5-2
寺の裏手の草刈りを終えた早見さんは、住居前の立水栓で除草剤を希釈し始めた。ホースでポリバケツに水を貯め、濃縮除草剤を投入する。
今日は朝から〈煤〉が薄い。青空も見えて、気持ちのいい日だ。
住居の玄関ドアが開き、二代目ハナちゃんを抱いたひなたが顔を出した。音が止んだから見に来たのだ。草刈機を使っているあいだは家の中にいるように言いつけられている。でも本当は、草刈りしているところを見たくてうずうずしているのだ。
足もとには草刈機や除草剤が置いてある。
早見さんは顔を上げた。
「ひなた、それに触っちゃ――」
半開きの玄関ドアの向こうから、巨大なウラグが半身を覗かせていた。
ひなたはこれに気づかず、ウラグに背を向けたまま、早見さんのほうへ歩いてきた。
その巨体に反して、ウラグはひどく静かに動く。
ひなたのあとを追うように趾行の足を踏み出す。
早見さんが取り落とした散水ノズルが、ガチャンと地面で跳ねた。
驚いて足を止めたひなたを引き寄せて抱きかかえ、早見さんは後退った。
これに合わせてウラグは足早になった。
「待て! 待て! 聞け!」
ウラグは動きを止めた。
野生動物と違うのは、大部分のウラグは人間の言葉がわかる、ということだ。話しかければ耳を傾けるし、思考は人間より素朴なので、そのウラグが欲しがっているものを与えれば、回避できる場合がある――とは、ウラグ対策としてよく言われていることだった。
ひなたはここでようやくウラグに気づいたが、父親に強くしがみついただけで、声を殺してじっとしていた。ウラグに遭遇しても騒いではいけない、と言い聞かされている。恐怖で固まっているだけかもしれないが。
「何が欲しい? 何が目的だ?」
SAKaUに通報しなければ。
モバイルはポケットにある。
取り出して電話をかけられるか?
それとも逃げたほうが早いか? 逃げられるだろうか?
鋭利な穂先を持つ長い尾が、鎌首をもたげた蛇のようにふらりと揺れた。
ウラグは流暢に、そして穏やかに答えた。
「知りたい」
「何を……」
「人間に価値があるかどうか」
早見さんは息を呑んだ。
氷を抱かされたような心地がした。
人間に価値があるかどうか?
「たくさん勉強したけどわからなかった。勉強すればするほどわからなくなった。人間に価値はあるのか?」
ウラグはゆっくり振り返った。
少し離れたところに、立っている者がいる。
カペラ。
「おまえは人間を守っている。人間に価値を見出しているということだ。人間にはどんな価値がある?」
カペラは手に細長く薄い何かを提げていた。
刀を思わせる森厳とした輪郭。
だが鉄ではない。木材でも樹脂でもなさそうだ。
磨いた黒鉛のような光沢がある、あれは、〈煤〉の色だ。
「教えてくれ」
ふらふらしていた尾の先端が、不意に狙いを定め、途端、早見さんに向かって走った。
早見さんは身を固くした。無意識にひなたを抱きこんでいた。
尾が父娘に届く――直前で、尾の先端は本体から斬り離され、宙を飛び、スピードそのままで勢いよく地面に叩きつけられた。
ハッと顔を上げると、すぐ目の前にカペラがいた。
いつの間に移動したのだろう。一瞬前まで、離れた場所にいたのに。
ウラグは、尾と同時に、胸殻も真一文字に斬り裂かれていた。
あの岩のように硬そうな外骨格が深々と、かつ滑らかに劈開し、その内側で燃えている青白い燐光が露出していた。
「なぜ人間を守る?」
ウラグはなお問いかける。
答えの代わりに、カペラは振り向きざま武器を翻した。
それらしい音はなかった。ウラグも微動だにしなかった。だが、ウラグの頸には切れこみが走り、その切れこみから頸がずれ、頭部が地面にどかりと落ちた。
頭を失ったウラグの体は端から崩れ始めた。
ウラグ一体分の大量の〈煤〉があたりに立ちこめる。
カペラはそれをじっと見ていた。
早見さんは凍りついたように動けなかった。
やがて、カペラは武器を放り捨てた。
地面にガランと落ちた武器もまたさらりと崩れ、ウラグの〈煤〉と混ざり合いながら風に流れた。
煙る〈煤〉の只中にいるカペラが振り返り、口を開いた。「ごめんなさい」
「……え」
「俺のせいです」
どういうこと、と呻くと、カペラは墓地のほうへ立ち去った。
その背中を見送りながら、早見さんはやっと立ち上がった。
膝が笑っている。体の芯から震えがこみ上げて止まらない。
ひなたも早見さんにしがみついて離れない。
なんだったんだ、今のは。
今のは……
いくらもしないうちに、カペラが墓地のほうから戻ってきた。
腕に、だらりとして動かない伴くんを抱えている。
これを見て早見さんはまた慄いた。
早見さんとひなたの脇を通り過ぎ、カペラは、大玄関の前に停められていた軽トラの荷台に、伴くんを横たえた。
「伴くん……」
確かめるまでもない。死んでいる。
腹部から大量に出血し、アロハシャツも血で重く濡れていた。
さっきのウラグがやったのか?
何があった?
