誘導に当たっていた。
中川隊に所属する白熊丁二等官、勤続二年目の二十三歳は、スカーラエビル関係者数名を、外に誘導しているところだった。緊急停止してしまった北側エレベーターに何時間も取り残され、ついさっきようやく救助された人々である。
裏口から出て、ビルの壁伝いに移動しようとしていたときだ。
遥か頭上で、地響きのような音がした。
同時に、尋常でない振動が壁面を震わせ、地面まで揺らした。
全員思わず足を止める。
このときちょうどアギトが屋上を突き破り、空に向かって枝を伸ばしたところだったのだが、そんなこと地上にいる者は知る由もない。
たちまち瓦礫がぼとんぼとん降ってきて、白熊は叫んだ。
「走ってください、走って!」
その指示に従って全員が駆け出す中、初老の男性がひとり、派手に転んだ。
中年の女性が足を止め、助け起こそうとする。
先頭を走っていた白熊はこれに気づくと取って返し、女性と共に男性を起こそうと身をかがめた。が、そのとき、野球ボールほどもある瓦礫が、白熊のSiriusL09に直撃した。
高性能な衝撃吸収ライナーのおかげで中身は守られたが、シールドが割れ、顔の大部分が露出してしまった。たとえ割れても粉々にならないような加工がされているため、破片で目や肌が傷つくことはなかったものの、視覚情報を補助するものがなくなり、おまけに〈煤〉は直接吸いこむはめになり、この時点で白熊はかなり動揺してしまった。
誰かが悲鳴を上げた気がした。
ふっと周囲が暗くなり、何かが降ってくる圧を感じた。目を真上に向けると、巨大な瓦礫が白熊たちのまさにその頭の上に落下してくるところだった。縦も横も数メートルある分厚いコンクリート塊だ。鉄骨が飛び出し、鉄筋が張り巡らされていて、何トンあるか見当もつかない。
あっまずい。
白熊の脳裏に死が過った。
コンクリート塊は瞬く間に迫り、轟音があたり一帯を揺るがし、土埃が舞う。
が、白熊たちは潰されなかった。
「えっ?」
へたりこむ白熊のそばに立っている者がいる。
特筆することもない普通の青年だ。
しかし、だ。
彼は巨大なコンクリート塊をひとりで受け止め、かつ、立っていた。
現実とは思えない光景だった。白熊は唖然とこれを見つめた。
青年の足もと、歩道を舗装するタイルは、重さに負けて、割れて沈みこんでいる。コンクリート塊は間違いなく重いのだ。にもかかわらず、青年はその重量に耐えているのだった。
誰だ?
いつの間に来た? どこから来た?
さらには白熊のほうに顔を向け、はっきりと言う。
「行け!」
瞳孔の周りが明るい色、虹彩のふちが濃い色――
資料で見たリゲルにそっくりだ。だがリゲルのはずはない。リゲルは露尾してアギトと共に最上階にいるはずだ。ではベガか? ベガとリゲルは同じ顔をしているという。
ただ、目の前の彼は、リゲルと違って、額に大きな傷が刻まれていた。
で、なぜか裸足だった。
「行け! 崩れる!」
白熊はハッと我に返った。
あたりにはビシビシと異音が響いていた。コンクリート塊が、自重で瓦解しそうになっているのだ。
「早く行け!」
その声に叱咤されるように白熊は立ち上がり、転んだ初老男性を抱えるとほとんど引きずって、中年女性と共に、コンクリート塊の影から逃れた。
途端、コンクリート塊は半ばからへし折れ、連鎖的に端までガコガコ崩れてしまった。
青年はそのまま下敷きになったが、白熊にはなすすべもない。スカーラエビル関係者たちも、言葉もなくこれを見守るしかなかった。
目の前の惨事に、白熊は足がすくんだ――
という沈んだ空気も束の間、まもなく青年は瓦礫の隙間からひょいと顔を出すと、周囲の瓦礫をゴロゴロどかし、鉄骨を押しのけて、這い出してきた。
あれだけの瓦礫の下敷きになりながら、しかし青年はけろりとしていた。
「助けた?」
などと訊かれ、白熊は呆気に取られた。
さらに「大丈夫?」と訊かれ、ようやく、こくこく頷く。
青年はにこっと笑うと「よかった」と言った。
マジで誰なんだ……
困惑している白熊に背を向け、青年はその場を去ろうとする。
白熊は咄嗟に小銃を構えた。
「待て、止まれ!」
青年は目を丸くして立ち止まった。
白熊は慎重に訊いた。「何者だ」
青年はおろおろしていた。「あの」
「ねえねえ、ちょっと、なんでなんで?」と白熊に声をかけたのは、白熊と共に初老男性を助けた中年女性だ。ひっつめ髪に、ふちなし眼鏡。どこにでもいる普通の女性。首からプルウィス製薬オリジナルのストラップで社員証を下げている。
「どうして銃を向けるの? この子、私たちを助けてくれたんじゃない」
他の者たちも、そうだそうだ、と口を揃えて頷いた。
これを聞いて、青年は驚いたように目をぱちくりさせ、それから、にこっと笑った。子供みたいにあけすけな笑顔だった。
「ありがと」
ストレートに感謝され、スカーラエビル関係者たちは、ちょっとはにかんだ。
その場にいる、白熊以外の者たちで、なんだか連帯が生まれているようだった。
「……」
白熊は銃を下ろした。
銃を構えているのがバカらしくなったのだ。
そんな白熊に近づいて、青年は上方を指差した。
「上にリゲルがいる?」
白熊は口ごもった。
アストルムに関することは機密だ。部外者にぺらぺらしゃべるわけにはいかない。
だが、こいつはアストルムを知っているようで、というか、アストルムと同じ顔をしている。無関係なわけがない。
どうすればいいのか。
迷っているあいだに青年は質問を重ねた。
「あの樹みたいなウラグは何? 三樹?」
「……三樹そのものではない」
「暫定呼称は?」
「アギト」
なぜか答えてしまった。
青年は上方を見て呟いた。
「アギト……」
そうして、歩きだした。
白熊は一応訊いた。
「どこへ行くんだ」
瓦礫の上で立ち止まり、青年は振り返った。
「みんなを連れてできるだけ遠くへ逃げろ」
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