第4話 一隅

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 アストルムは人間のように毎日眠る必要はない。数日に一度、数時間休眠すれば大体回復する。だから睡眠というものを疎かにしがちだ。起きていられるだけ起きて、限界が来たらどこでもいいから横になって休めばいい、と考えている。だが、早見さんちに泊まって、はっきりわかったことがある――清潔で柔らかい寝具にゆっくり身を横たえて眠るのは気持ちがいい、ということだ。

 ほとんど初めて「眠った」と感じる朝だった。

 服は早見さんのものを、サイズが合ったので、貸してもらっている。下着は新品をくれた。それまで着ていたジャージや極彩色の鳥のTシャツは、汚れている上にボロボロになっていたので、捨ててもらうことにした。清潔な衣類というのは、これもまた、気持ちのいいものだった。生きていく上で、衣食住を整えることは、かなり重要だ。

 昨夜、勧められて早見さんちの風呂に入った。海からあがって以来、初めての風呂だ。一般的な入浴の手順がわからないので模索しながらだったけれど、とりあえず全身を綺麗にできた。と思う。

 風呂場の鏡には、額に傷のある青年が映っていた。

 こんな顔だったか。

 そういえばそうだった気もする。

 カペラはしばらくしげしげと鏡を見た。

 風呂のあと夕食も勧められたが、これはなんとか固辞した。配給されているものならともかく、個人が分けてくれるものを食べるのは、さすがにどうかと思ったのである。アストルムは食事をとらなくてもいい、つまり食事をしても栄養にならない。それなのに早見さんちの分の大事な食料を消費してしまうのは、もったいない。

 きっと朝食も勧められるだろう、どうやって断ろう、と考えながら布団を出て、庫裡をぶらりと出た。早見さんちには、カペラの足に合うサイズの靴がなかったため、サンダルを借りている。

 朝早いこの時間は、〈煤〉の色よりも靄の白さが勝っており、境内には静謐な空気が満ちていた。

 改めて本堂を見上げる。

 立派な建物だ。

 普通の民家と比べると柱や屋根が装飾的である。

 物珍しげにしげしげと眺めていたら、門から伴くんが入ってきて「おはよー」と軽く手を振った。やはりアロハシャツを着ている。でも昨日とは柄が違う。

「おは、おはよ」

「よく寝れた? お寺でひとりで寝るの怖くなかった?」

 カペラは小さく頷いた。

 カペラが泊まったのは、本堂と短い渡り廊下でつながった庫裡と呼ばれる棟で、今はもう使われていなさそうな寺務室や配膳室、和室が並んでいた。

 カペラはこの和室のひとつに床を伸べて寝たわけだが、大きくがらんとした建物の中に自分ひとりだけが寝ているというのは、たしかに、慣れるまでは落ち着かないものがあった。

 でも地べたに横になって眠るよりはずいぶんマシだ。

「ははは、まあ修行みたいなもんよ。ところでさ、今日なんか予定ある?」

 カペラはかぶりを振った。

「じゃ、あとで俺の手伝いしてよ。といっても俺は早見さんの手伝いなんで、実質、早見さんの手伝いだけど」

 これには頷いた。

 住居の玄関ドアが開き、早見さんが顔を出した。ひなたもいっしょだ。

 ひなたはアマガエルみたいな色のポンチョを着ていた。

 腕にはしっかりハナちゃんを抱いている。

 早見さんはカペラと伴くんに「おはよう」と声をかけた。

「はよーざいまーっす」

「おはよ、ござ、ござ」

 ここに来てから、できるだけしゃべるよう努めている。

 もともと、しゃべることができないというわけではないのだ。うまくしゃべろうとするとあたふたしてしまって、つっかえるだけだ。落ち着いてしゃべれば、なんとか言葉になる。

