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 集落でウラグを見かけたことはない。ここのように、住人みんなが顔見知り、みたいな狭いコミュニティだと、入りこむ余地がないのかもしれない。

 アクガレはときどき見かけた。大きな群れで県道を行進していることもあれば、二、三体で田んぼ沿いの道をふらふら歩いていることもあった。集落の高齢者たちは、アクガレを見ると「亡者だ」と眉をひそめ、屋内に引っこんだり道を変えたり、露骨に忌避した。

 カペラはいつしか買い物をひとりでできるようになった。

 まだ若干もたもたしているものの、注文の品が書かれたメモを片手に〈いつき〉で買い物したあとは、搬入口前のスペースで、ケンさんたちと並んでテレビを観ながら、早見さんか伴くんが軽トラで拾ってくれるのを待つのだ。そして、購入したものを利用者に届け、対価を得る。

 利用者に「助かった」と喜んでもらえるのは、やはり嬉しいものだった。

 ふたりにくっついて集落を回るうち、カペラはいろんなことを知った。

 スズメバチを見たらとりあえず逃げたほうがいいこと。蛍光灯は全部同じように見えるけど実はたくさん種類があること。買い物するときはポイントカードを出すとポイントが貯まってちょっとお得なこと。集落内で誰かとすれ違ったときはとりあえず「お疲れ様です」と言っておけば間違いないこと。伴くんは東京に出て働いていたけど数年前にお母さんが亡くなってからこの集落に戻ってきたこと。

〈煤〉が薄い日を見計らい、寺の裏手にある墓地を、少し整備しようということになった。

 夏になる前に、できるだけ雑草を取り除き、除草剤を撒くのだ。

 カペラと伴くんは、鎌や軍手やゴミ袋などの道具を携え、墓地に入った。

 伴くんがにやにやしながら訊いた。「大丈夫? お墓怖くねえ?」

「お墓? 怖い? なんで?」

 あまりひとが立ち入らなくなった墓地は、たしかに荒んだ雰囲気だけれど。

 でも、野犬もウラグもやばそうなひともいない。怖いということはなかった。

「なんでって、死んだひとが埋まってるし」

「? 死んだひと、怖くないよ。死んでるから」

「ははは、そっか」

 などと言いつつ、カペラと伴くんは作業を開始した。

 早見さんは、寺の裏手の法面に繁茂する雑草を、草刈機で刈っている。エンジン音と草が断たれる音がバリバリと途切れなく聞こえてくる。墓地のほうもそれなりに範囲が広いのだが、万が一にも石を傷つけてはいけないため、草刈機などは使えないのだ。

 ふたりでしゃがみこんで作業をして、伴くんはときどき立ち上がっては「あ~」と呻くように足腰を伸ばしていたが、カペラは平気だった。草をむんずと掴んで鎌でブツリと刈ったりズボリと引っこ抜いたりするのはなかなか面白く、夢中になって黙々と作業していた。

 カペラが張り切ったためか、作業は順調に進んだ。

 大きな区画を大体済ませたところで、除いた草を集めにかかる。

 見ていると、お墓にもいろいろ種類がある。

 大部分は、直方体の石に「○○家之墓」や「南無阿弥陀仏」と刻んであるのだが、プレート状の石に「心」とか「感謝」といった単語、あるいは、長い詩のようなものを刻んでいるものもあった。そうして眺めていたとき、「魂ここに眠る」と刻んであるものが目についた。

 カペラは目をぱちくりさせた。


 魂ってなんだ。


 知っているようで知らない言葉だ。

 魂は「眠る」ものなのか?

 墓地に魂はあるのか?

 人間は魂の所在を知っているのか?

