4-3
スーツ姿の男性が、夕暮れの中、青空駐車場を歩いていく。
黒のセダンの前で足を止め、ポケットからキーを取り出す。
長い銀髪を揺らし、背後に忍び寄ったアギトは、男性の首筋を鷲掴みにするや、男性が驚いて振り返る暇も与えず、握力だけで頸椎をめしっと潰した。
男性は一声も発さずに絶命し、アギトが手を放すとその場に倒れた。
リゲルはその様を少し離れた物陰から見ていた。
なんでもないことのように人間を殺すんだな、と呆れてしまう。
でも、そういえばたしかに、なんで人間を殺したらダメなんだっけ……
アギトは男性の手からキーを抜き、さらに、スーツのポケットをさぐった。
「財布もらおう」
引っ張り出した革の長財布の中身を確かめて「結構あるな」と呟くと、さっさとセダンの運転席に乗りこんだ。
リゲルは物陰からのろのろ出て、助手席にのろのろ座った。SAKaUに銃撃されたときの傷がまだ塞がらず、手足をスムーズに動かせない。
意気揚々とエンジンをかけ、ハンドルを握るアギトに、不安を隠さず尋ねる。
「運転できるのか?」
「運転なんて簡単だ。アクセルを踏めば動くしブレーキを踏めば止まる」
不安……
しかしアギトの運転は危なげないものだった。
車線変更も合流も、難なくこなす。ウインカーもまめに出し、
「運転は好きだ」
と、機嫌よさそうに言う。
その機嫌よさそうなまま言った。
「スフィアをしまえ」
リゲルは掌の中のスフィアをぎゅっと握った。
普段通りに身動きが取れない今、どうしても身構えてしまう。
今までずっとひとりで行動してきたから、すぐ近くに常に誰かがいるというのも慣れない。
「警戒するのはわかるが、私にはおまえを傷つける理由がない」
リゲルが返事しないでいると、アギトは思いついたようにポンと言った。
「映画を観ようか」
「……えいがぁ?」
アギトは「まあ任せろ」とアクセルを踏みこんだ。夕闇と〈煤〉で視界が悪いため、多くのドライバーは車間距離をとり低速で走行している。そんな常識的な自動車のあいだを縫うようにすいすい進み、郊外の街並みを抜けて、やがて、緑の多い公園のようなところに入った。
だだっ広い駐車場の手前で、誘導棒を振る係員に停められる。
スタッフジャンパーを着た女性が近づいてきたので窓を開けると、「大人おふたり様ですか」と訊かれた。
「そうです」とアギト。
価格を告げられたので、さっき死体から頂戴した財布を開いて現金を出し、堂々と支払いを済ませる。受付の女性スタッフがメニューを差し出しながら「軽食やドリンクはいかがですか」と尋ねたが、アギトは「いえ、結構です」とあっさり断った。
誘導されるまま、セダンを駐車場のほうに進める。
「映画観たことあるか?」
「暇なときは映画ばかり観てた。人間を学ぶために」
アギトは「はは」と短く笑った。
「学べたか?」
「……」
広大な駐車場には、すでに数十台が行儀よく並んで停まっていた。
車列が向いている先には、巨大なスクリーンが直立している。スクリーン周囲には何台か送風機が置かれ、〈煤〉がスクリーンを覆わないようにフル稼働していた。
防煤マスクとポンチョで固めた係員に細かく誘導されて、最後列の端っこにつけ、エンジンを切る。
リゲルはきょろきょろしながら訊いた。「なんだここ」
「ドライブインシアター」
「ここで映画を観るのか」
「そう」
しかし、窓を閉めているから外の音はシャットアウトされている。窓を開けたら〈煤〉が入ってくるし、送風機の音もうるさそうだ。
「音はどうするんだ」
「ラジオで聴く」
アギトはアクセサリー電源を入れると、カーラジオの周波数を調整した。すると車内のスピーカーからクリアな音声が流れ始めた。上映中の注意点などをくり返しアナウンスしているようだ。高級車のオーディオなので、音質がやたら良い。
なるほど、とリゲルは少し感心してしまった。
自家用車という、いわば個室にいながら、大画面で映画を楽しめるというわけだ。
「〈煤〉の時代になってから、こういうドライブインシアターが流行りだした」とアギト。
「映画館じゃダメなのか」
「何者かもわからない他人と長時間暗いところに閉じこめられたくはないだろう」
アギトは運転席を少し倒し、手足を伸ばしてくつろいだ。
「それでも映画は観たいんだな、人間ってのは」
などと言っているうちに外はとっぷり暮れていく。
しばらく待っていると、いくつかの広告映像の後、映画本編が始まった。
リバイバル上映だ。
〈煤〉が蔓延る前に撮られた作品で、現代の日常とは様子が大きく違う。
わざわざベランダに出て煙草を吸う男。若者がたくさん集まっている学校。防煤マスクを着けずに外を歩く人々。咳が聞こえてこない雑踏。ウラグもアクガレも存在しない街。〈煤〉に覆われていない青空、クリアな夜景……
主役の少女が言う。
『私の抱えてる不幸もありきたりなものだもの』
「面白かった」
エンドロールが流れたところでアギトは満足そうに言った。