 早見さんたちといるなら、うまくしゃべれそうな気がした。

 早見さんとひなたは、これから散歩に行くという。

 誘われたので、カペラもいっしょに行ってみることにした。

 しばらく未舗装の道が続いた。寺の裏手はゆるく斜面になっていて、一段高くなったあたりに墓地が広がっている。ここもやはりもうあまりひとの出入りがないようで、墓石も卒塔婆も煤け、石と石の隙間からは雑草が長く伸びていた。

「ここもまた一回掃除しなきゃなんだよなあ」と早見さん。

「そぅじ」

「なかなか手が回らなくてね」

「うぐ」

「今日は〈煤〉が薄くていいね」

 と言う早見さんに、カペラは頷いてみせた。

 雲も少なく、あっさりした青空が広がっている。

 雀があちらこちらで囀る。

 ひなたは道端に野花を見つけると、そばに屈みこんで「これはシロツメグサ」「これはノアザミ」と言いながら、一本ずつ手折っていた。

 田んぼ沿いの道をぶらぶら歩いて、やがて、四ツ辻に出た。

 角に置かれた小さな古い小屋のような構造物の中に、これまた小さな古い石像が置かれている。

 ひなたが「これはお地蔵さん」と言った。

「?」

「お地蔵さん。いっしょにお参りして」

 カペラがきょとんとしていると、ひなたが「お供えして」と、花を差し出した。

 道々摘んできた野花をまとめたものだ。

 よくわからないがとりあえず受け取り、お地蔵さんの足もとの花立に差した。

 振り返ってみると、早見さんもひなたも、お地蔵さんに向かって手を合わせているので、真似して、手を合わせてみる。

「???」

 これになんの意味があるのだろう。

 宗教的な仕草ということはわかるのだが。

 早見さんは微笑んで言った。

「お地蔵さんはみんなを守ってくれるからね」

「はぇ」

「菩薩はたくさんいらっしゃるけど、地獄までやって来てみんなを救ってくださるのは、お地蔵さんだけなんだ」

 じごく?

 カペラは目をぱちくりさせた。

(じごくってなんだろ)

(わからない)

(おまえにもわからないのか)

(うん)

 わからない。きっと概念的なことだ。

 けど、きっと、ひどいところなのだろう。



「九時に公民館が開くから、公民館で配布してる防煤マスクのフィルターをもらって、井田さんちと東さんちに届ける。井田さんは鬱がひどくて、東さんは肺やられてて、公民館まで取りに行けねーから。次に〈いつき〉に行って、小坂さんと増村さんに頼まれた買い物をする。買ったものをそれぞれに届けたら、松井さん、吉岡さんとこ行く」

 一度に言われてもわからないが、とりあえず、いろんなところを回るのだ、ということはわかった。

 伴くんが運転する軽トラックの助手席に座り、カペラは窓の外を流れる景色を見ていた。

 ラジオでは、女性パーソナリティがリスナーからのメールを読んでいる。

 短い曲紹介のあと、ロックが流れ始めた。昔流行った曲らしい。

 激しいギターに乗せて、あれはたしかに愛だった、と叫んでいる。

 伴くんが合わせて口ずさんだ。

 カペラはこれに耳を傾けた。

「うた、うまぃ」

 すると伴くんは「ははは」と笑った。

「鼻歌に上手いも下手もねえだろ」

 と言うが、まんざらでもなさそうだ。

 カペラは本当に、伴くんは歌が上手いなあと思っていた。

 歌うという行為は、人間の活動の中でもかなり高度なことのような気がした。いろいろな条件が揃わなくては歌うことはできない。発達した発声器官を持つこと、知っている曲があること、聴かせる相手がいること――そのいずれもカペラは持っていない。だから歌うという行為がとても難しいことのように思える。鼻歌のように易々と歌ってしまえる伴くんはすごい。カペラの中では伴くんもカラビンカも同じだ。

(俺も頑張ったら歌えるようになるかな)

(どうだろうな)

(上手く歌えたら楽しいだろうな)