 我知らず口にしていた。

「魂ってなんだ」

「魂ってのはなあ、何を言い何をするか、だぜ!」

 カペラはハッと伴くんを見た。

 答えのない難問であるような気がしていたのに、あっさり答えが返ってきて、驚いたのだ。

 伴くんは、顔を上げ、胸を張って言った。

「って、俺の母ちゃんは言ってたぜ!」

「……かーちゃん」

 伴くんは「そうそう」と言いながら、箒を手に取った。

 今日は、パンノキ柄のアロハシャツを着ている。

「俺の母ちゃんは、昼は宅配ドライバー、夜は場末のバーで働いて、俺を女手ひとつで育てたんだけどさ。俺がガキの頃、こんな田舎では特に、そういうシングルマザーってのは色眼鏡で見られたんだ。色仕掛けで営業かけてるとかな。んなわけねえのによ。母ちゃんは、息子が言うのもなんだけど、美人だったからさ、なおさらな」

 伴くんは、しゃべりながら箒をざかざか動かした。

 てきとうにやっているように見えて、実に手際よく草の欠片を集めていく。

 いつしか草刈機の音は止んでいた。

 あちらも作業が一段落したのだろう。

 風が吹いて周囲の木々がさざめく。

「だからまあ母ちゃんはしなくていい苦労をいろいろしてきたひとだった。

 よく言ってたぜ。人間なんて結局のところ腹の中では何考えてるかわからねえもんだし、すべてを理解する必要もねえ、信じるべきなのはそのひとが実際に何を言って何をしてるかだ、それがそのひとの魂ってことだ、ってな。

 いいこと言うだろ?」

 伴くんがニカッと笑った、そのときだ。

 頭の中のカペラが叫んだ。

(来るぞ!)

 カペラは持っていたゴミ袋を放り投げて伴くんの前に滑りこみ、伴くんの頭部めがけて飛んできた何かを、殴り落した。石畳にガツンと叩きつけられたのは、人間の頭ほどある大きな石だった。

「え、何?」伴くんは唖然としている。

 石が飛んできたほうを見る。

 墓地の裏には雑木林が拡がるが、長らく間伐も何もされていないため、草木が生い茂り奥まで見通せない。そんな鬱蒼とした緑をガサガサ掻き分けて、男性がひとり姿を現した。

 さっぱり短くした髪は一部削れ、地肌が見えている。作業着の上下もあちこち擦り切れ、黒っぽく汚れていた。事故の跡だ。彼は四トントラックに撥ねられ、その後いくつもの車に踏みつけられた。

 そして、右腕の肘から下がない。

 カペラが斬り飛ばしたからだ。

(あいつだ)

(どうして。なんでだ?)

 作業着のウラグはそのまま墓地に足を踏み入れ、カペラたちのほうへ歩み寄ってきた。彼に向かって周囲の〈煤〉が収斂し、すでに露尾し始めている。

 カペラは背後の伴くんに叫んだ。「逃げろ!」

 伴くんは後退った。「なんだ? あれウラグか?」

 吹き集まる〈煤〉の中心で、作業着のウラグの体がぐんと大きく膨らむ。足が伸び、頸が伸び、牙が伸びる。バキバキと音を立てて全身が暗色の外骨格に覆われ、背骨に沿って背鰭が盛り上がり、腰からは、脚よりも太い尾が長々と伸びた。その先端は槍の穂のごとく鋭い。膨張に耐えきれず作業着が裂けるが、頑丈な生地なので千切れず、外殻に絡みつくようにしていくらか残った。

(でかいぞ!)

 たしかにでかい。

 同じ尖兵型でも、瓢箪頭のウラグが露尾した姿より、ひと回りも大きいようだ。

 軋んだ音を立て、欠けていた右腕が伸びゆき、鋭い鉤爪までもが形成される。

 両腕を大きく広げたウラグは墓地を揺るがすような咆哮を上げ、力余ってすぐそばの墓石をまとめて何基か薙ぎ倒した。

 伴くんが息を呑む気配がする。

 ウラグは駆けだし、強靭な脚力で、ほんの数歩でカペラの前まで迫った。

 生え変わったばかりの右腕がカペラに振り下ろされる。カペラはこれを受け止めた。すかさず左腕も振り下ろされるが、これも受け止めた。両手で組み合い、一瞬、拮抗するが、体格で勝るウラグがカペラを振り回し、横手に投げ飛ばした。カペラの体は煤けた石灯籠や朽ちかけた卒塔婆をいくつも薙ぎ倒して、ようやく止まった。

