3-6
窓の外を流れる景色に緑が増えていく。
交通量が減るにつれて〈煤〉は濃くなっていき、見通しが悪くなって、早見さんの運転するSUVは少しずつ減速していった。前方を走る車のバックフォグランプがよく目立つ。
淡くなり始めた陽光に〈煤〉が翳る。
夕暮れが近づいていた。
「今日寝るとこ決まってるの?」
訊かれて、カペラはかぶりを振った。
早見さんは重ねて尋ねた。「今までどこに寝てたの?」
「じめん……」
「地面かー」
早見さんはしばし逡巡していたが、
「じゃあまあ今夜はうちに泊まって。何も出せないけど」
「でも、あの」
「いいよ。まあ、こんなご時世で、さっき初めて会ったひとの家に泊まるって怖いだろうけど。そこはお互い信じ合ってみよう。こんなご時世だからこそね」
と早見さんは笑った。
カペラは迷いながらも小さく頷いた。
誰かの家にお邪魔するのは初めてだ。
そわそわしてしまう。
「あのショッピングモールでの配給ボランティアは、月イチで行われててね、僕はほとんど毎回参加してるんだけど」
早見さんはゆっくり話しだした。
「路宿者は、生きる気力を失くしたひとたちだよ。こんな世界になってしまって、おそらくいろいろなものを失って、自分のことさえどうでもよくなったひとたちなんだ。でも、どうでもよくなっただけでは、人間は人生を終わらせることはできない。終わりたいと願っていても、腹は減るし眠くなる。それはどうしようもないことだ。根本的な解決にはなっていないけど、せめて、物質的な苦しみが軽くなるなら、と思って、ずっと協力してる――明日は我が身だ、と思うと、見て見ぬふりはできなくてね」
きっと、そういう人間は一定数いるのだ。
だからあのボランティア活動が成り立っている。
もちろん、見て見ぬふりしてしまえる人間のほうが多いのだろうけれど。
「そんなわけで、僕は路宿者を大勢見てるから、なんとなく、そう思うんだけど……君は、あれだよな、路宿者って感じしないな」
「……」
「どこかへ行く途中にふらっと立ち寄ったって感じだ」
(鋭いなこのひと)
しかし、それ以上、早見さんは突っこんではこなかった。
道に勾配がつき、左右に鬱蒼とした竹林が広がり始める。
「ちょっとひと気のないとこ入ってくけど、心配しないでよ。里山の集落なんだ」
蛇行する片側一車線をしばらく進むと、道が一部崩れている箇所に差しかかった。アスファルトが板チョコのように割れて、土が露出している。崩れている先は崖なので危なそうなものだが、柵などはなく、パイロンがいくつか無造作に置かれているだけだった。
対向車線に軽バンが来ていたので、先にそちらを通す。相手の運転手は早見さんと顔見知りなのか、すれ違うとき、互いに手を振ったり親指を立てたりしていた。
「何年か前の土砂崩れでこうなったんだけど、なかなか直してもらえないんだよな」
ぼやきながら、早見さんは崩落箇所のすぐそばを通過した。
またしばらく進むと、道がなだらかになり、住宅が立ち並び始めた。敷地がやたら広くて、古そうな家が多い。
大きな家と大きな家に挟まれた狭い道路をすいすい進んでいくと、やがて、ひときわ大きな家が現れた。
敷地内に乗り入れると、土剥き出しの道がじゃりじゃり鳴った。
広い前庭だ。SUVを降りて、建物を見上げてみる。
堂々たる寄棟屋根に黒光りする本瓦葺、年季の入った飴色の柱、白壁。
個人宅にしてはずいぶん立派というか大仰なつくりである。
(これ、たぶん、寺だ。宗教施設だよ)
「しゅう……」
本堂のすぐ隣には、おそらくひとが普段住んでいるのであろう普通の住居が建っていた。本堂とは比ぶべくもなく新しい、こじんまりとした家だ。
石灯籠。何かの石碑。梵鐘がない鐘楼跡。
そして、立派な樹が一本立っていた。本堂の屋根よりも高く伸び上がり、豊かに緑を茂らせる欅である。
大玄関の前に軽トラックが一台停まっており、その荷台をごそごそしている者がいる。
早見さんは「おーい」と声をかけながら、彼に近づいていった。
カペラもついていった。
「あのひとは伴くん。いろいろ手伝ってもらってるんだ」
こちらに気づいて「どもども」と手を振ったのは、小柄な若い男性だ。寺という場所にあまり馴染まない、陽気な柄のアロハシャツを着ていた。
早見さんが「こちらはカペラくん」と、カペラを掌で示す。
伴くんは目を丸くした。「変わった名前だなあ。外国のひと?」
カペラはかぶりを振った。「にほん」
「今日、庫裡のほうに泊まってもらおうかと思って」
「なんだ、早見さん、また拾ってきたの」と伴くんは笑った。
「放っとけなかったんだよな」
伴くんは早見さんを指しながら、カペラに気安く言った。
「このひとさー、物好きなんだよ。でもいいひとだからさ」
フランクに話しかけられることに慣れていなくて、カペラは戸惑いながら頷いた。
軽トラックの陰から、小さな人影がひょこりと顔を出した。
「娘のひなただ。おいで」
と、早見さんが手招きする。
ひなたと呼ばれた子供がてくてく近づいてきた。
腕にぬいぐるみを抱いている。
頭の中のカペラが感心したように言った。
(へえ、子供だ。珍しいな)
そういえば、旅を始めて以来、子供を見かけるのは初めてかもしれない。
住宅街にも、駅前にも、ショッピングモールにも、子供はいなかった。
(二〇〇六年前後から出生率の顕著な低下が見られるようになった。体に蓄積された〈煤〉の影響で不妊傾向になると考えられてる。二〇一〇年には、どっかの県で、年間の出生数が百を切ったとかで騒ぎになったそうだ。無事産まれたとしても、呼吸器系の疾患にやられる子供も多い。今や子供は希少だ)
(……)
(俺たちが〈煤〉を止めなければ、この子が人類最後の世代になるかもな)
「彼はカペラくん。今日、泊まってもらうから」
早見さんがカペラの肩を叩いた。
ひなたは物怖じせず言った。「こんにちは」
「こん、ちわ」
抱きしめていたぬいぐるみを、カペラに見せるように持ち上げる。
兎なのか熊なのかなんだかよくわからない、くたっとしたぬいぐるみだ。
「この子は、ハナちゃん」
「はなちゃ」
ひなたはカペラをじっと見ていた。
そして言った。「綺麗な目」
「?」
「目の中に星があるみたい」
瞳孔の周りが明るい色、虹彩のふちが濃い色――
カペラは複雑な色をしたその目をぱちくりさせた。
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