 軽トラがまず停まったのは、小さな公民館。伴くんが受付に顔を出すと、事務員の女性は示し合わせたようにスムーズに防煤マスクのフィルターが入った箱を出してきて、伴くんに渡した。そのあとはまた軽トラに乗って、井田さん宅、東さん宅、と順番に回り、フィルターを届けた。

 集落を縦断する県道を軽トラでとことこ進み、やがて、川に差しかかった。この川を越えたら隣市になるらしい。

 橋の手前に、年季の入った小売店が建っている。

 正面上部に掲げられた古めかしい看板には〈いつき商店〉とある。

 店舗敷地の数倍もありそうな広い駐車場に乗り入れ、停める。

 駐車場に面したところに、商店の裏口というか搬入口というか、トタンがかろうじて屋根と壁を形成しているような一角があり、そこに、折りたたみ椅子が何脚か置かれていた。よく見ると奥にはテレビも置かれている。

 椅子には、高齢の男性がひとり、ふんぞり返って座っていた。

 その隣には、高齢の女性もひとり、ちんまり座っている。

 軽トラを降りて店舗に近づく伴くんは、男性に気安く声をかけた。

「ケンさん、今日は〈煤〉が薄くていいねえ」

「おー、テレビがよく見えるわ」

 その口ぶりからして、彼らは普段からここでテレビを観ているようだ。

 防煤マスクをしているとはいえ、好きこのんで屋外にいるとは、酔狂というか。

 テレビだって、毎日〈煤〉に晒されていたら、すぐに故障するのではないだろうか。

(何かこだわりでもあるのかね)

(さあ……)

 テレビの画面では、天気図を背景にした気象予報士が『低気圧の発達に伴い、各地で煤嵐が発生するおそれが』と浮かない顔をしている。

 これを耳にした伴くんが「煤嵐だってよ。参るなあ」とぼやいた。

(すすあらしって?)

(その名の通りだ。〈煤〉が吹き荒れるんだ。砂嵐の〈煤〉バージョンだな)

 それは嫌だな……と思いながら、伴くんに続いて〈いつき〉に入る。

 個人経営の食料品店みたいなものだ。食料の他にも、日用品や衛生用品、少しばかりの衣類なども扱っているらしい。伴くんはモバイルのメモを見ながら、うどんだの牛乳だの綿棒だのを、カペラが持つカゴにぽいぽい入れていった。

 小坂さんの分と増村さんの分で会計を分けてもらい、レシート二枚を受け取り、袋も分けて、〈いつき〉をあとにする。

 小坂さん宅、増村さん宅、順番に品物を届け、それぞれから代金を受け取った。

 伴くんが何をしているかというと、これはつまり、外に出られない――あるいは、外に出たくない人々のために、屋外での用事を、元気に動ける若者が代行しているのだ。伴くん、そして早見さんは、これで対価を得ている。

 儲けのためにやっているのではなさそうだけれど。

 伴くんはといえば、こんな仕事をしているせいか、集落の地図がすっかり頭に入っているようだった。細く入り組んだ道を迷いなく進み、カペラからすると全部同じように見える住宅の一件一件も見分けている。

 そうして、松井という表札が出ている家の前で停まった。

 大きな家だ。玄関前など自動車をゆうに五、六台は停められそうなほど広い。

「ピンポン押してみる?」と伴くんが言うので、カペラは頷き、玄関チャイムを押した。

 間もなく女性の声で「はーい」と応答があった。伴くんが「はよーざいまーっす、伴でーす」と元気よく名乗る。

 玄関に出てきたのは細身の中年女性で、小花柄の防煤マスクを着けていた。ショッピングモールで「なんでもっと早く助けないんだ!」と怒鳴ったおばさんを思い出してしまい、カペラは思わず、伴くんの後ろにさっと隠れた。しかし、カペラのほうがだいぶ背が高いこともあり、ほとんど隠れてはいなかった。

