4-2




 早見家は代々この寺の住職だったらしい。が、早見さん自身はお坊さんではないらしい。

 早見さんもいずれは継ぐつもりだったが、先代である早見さんのお父さんが現役のうちは、東京で公務員をしていた。でも〈煤〉が出てきて世の中が混乱し、お父さんが過労で倒れて亡くなり、檀家も激減して、寺としては機能しなくなってしまった。早見さんは東京の家を引き払ってこの集落に帰ってきたものの、いろいろあって、得度――僧侶になるための儀式というか手続き、をすることもできなかったそうだ。

「つまり僕は、住職になる予定だったひと」

 と早見さんは小さく笑った。

 早見さんの奥さん、ひなたの母親は、二年前、肺病で亡くなったらしい。

 もともとアレルギー体質だったため、〈煤〉を受け付けず外出もままならないくらいだったのが、ひなたを産んで以降、体が弱って、あっという間だったそうだ。



 アストルムは人間のように毎日眠る必要はない。数日に一度、数時間休眠すれば大体回復する。早見さんたちの生活リズムに合わせて、夕食以降は庫裡に引っこむが、毎日寝つけるわけではなかった。だから、本を読んだ。昔は訪れるひとが多かったのだろう、庫裡には本がたくさん置いてあった。難しい本は読んでもわからないので、子供向けの本ばかり読んだ。その中に〈じごく〉について書かれているものもあった。つまりは、罪を犯した者が落とされる懲罰の世界だ。仏様の教えを守り、悪いことをせず、日々善良に生きるように、との宗教的訓戒だ。それがわかっても、本に描かれた地獄絵図はおどろおどろしく、恐ろしいものだった。人肉と血で赤く染まった大地。裸同然の人間がすり潰され、針の山を歩かされ、釜で茹でられ、異形の鬼に首を挽かれている。ここまでしなければ人間の悪心は抑制できないということなのか。

 ある夜、雨が降った。

 雨が降ると〈煤〉は少し鎮まる。

 雨上がりは、〈煤〉のない風が吹く貴重なひとときだ。

 朝になってから、カペラは箒とちり取りを持ち出し、境内を掃除した。昨夜の雨で落ち葉が散っていた。

 住居のほうから早見さんが顔を出し「おはよう」と声をかけた。

 カペラは振り返り、微笑んだ。

「おはようございます」

 防煤マスクをするのを忘れているが、〈煤〉はすっきり晴れているので早見さんはこれに関しては何も言わず、ただ「掃除ありがとね」とだけ言った。

 カペラは参道を掃き進め、そして欅を見上げた。

 高い位置で茂る葉が、朝の陽の中で瑞々しく輝いている。

 木漏れ日を顔に受けながら、カペラは欅の幹に触れた。

(ナヅキはこれよりでかいかな?)

(三樹はいずれも天を衝くような巨木と言われてる)

 そっか、と掃除を再開する。

 頭の中のカペラがふと尋ねた。

(ナヅキをさがしに行かなくていいのか?)

 カペラは答えられなかった。

 ただ黙って箒を動かした。

 頭の中のカペラが重ねて訊いた。

(ここにいたいか?)

(……)

 当然、いたいに決まってる。

 外は怖いことでいっぱいだ。

 だがここにいれば、傷つけられることはない。

 突然殴られることも、理不尽に面罵されることも、ない。

 そもそも自分は本当に三樹を止められるのだろうか?

 三樹がどんなものかもわからない、自分が何をできるかもわからない。

 あのときは――三樹を止めると決めたあの瞬間は、あの場所から動きだす理由が、自分が生きていていい理由が、なんでもいいから欲しくて、てきとうに思いつきの目標を掲げたのだ。あまり深く考えていなかった。三樹を止める、ということの困難さを。

(どうすればいい?)

(おまえが決めろ。この体を動かせるのはおまえだ)

 そうだな。

 どうするべきだろう。

 生まれながらに持っている能力でみんなを助けることができたなら、それは素晴らしいことだと思う。だが、いいひとかどうかもわからない、よく知らない人間のことは、はっきり言って、どうでもよかった。それよりも、自分を頼りにしてくれる人々を、周囲のひとと協力して、臨機応変に助け守っていくほうが、今の時代には必要なんじゃないだろうか、と思うのだ。そして、そっちのほうが、自分には向いている気がする。

 早見さんや伴くんのようになりたい。

 困っているひとを自分ができる範囲で精一杯助けてあげられるひとだ。

 すべてを言わずとも、頭の中のカペラは酌んでくれる。

(俺たちが生きてることをNAGIAは知らない。三樹を止める、と決めたのは俺たちで、誰かに何かを期待されてるわけでもない。ここにいても誰も文句は言わないんだ)