 伴くんが叫んだ。「カペラ!」

「固有名詞があるんだな」

 倒れこむカペラを見下ろしながら、ウラグは言った。

「人間みたいだ」

 きびすを返し、伴くんのほうに向かおうとする。

 カペラは咄嗟に腕を伸ばしてその尾を掴み、ぐんと引き留めた。

 引き留められたウラグは、振り返って言った。

「やはり人間を守るのか」

 ウラグは、すぐそばに建っていた墓石を両手でズシリと持ち上げると、カペラに向かって振り下ろした。尾をがっちり掴んでいたのでよけられず、百キロはある石ひとかたまりをまともに喰らった。

「なぜだ? わからない。なぜ人間を守る? 知りたい。知らないままではいられない。これは大事なことだ」

 などと言っているわりに手を止める気はないようで、墓石を持ち上げては、カペラを挽き肉にせんばかりに何度もズシンズシンと振り下ろす。カペラは耐えていたが、カペラの体の下にあった敷石が粉砕され土がえぐれた。

(このままだとまずい。戦え)

(どうやって)

(尖兵型のシュマリ器官は胸だ。胸の真ん中を狙え)

 スチールのちりとりがウラグの背中の外殻にガンと当たった。

 伴くんが投げたのだ。

 ウラグはようやく手を止め、振り返って伴くんを見た。

 蒼白になった伴くんは、しかし逃げださず、今度は箒を振り上げた。

「こっちだ! こっち!」

「どうしても知りたい」

 ウラグは墓石をドスンと捨てた。

 カペラはもう一度叫んだ。「逃げろ!」

 長い尾が鞭のようにしなり、伴くんの脇腹を貫いた。

 衝撃で伴くんの首はがくんと曲がり、手にしていた箒はどこかへすっ飛んだ。

 尾に持ち上げられて足が宙に浮き、そのまま振り回され、すっぽ抜けた伴くんの体は石畳に叩きつけられると、鞠のように跳ねた。その軌跡に鮮血が散った。

 カペラは飛び起きると、そばに転がっていた石灯籠の一部を掴み、ウラグの膝裏に叩きつけた。ウラグはよろけ、前かがみになった。晒された後頸部に石灯籠を振り下ろすと、硬い御影石が砕け、ウラグは地に伏した。その隙にカペラは伴くんに駆け寄った。

「伴くん!」

 脇腹からどくどく血が溢れて、石畳を浸している。

 仰向けに倒れた伴くんは、ほとんど途方に暮れたように目を見開いていた。投げられたときの弾みで、防煤マスクは外れてしまっていた。

 カペラは咄嗟に傷口を押さえたが、傷は深く、血は溢れ続けた。

 尾は脇腹から入って斜め上に突きこまれ、肺をはじめとする内臓を引き裂いたらしい。

 伴くんは苦しげに口を開閉させ、ごぼりと血の泡を噴いた。

「伴くん」

 何度か痙攣し、そして伴くんは動かなくなった。

 カペラは何度も名前を呼びながら伴くんを叩いたり揺すったりした。

 頭の中のカペラが静かに言った。

(よせ。起きない)

 カペラはおそるおそる伴くんから手を放した。

 その手から鮮血が滴る。

 カペラが人間の血液に触れたのはこれが初めてだった。

 なんて温かいのだろう。

(本当に、起きないのか?)

(起きない)

(終わりか? これで終わりなのか? こんなにあっさり終わるのか?)

(終わりだ。人間は死んだらそこで終わりなんだ)

(そんなバカな……)

 そんなバカな、そんな……

 そして。

 ウラグがその場から立ち去っていることに気づき、カペラはぞっとして顔を上げた。

「早見さん」

(戦え。ブレイドを出せ)



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