 松井さんは、庭木を切ってほしい、と言った。

 馴染みの植木屋さんに前々から頼んではいるのだが、植木屋さんには、注文が立てこんでいるし、〈煤〉が濃い日などは外での作業ができないから、いつ行けるかわからない、と言われたそうだ。でも庭木は日々伸びて、隣家の敷地にまで入りこんでしまっているので、とにかく、見苦しくない程度に切っておいてほしい、とのこと。

 家屋の横手へ回って庭を見ると、たしかに、本来はきちんと剪定されているのであろうカナメモチやサンゴジュなどが、伸びっ放しのボサボサになっていた。

 伴くんは「了解でーす」と軽く請け負うと、軽トラの荷台から枝切り鋏と脚立、箒とちりとりを持ってきた。松井さんは「お願いね」と言って、さっさと家の中へ引っこんだ。

 カペラに箒とちりとりを渡し、落ちてきた枝葉を集めるように指示。自分は脚立を昇って、庭木の上のほうを切り始めた。庭木の手入れなどはしょっちゅう依頼されるのだろう、慣れた様子だ。プロではないから美観や育成のことまでは考えていないのだろうが、余分に飛び出した枝を潔くどんどん落としていく。カペラは掃くのも忘れて、しばしその機能的な手つきを眺めた。アロハシャツに描かれた濃いピンクのブーゲンビリアが、伴くんが腕を動かすたび柔らかく揺れた。

 さくさく枝を切りながら、伴くんが何気なく言った。

「松井さんはお得意様なんだ。家がでかいわりに、男手がないから」

「?」

 カペラは家屋のほうを振り返った。

 庭があるから外部からの視線が気にならないのか、カーテンが全開になっており、居間が丸見えだった。居間の真ん中には、さっきのおばさんの配偶者と思しき中年男性がいる。座椅子に深く腰掛けて、ぼんやりテレビを観ている。

 あれは男手と言わないのだろうか。

 腑に落ちなくて「ぃる」と言ってみると、

 伴くんは苦笑いで「いやー」と肩をすくめた。

「あの歳でやらねえならできねえよ」

「?」

 言葉の意味をぐるぐる考えているうちに、伴くんは脚立を移動させ、次の範囲を切り始めた。そうして順々に庭木を巡っていき、そこそこ広い庭であるにもかかわらず、あっという間に作業を終わらせてしまった。

 伴くんは本当になんでもテキパキやる。

 カペラは伴くんを尊敬し始めていた。

 後片付けをし、松井さんの奥さんから代金をもらって、軽トラに乗りこむ。

「次は吉岡さんとこな。午前はこれで終わり」

「よしょかさん」

「吉岡さんもお得意様だ。ひとり暮らしで、腰も悪いからさ」

 軽トラを数分走らせて着いたのは、古い平屋。

 うら寂しい家構えだった。玄関先に停められた自転車はカリカリに錆び、掃き出し窓に立てかけられたよしずは煤けている。

 カペラが玄関チャイムを何回か押したが、返事はなかった。

 伴くんが玄関の引き戸に手をかけてみると、からりと開く。

「吉岡さーん、入るよー」

 靴を脱ぎ、勝手知ったるふうに、のしのし入っていく。カペラはあわあわ続いた。上がり框に足をかけた途端、食べ物由来の甘ったるいにおいを感じた。

 伴くんがまず覗いたのは、居間だ。

 テレビも照明も点いておらず、しんとしていた。カーテンも閉めたままなので、薄暗い。

 座卓の上に、空き箱がぽつんと置いてあった。

 白地に銀文字が入った、綺麗な箱だ。

 これを見て、伴くんの顔色が変わった。

「まずい、リクシュツカだ」

「? りくつつか?」

「吉岡さん!」

 伴くんは居間を飛び出し廊下を走り抜け、一番奥の部屋に飛びこんだ。カペラは慌てて追いかけた。寝室らしい。部屋の真ん中に敷かれた布団に、高齢の男性が横たわっている。

 伴くんは男性の呼吸を確かめ、首筋に手を当てて脈を確かめると、肩を落とした。

「ダメだ。駐在さん呼ぶわ」

「???」

 伴くんはモバイルを取り出しながら寝室を出た。

 ひとりになった寝室で、頭の中のカペラが言った。

(リクシュツカ、いわゆる自殺薬だ)