リゲルには何が面白いのかわからなかった。
スクリーンに「ご来場ありがとうございました」という文字が映し出されると、観客たちは、端から一台一台、丁寧に係員に誘導されて、ゆっくり出口へと向かい、三々五々帰路についた。アギトもその流れに乗って道路へ出て、しばらく走り、どういうわけか高速道路に乗った。首都高速道路だ。
もはや、どこへなりと運んでくれと投げやりになっているリゲルは、行先も訊かず、ずっと窓の外を見ていた。そびえ立つビルと色とりどりの看板のあいだを、ダイナミックにカーブしながら、ノンストップかつハイスピードで走り抜けていくのは、なかなか見応えのあるものだった。
隣の車線を走る軽自動車の、助手席に座っている若い女性が、リゲルと同じようにじっと窓の外を見ている。運転しているのは、同年代の男性だ。恋人同士でドライブでもしているのだろうか。
ジャンクションを抜けて、料金所できちんと料金を払い、高架下をくぐり、かと思えばトンネルを通り、そして首都高から降りると、高層ビルが密集するビジネス街が広がっていた。
シャキンとした近代的なビルと、歴史を感じさせる古いビルが、無秩序に混ざっている。
ひとつひとつの建物が大きく、道幅も広くて、相対的に人間が小さく見えた。
整然とした綺麗な街並みだ。石畳の歩道。等間隔に植えられた街路樹。地下鉄への入り口を降りていくネクタイを締めた男性。点滅した青信号の横断歩道を小走りで渡るスーツの女性。このあたりには野犬もアクガレもいないらしい。
夜になったら明かりが点り、電車が走り自動車が走り、コンビニエンスストアが夜間も営業しているのは、電気も燃料も物流も、滞りなく供給されているからだ。街全体が整然として感じられるのは、誰かが整備・清掃し、決まった日に欠かさずゴミ収集が行なわれているからだ。〈煤〉が広がっても、〈煤〉が広がる以前と変わらず働いている者たちがいて、誰かが指揮しているわけでもないのに一致団結して、文明的な生活を維持している。すぐそばで大勢の人間が死んでいるのをわかっていながら、真面目に働く、映画も観る、ドライブもする。このしぶとさを目の当たりにすると、人間を滅ぼす、というのは、ひどく難しいことなのではないかと思わされる。
放っておいても人間はなんとかやっていくのではないだろうか?
アストルムなど生み出す必要はそもそもなかったのではないか?
信太陽子は無駄なことをしたのではないか?
だから廃棄を決めたのか?……
リゲルはひどく寂しい気持ちで街の灯を見ていた。
アギトはやがて三車線道路の路肩に停車した。ハンドルに軽く体を預けながら、「あのビル」と前方を指差す。
示す先には、夜の中でも白っぽく浮かび上がる高層ビルがある。
「あれは、スカーラエビル。実質ウンブラ財団の所有で、オフィス棟の上層二フロアにはプルウィス製薬の日本支社が入ってる。研究所も製造工場もメインは海外だから、ここにあるのはただのオフィスだが、それでもたくさんの優秀な人間が働いてる。プルウィス製薬、知ってるか?」
「たしか、リクシュツカを作ってる」
アギトは「そう」と頷いた。
「ウンブラがプルウィス製薬の上位株主であることは有名だが、それよりもウンブラの活動で重要なのは、奨学金だ。プルウィス製薬で働く研究者を、学生の頃から奨学金で支援し、早い段階から囲っている。また、学術・技術の振興を目的として、世界各地の大学や研究機関に寄付をしたり、様々なプロジェクトを助成したりしている。つまり、最先端を行く研究者や技術者の多くに、ウンブラの息がかかっているというわけ」
「カネ儲けのためか?」
「カネを儲けることは大事だが、それは手段であって目的ではない。少なくともウンブラにとってはね。財団ってのはカネの流れを生む機関だ。カネを使って目的を達するために存在する」
アギトは窓枠に肘をのせ、軽く頬杖をついた。
「おまえたちの生みの親である信太陽子も、ウンブラに庇護された研究者だ。だが彼女の立場は特殊でね、特に重要視されてる。それは知ってるだろ」
「……」
「〈煤の王〉に対抗できるものを生み出すため、信太陽子は自らの意志でNAGIAの上級研究員になった。武装してるせいで武闘派な組織と誤解されがちだが、NAGIAってのはそもそもウンブラが設立した〈煤〉とウラグの研究機関だからね」
リゲルは「ふーん」と鼻を鳴らした。
退屈な話だ。
「で、あのビルがなんだってんだ」
「襲撃する。おまえと私で」
アギトはなんでもないことのように言った。
すぐそばを通過した自動車のヘッドライトを受けて、暗い銀髪が鈍く光る。
「プルウィス製薬のフロアを制圧し、その場にいた全員を人質にする。そして、NAGIAとウンブラに対し、信太陽子を連れてこなければ人質全員を殺すと通告する」
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