動揺する頭では何も考えられなかった。
「ごめんなさい」とカペラがもう一度言った。
「……なんで?」
「もうここにはいられない」
カペラはじりじりと後退る。
早見さんはそれを目で追った。
「君は、」
ぎゅっと固唾を呑む。
訊くべきではないのかもしれない。
でも。
「君は何者なんだ……」
カペラは答えなかった。
ただ、ひとつ頭を下げた。
「お世話になりました」
きびすを返し、立ち去ろうとする。
ひなたがか細い声を上げた。
「カペラくん」
足を止めて振り返ると、カペラは哀しそうな目をひなたに向けた。
「ごめんね……」
そうしてカペラは門から出ていった。
呼び止めることはできなかった。
早見さんはひなたの手を握ったまま立ち尽くしていた。
陽が雲に遮られ、道が翳る。
頭の中のカペラが囁きかける。
(これからどうする?)
わからない。
人間と共にはいられない。
自分は人間ではないから。
だからといってウラグのように生きることもできない。
人間を放っておく、もしくは、殺す、なんてことは。
カペラは集落を縦断する県道をとぼとぼ歩いていた。
交通量は多くない。時折カペラを追い抜いていく自動車も、いずれものろのろと元気がない。
足もとに目をやる。
買ってもらったグレーのスニーカー。
大事に履こう、と改めて思う。
やがて見えてきた橋の手前に、年季の入った小売店が建っている。
正面上部に掲げられた古めかしい看板には〈いつき商店〉とある。
この集落に来てから毎日のように通った店だ。
「よお、カペ太」
背後から声をかけられた。
わざわざ屋外でテレビを観るのが好きな老人。
物言わぬ奥さんの手を引き、今も〈いつき〉に向かう途中らしい。
ケンさんはカペラの腕を指差した。
「その血どうした」
カペラの腕には伴くんの血がべったり付着していた。
不審がられても仕方ない。
「……これは」
「まあ血くらいどこでだって付くよな」
ケンさんはあっさり言った。
奥さんの手を引いて、意気揚々と〈いつき〉へ向かう。
「さあ、来い。テレビを観よう。テレビを観るんだ。俺たちはテレビ観なきゃならねえ」
血のことは本当にどうでもよさそうだった。
ケンさんは、ほら来い! テレビ観るぞ、テレビ、テレビ、と連呼しながら歩いた。振り切るのも面倒で、それに、どうせ行くあてもないし、カペラはケンさんに付いていった。
〈いつき〉の搬入口前のスペースで、いくつか並べられた椅子のひとつに座り、ケンさんが奥さんを座らせるのを、見るでもなく見る。
ケンさんの奥さんがしゃべっているところを見たことがない。いつもこうして人形のように静かにちんまり座っている。
もしかしたら、アクガレになりかけているのかもしれない。
ケンさんが、テレビ本体の電源スイッチを押した。
古いブラウン管テレビなので、像を結ぶまでにタイムラグがある。画面はまだ暗いままで先に音声が流れだすが、それは『ご覧ください』という切羽詰まった女性の声だった。
『ビル内が黒い樹のようなもので覆われています。NAGIA日本の発表によるとあれはウラグの一種であり』……
ウラグによる大きな事件が起こったらしい。
映像がようやく鮮明になってくる。現場からはかなり離れたどこかのビルから、望遠で撮影しているらしい。たしかに、高層ビルの最上階あたりを、黒い樹のような何かが鬱蒼と覆っていた。厭世的な空中庭園のようだった。東京都心にあるスカーラエビルという建物らしい。
樹の姿をしたウラグ。
なんとなく、三樹を思わせる。
中継先のリポーターとスタジオの司会者は、もたらされる情報が少ない中、同じような内容を何度もくり返し報じていた。
プルウィス製薬の社員が大勢人質に取られ、対応に当たったSAKaUにもすでに犠牲者が出ていること。ウラグの要求がどういう内容だったのかは公にされていないこと。スカーラエビルを中心とした半径二百メートル内にある建物すべてに避難指示が出ていること。
警察やSAKaUの誘導に従って、落ち着いて避難してください……
それまで黙っていたケンさんがグフグフと咳きこむように笑った。
「地獄だ、地獄」
「……地獄?」
「ああそうだ。どう考えてもそうだ。鬼が人間を殺して回って、亡者がうろついて、あたり一面血の海だ。この世は地獄だ」
そう言って、奥さんの手の甲をぽんぽん叩いた。
「なあ?」
『あっ、あれはなんでしょう、立てこもっているウラグでしょうか』
リポーターが声を高くし、カペラも反射的に画面を見た。
黒い樹の枝を掻き分けるようにして、一体のウラグが窓際に姿を現す。
これを見た瞬間、頭の中のカペラが戦慄した。
(リゲル!)
あれが?
尖兵型とは違う、人間に似た姿。
〈煤〉越しに見るそのシルエットは、鎧をまとった古の騎士のようでもある。
撮られていることに気づいているのか、凝立して、こちらをじっと見ていた。
(どうして……)
自分と似た生き物が人間を傷つけている。
おそらく人間にもウラグにも止められないだろう。
しかし。
(俺には何もできない。伴くんのことだって助けられなかったんだから)
テレビの画面から目を逸らし、膝の上で手を握り締める。
それでもリポーターの悲愴な声は耳に届く。
(遠い世界の話だ。目を瞑り聞かなかったことにすればそれで終わる。誰も俺がここにいることを知らないんだから。誰も俺に期待なんかしてないんだから)
(そうだな)
(……そうだ)
(この体を動かせるのはおまえだ。何を言い、何をするか。おまえが決めるんだ)
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