(自殺薬?……)

(〈煤〉やらウラグやらが出てきて以降、世界的に自殺がすごく増えた。生きてても肺病かアクガレになるだけ、子供も増えない、いつウラグに襲われるかわからない――未来への希望を失った人間が、生きることに耐えられなくなったんだな。せめて安楽に死にたいってことで、自殺薬がいくつかつくられた。もっとも普及したのがプルウィス製薬の〈リクシュツカ〉だ。もはや自殺薬の代名詞みたいになってる。高価だが、これから死のうってやつはカネを惜しむこともない。全然苦しまずに眠るように死ねるんだって)

(そんなの、いいのか? 問題にならなかったのか?)

(そりゃあ問題視する声はたくさんあっただろう。自殺は人間にとって大きなタブーのひとつだからな。でもなんだかんだ普及してるみたいだな。プルウィス製薬は繁盛してるし、CMもバンバン流してる。しょうがないんじゃないか? 本当に死にたいと思ってるやつは、リクシュツカなんか使わなくても、どんな手を使ってでも死のうとするだろうし)

 不思議な気がした。

 小さな怪我も気にして、自分たちが生き延びるためには手段を選ばず、挙句の果てにアストルムシリーズのようなものを生み出す一方で、もう何もかも諦めて手軽に死ぬ方法も模索する。

(いろんなひとがいるな……)

 首を傾げながら、カペラは吉岡さんのそばに屈んだ。

 顔を覗きこんでみる。

 深く刻まれた皺。伸びかけのヒゲ。軽く閉じられた瞼。

 眠ってるみたいだ。

 耳を澄ませていたら寝息が聞こえてくるのではないかとさえ思える。

 でも。

(彼は、もう、起きないんだよな?)

(起きない。人間は死んだらそこで終わりだ)

 終わりかあ……

 そうして、伴くんが戻ってくるまで、しげしげと死に顔を見つめていた。



 吉岡さん宅に駆けつけた駐在さんは「あ~、リクシュツカだ」と、制帽の下の胡麻塩頭を掻き、眉尻を下げた。聴取されることを覚悟していたが、カペラはほぼ何も訊かれることはなく、伴くんと共に早々と帰らされた。

「誰にも知らせずにリクシュツカ使うの、規制してくんないかなあ。びっくりすんだよな」

 軽トラを運転しながら伴くんはぼやいた。

 助手席のカペラに「な、びっくりしたろ」と声をかける。

 カペラは素直に頷いた。

「だよな。まあ、しょうがねえよ……」

 そう言ったきり伴くんは黙った。

 つけっ放しのラジオでは、ほんわかしたBGMと共に、女性パーソナリティとゲストの文化人がなにやら楽しそうにトークしている。

『キトラ古墳の星宿図には星座だけでなく赤道、黄道、内規、外規が描きこまれており、これらによって、この天文図がどの緯度で描かれたかを推測することができるのです』

 やがて軽トラは〈いつき〉の駐車場に乗り入れた。

 ケンさんと奥さんは、先程と変わらず、搬入口前のスペースでテレビを観ている。

 軽トラを降りた伴くんはずんずん進み、入店して脇目もふらず飲料の冷蔵ショーケースの前まで行った。

 そしてカペラに言った。

「奢ったるよ。好きなの選んで」

 アストルムは水を摂取するだけで生きていける。逆に言えば、水を飲まなければ生きていけない。食料は必要ないが、飲料はもらえるなら助かる。カペラは有難く奢ってもらうことにした。