 カペラは小さく頷いてみせた。

 落ち葉をちり取りに集め、ゴミ袋に入れる。

 作業を終えて住居のほうに顔を出すと、ひなたが「めくるね!」と言って壁掛けカレンダーをめくるところだった。

 六月になる。



 ひなたがハナちゃんを失くした。

 きのうの夜からどこをさがしても見当たらなくて、ひなたはすっかり臍を曲げているという。早見さんも「どこにでも持って行ってるからなあ」と困り顔だった。ひなた本人は、家の内外を問わずそこらじゅうをさがす気でいるらしいが、今日は、早見さんと伴くん、ついでにカペラも揃って出かけることになっていた。だから、ひなたは近所にある親戚の家へ預けられる。

 親戚宅の玄関先で別れるその瞬間まで、ひなたは涙目のふくれっ面だった。

 今日は、早見さんが運転するSUVで街へ出て、いろんな店を回る。

 早見さんと伴くんは、月に何度か、こうして、集落では手に入らないものをまとめて購入しに行くのだという。書籍や雑誌、電化製品、専門店の和菓子、〈いつき〉では扱っていない日用品、大きなドラッグストアでないと売っていないような医薬品や化粧品、などなど、利用者の要望は多岐にわたる。

 集落を出て、土砂崩れ跡のすぐそばを通り抜け、竹林を抜け、やがて広い道路に出た。カペラを連れて帰った日の道順を、逆に進んでいる。早見さん曰く、この道路をこのまま小一時間も走れば東京に着くという。

(山地のほうに向かって歩いてるつもりだったけど、意外とそうでもなかったな)

(だな)

(やっぱ当てずっぽうはダメだな。難しいもんだ)

 そして、あのショッピングモールに着いた。

 あまりいい思い出のない施設でもある。

 カペラは不安げにきょろきょろしていた。

 SUVを降りると、伴くんは「じゃ俺こっち済ませてきますんで」と、きびきび歩き去った。

 早見さんがカペラを振り返って言った。

「靴買おう、カペラくんの」

「え?」

「買ってあげるからさ」

 カペラはびっくりしてかぶりを振った。「そんな……」

「いいからいいから」

「あの、これでだいじょぶ」と、履いているサンダルを指すが。

「いつまでもサンダルばっかり履かせてらんないよ。ずっと手伝ってもらってるし。今日はカペラくんの靴買うのがメインだと思って来たんだ」

 ずんずん歩き始める早見さんに、カペラはあわあわとついていった。

 衣服に関しては、カペラと早見さんで大体同じサイズであるため、早見さんが所持しているものを借りることでなんとかなるのだが――カペラのほうが足が長いので、ズボンはいつも九分丈みたいになっていたが――靴はそうはいかない。カペラはずっとサンダルで動いていた。思えば、海からあがって以降、サンダルしか履いたことがない。

 着いたのは、大きなシューズショップ。

 一棟丸ごと靴でいっぱいで、店内は革のようなゴムのようなにおいが満ちていた。

「スニーカーでいい?」

「え、あの、はあ」

「といっても最近の若い子の流行りはわからんなあ。店員さんに聞こう」

 早見さんに声をかけられた女性店員は、当の本人であるカペラがスニーカーというものに対してなんのこだわりもないと察すると、俄然張り切って「流行に囚われない定番モデルです」「当店で一番人気のブランドです」「これなんか絶対お似合いです」と、次々品物を出してきて、カペラの前に並べた。

 どれがいいかわからない。

 とりあえず試着してみようということになった。

 早見さんは、このために、靴下まで持参してきていた。用意がいい。

 女性店員が履きやすくゆるめてくれたスニーカーのひとつに、足を入れてみる。

 サイズが合うものを選んで、ちょっと歩いてみる。

「どう?」と早見さん。

「歩きやすいです……」

 そりゃそうだ、と苦笑した早見さんと女性店員だったが、カペラが次々試着をしていくにつれ、なぜか、徐々に盛り上がっていった。

「それ似合う!」「お似合いです!」

「んふ」

 カペラもどんどん乗せられていき、どんどん試着して、最終的に、一番しっくり来たものを選んだ。グレーのシンプルなやつだ。タグを切ってもらって、このまま履いて帰ることにする。

 その後、伴くんと合流した。

 両手に買い物袋を提げた伴くんは、カペラの足もとを見て「おー、いいじゃん」と笑顔になった。

「んふふ」

 カペラはニヤニヤしていた。

 なんだかんだ言っても、とても嬉しかったのだ。

 借りるのでもなく配給されるのでもなく、自分のものとして何かを与えられるというのは、ほとんど初めてだった。

 それに、自分にぴったり合う靴で歩くというのは、気分がいい。

(大事に履こう)

(靴なんて消耗品だけどな)

(それでも大事に履くんだ)