 ケースに並ぶ色とりどりのラベルを眺める。

 種類がいっぱいあってよくわからない。

「さいだー……」

「サイダー? じゃあこれかな」

 伴くんはケースのドアを開け、おそらく一番ポピュラーなサイダーのペットボトルを取り出し、ついでに缶コーヒーもひとつ取って、レジで会計した。

 で、ふたりして軽トラの中で並んで飲んだ。

 炭酸飲料は想像していたより刺激が強くて、一口飲んだカペラはビャッと顔をしかめた。

 伴くんもまた缶コーヒーを一口飲み、軽く息をついた。

「一時期は、見かけなくなってたんだけどな。最近またブームが来てるみたいでさ、リクシュツカ。今年に入って五人目だ。五人だぜ? こんな狭い集落なのに。ひとりふたりが始めると、じゃあ俺もやっちゃおっかな、みたいに弾みがつくのかね」

 カペラはサイダーをいっぺんにたくさん口に入れないよう、ちびちび飲んでいた。

 刺激はあるが、意外と、嫌いではない。

「死ぬこたあねえのによ。みんな悲観的に考えすぎなんだよな。別に、世界はずっとこのままだと決まったわけじゃねえ。未来のことなんかわかんねえだろ。もしかしたら明日にでもエライ誰かが〈煤〉を止める方法を考えてくれるかもしれないじゃねえか、なあ?」

「……」

 伴くんはモバイルを取り出して、しばしいじっていたが、そのうち「おっ」と明るい声を上げた。

「なあ、めし食えそ?」

「え」

「早見さんが用意してくれてんだ、昼めし」

「にぇ……」

「食おうぜ! 腹減った」と、伴くんは軽トラのエンジンをかけた。

 カペラは、どうやって断ろう、と考えていたが、もたもた考えているうちに、早見さん宅に着いてしまった。

 伴くんに促されてあれよあれよという間に居間に到達。

 おろおろしているカペラに、早見さんは「どうぞ座って」と座卓を示した。

「遠慮しないで。きのうからずっと食べてないでしょ」

「あの」

「ちゃんと食べなきゃダメだよ」

 ここまで来て断ったらさすがに不自然になりそうだ。

 ひなたも「カペラくんここに座って」と自分の隣の座布団を指差す。

「はい……」

 カペラは観念して座り、目の前にカレーライスが盛られた皿やスプーンやお茶の入ったグラスが置かれるのを、なすすべもなく見守った。

 腰を下ろした早見さんと伴くんが「いただきまーす」と言って、早々と食べ始める。

 これを見て、カペラもおそるおそるスプーンを手にした。

「いただ、ます」

「おあがりなさい」と、ひなたが大人のような口ぶりで言う。

「またチキンかって感じだけど、〈いつき〉じゃもう牛も豚も売ってないんだよね」

「いやチキンカレー美味いすよ」

「物足りないかなと思って油揚げ細く切って入れてみたんだけど」

「あーこれ美味いすよね」

 早見さんと伴くんがしゃべっている横で、カペラはカレーを一匙、食べてみた。

 もぐもぐ口を動かしながら、カペラは内心で首を傾げた。

(なんか、おいしい)

(えっ、なんで?)

(なんでかはわからない。でも、おいしい気がする。味がある)

(ふーん)

(なんでだろ? でも、よかった!)

 カペラがにこにこしているのを見て、早見さんが「おいしい?」と訊く。

 カペラはこくこく頷いてみせた。

 早見さんもほっとしたように笑った。

「おかわりあるよ」

(……そういや、なんで俺たちには味覚が在るんだろうな)

 天気予報は当たり、午後から空模様は急変した。

 風が強くなり、窓ガラスがガタガタ鳴って、樹々が大きく揺れた。低気圧に巻きこまれて押し寄せてきた濃厚な〈煤〉のせいで、数メートル先も見えない。陽光は遮られ、あたり一帯が夜のように暗くなった。

 カペラは煤嵐というものに初めて遭遇したが、なかなか強烈だった。カペラはアストルムなので、身ひとつで只中にいてもなんとかなるが、人間はただでは済まないだろう。屋内に閉じこもり、扉や窓を閉めきって、煤嵐が去るのを待つしかない。

 だから、早見家を辞去するタイミングを失った。



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