 ここでの買い漏らしがないか、購入品を確認したあと、伴くんが「あ、いいもん見つけたんすよ」と言い、カペラと早見さんを、あるテナントまで引っ張っていった。

 女性向けの鞄やファッション小物、可愛らしい雑貨などが混在した店だ。

「これハナちゃんっぽくないすか」

 と伴くんが指差したのは、なんだかふわふわもこもこしたものが満載された什器。

 その中に、兎なのか熊なのかなんだかよくわからない、くたっとしたぬいぐるみが、ずらりと並べられていた。

 よく出回っている量産品なのだろう。カラーバリエーションが多く、安価だった。

 早見さんはひとつを手に取り、眺めた。

「たしかに似てる……というか、同じだね」

「ひなたのハナちゃんって、誰かからもらったとか思い出があるとか、なんかそういう特別なやつすか」

「いや、そういうのではない。僕がどっかからもらってきたやつだったと思う」

「じゃ、これ買っていってあげればよくないすか」

 カペラは「えっ」と思ったが、早見さんは「ふむ」と考慮し始めた。

 ひなたの喪失は、別の個体を入手することで解決するのだろうか?

 もやもやしたが、うまく言語化できず、早見さんが「買ってみようか」と言って、ぬいぐるみのひとつをレジに持っていくのを、ただ見送った。

 次の目的地に行くため、SUVに戻る。

 カペラはいくつもの買い物袋と共に後部座席に収まった。

 走行中、運転席の早見さんと助手席の伴くんは、購入するものについて相談していた。

 カペラはふと、買い物袋の一番上にちょこんと載せられている、ハナちゃんに似たぬいぐるみを、手に取ってみた。

 すべすべした起毛生地。柔らかな手触り。

 微笑んでいるような、可愛らしい目鼻。

 たしかにハナちゃんと同じだ。

(喜んでくれるかもしれないだろ)

(……そうだな)

 ドラッグストアやホームセンター、家電量販店などを順々に巡り、指定された物を購入しまくって、ようやく集落に帰り着いたのは日が暮れ始める頃だった。カペラはそうでもないが、早見さんと伴くんはかなり疲れたようだ。言葉少なになっていた。昼食をとったとき以外は休憩らしい休憩もなく、あれだけ多くの店を回れば、無理もない。

 先に早見家に入ったカペラと伴くんで、レシートや購入品の整理をしていると、ひなたを迎えに行った早見さんのSUVが帰ってきた。居間に入ってきたひなたは、相変わらずふくれっ面をしていた。

 いつもはハナちゃんを抱いている腕が、どこか所在ない。

「ひなた、まだ拗ねてんのか」と伴くんが声をかけるが、ひなたは黙っていた。

 そんな娘に、早見さんが満を持して「ひなた、ほら」と、あのぬいぐるみを差し出した。

 ひなたは「あっ」と目を輝かせ、小走りで近づいて「あったの?」と受け取った。

 途端、表情が曇った。

「違う」

 父親を見上げ、一大事のように主張する。

「これ違うよ。ハナちゃんじゃない」

 早見さんは困り顔になった。「うーん、同じだと思うんだけどな」

「同じだけど違うもん。ひなたのハナちゃんじゃない!」

 そう言ってひなたはぬいぐるみを床に叩きつけた。

 それが、なぜだかわからないけれど、ものすごくショックだった。

 ショックのあまり、カペラは、しくしく泣き始めた。

 早見さんと伴くんはぎょっとしてカペラを見た。

 ひなたさえ口を噤んでカペラを見た。

 息を呑む三人の視線を浴びながら、カペラは床に膝をつき、投げつけられた新品のぬいぐるみを拾った。

「た、たしかに、これは……この子は、ひなたのハナちゃんじゃない。違う子だ」

 カペラの手の中で、ぬいぐるみはくたりと傾いた。

 しょげているかのように。

「でも、この子はここに来たから……ひなたに大事にされたくて、ここに来たから、この子はこの子として、大事にしてあげてほしい。そうしないと、この子は、他に行くところがないから……」

 カペラはひなたにぬいぐるみを差し出した。

「もちろん、ひなたのハナちゃんも大事だから、ハナちゃんもさがすから」

 でかい図体をしながら大粒の涙を流すカペラを見て、逆に冷静になってしまったらしいひなたは、カペラの手からぬいぐるみを受け取った。

「ハナちゃん、どこかにいる?」

「いる。ひなたをさがしてる」

 そうかな、と呟いて、ひなたは手の中のぬいぐるみを見た。

「じゃあ、いっしょに待とっか……」

 そう言って、ぬいぐるみをぎゅっと胸に抱いた。

 どうなることかと固唾を呑んで見守っていた早見さんと伴くんは、ようやく、は~っと息をついた。



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