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交通量が多い道路では〈煤〉は自然と吹き散らされる。視界が良好になるためか、自動車は速度を出してビュンビュン走っていた。路側帯を裸足で歩いているカペラには、誰も目をくれようとしない。防煤マスクを着けていないこともあり、アクガレと思われているかもしれない。
アクガレとは一度だけすれ違った。あと八人、あと八人……と囁きながら、群れからはぐれたのかぽつんと一体だけで歩いていた。かなり古いアクガレのようで、顔がすっかり崩れてしまって、もはや男か女かさえわからなかった。半分死体のようなものなのにあまりにおいがしないのは、内も外も〈煤〉にまみれているせいらしい。
幹線道路に沿って、夜となく昼となく歩き、どのくらい進んだだろう。
行く手に大規模なショッピングモールが現れた。こんな世界になっても人間は商業施設に集まるものなのか、広大な駐車場には少なからぬ数の自動車が停まっていた。カペラが見ているあいだにも、自動車が敷地を出たり入ったりしていく。
駐車場の一角、広く開けたところに、ひとだかりができていた。ボランティアによる配給と炊き出しらしい。
配給ボランティアに出くわすのは、この旅を始めて以降、二度目だ。
また防煤マスクと靴をもらえるだろうか?
前回出くわした配給より、ボランティアの人数も多く、大がかりなものだった。集まっている路宿者の数も多い。これなら紛れこめそうだ。
炊き出しも、いいにおいがする。
(あれもらっていいかな)
(え、また食うのか?)
(食べてみたい)
(はあ、まあ好きにしたらいいが)
配給会場には何台か送風機が設置されており、風が絶え間なく吹きつけるおかげで、周辺の〈煤〉はかなり薄まっていた。
まず、まっすぐに、防煤マスクを配っている列についた。
すぐにカペラの番はやってきて、マスクをひとつもらえた。
早速着ける。
今度は、靴を配っている列についた。サンダルをもらえたので、履いてみる。久しぶりに靴を履いて歩くと、なんだか変な感じだった。
そのまま炊き出しの列に並ぼうとしたときだ。背後から、わしっと腕を掴まれた。
ぎょっとして振り返ると、細身の中年の女性がいた。
コットンの帽子をかぶり、ボタニカル柄のおしゃれな防煤マスクを着けていた。
カペラの腕をしっかり握り、カペラの目を見ながら、悲しそうに言う。
「あなたまだ若いのに」
「ぅえ?」
今度はカペラの手を両手で包むように握った。
しっとりと柔らかい、温かい手だった。
「こんな生活、したくてしてるんじゃないでしょ? 可哀想に。おばさんでよかったら話を聞くから。福祉につなげられるかも」
「あの」
「ごめんなさいね。若いひとって少ないから、可哀想で、お節介したくなっちゃって」
おばさんは目を細めた。
カペラの手をしきりににぎにぎ揉んでいる。
カペラは困惑した。
(ボランティアのひとかな?)
(さあ……)
「私の息子も生きてたらあなたと同じくらいの歳なの。アクガレになってしまったんだけど。あと何人、あと何人、って言いながら、どこかに行っちゃった……」
突然、おばさんは深い咳をした。
なかなか止まらないので、カペラはおろおろした。
おばさんは咳きこみながら言った。
「つらいのよ。若いひと――あなたや息子みたいに若い子が、理不尽な目に遭うのを見るのは。本当に可哀想で。どうしてこうなっちゃったんだろうって思う。あなたくらいの歳だともう覚えてないだろうけど、昔はね、こんなんじゃなかったんだから。空気は綺麗で、マスクなんか着けなくても外を歩けて、ひとはみんな優しくて……」
よくわからないながらも、カペラはうんうん頷いてみせた。
たしかにお節介だが、悪いひとではなさそうだ。
「あっち行って座る? お話聞こうか?」
カペラはかぶりを振った。
おばさんは「そう?」と諦めきれないようだ。「ねえ、私まだしばらくここにいるから、もし何かあれば声をかけて。なんでもいいからね。力になるから」
そう言っておばさんはカペラの手の甲を軽く叩き、去っていった。
話しかけられたり手を握られたりした衝撃が治まらず、しばらく挙動不審にそのへんをうろうろしていたが、気を取り直して、炊き出しの列に並んだ。
ペットボトルのお茶、おにぎり、椀一杯の豚汁をもらった。
どこかに座って食べたいと思ったが、路宿者は多く、用意された簡易椅子はすでに埋まっており、立ったまま食べている者もいるくらいだった。花が全然咲いていない花壇のふちに、どうにかひとり座れるスペースを見つけたので、おどおど腰を下ろす。
そうしてカペラはおにぎりを一口食べた。
豚汁も一口食べた。
(美味いか?)
(よく、わからない)
(だろうな)
路宿者はどうしても同じような場所に集まりやすいのだろうな、と思う。
配給や炊き出しが頻々と行われるところ、体を横たえて眠れるようなところ、〈煤〉や雨風をしのぎやすいところ、などなどの条件を満たせるところとなると場所は限られてくる。このショッピングモールはそうした場所のひとつなのだろう。
ボランティアの女性がひとり、路宿者のあいだを渡り歩いて何か配っていた。カペラのところにも来たので、受け取ってみる。
チラシだ。
病気になったり怪我をしたらどうすればいいか、ウラグに襲われたときはどうするべきか、社会復帰したいときの相談機関へのアクセス方法、といったことがわかりやすく書かれている。また、人間に襲われたときのことも書いてあって、思わず眉をひそめた。路宿者を狩って遊ぶ人間がいるらしい。
すぐ隣に座っている路宿者が咳をした。
湿った深い咳で、つらそうだった。
そういえば、あちこちからひっきりなしに咳が聞こえる。
(路宿者は、路上で寝起きしてるってことは、いつも屋外にいるんだよな?)
(概ねそうだろうな)
(ずっと屋外にいたら、〈煤〉をたくさん吸ってしまうんじゃないか?)
(吸うだろうな)
(体によくないよな?)
(よくない。アクガレや肺病になるリスクは格段に高いだろう)
そうだよな……と立ち上がり、食器を返却しに行った。
炊き出しのそばのテーブルに、「使用済みのお椀・お箸はこちらへ 返却してくれた方にはお菓子をプレゼント」と書かれたポスターが掲げられている。
椀と箸を渡し、代わりに、飴玉をもらった。
個包装にサイダー味と書いてある。
サイダーなんて飲んだことないが。
「君、それ、すごい傷だけど大丈夫?」
「え?」
飴玉をくれたボランティア男性が話しかけてきた。
防煤マスクをきっちり着けているので顔の大部分は見えないが、眼鏡の奥の目は心配そうな色をしていた。髪にはうっすら白髪が混ざっている。中年くらいだろうか。
男性は自分の額を指差した。
「それ、医者には診せたの?」
「あっ、あの、う、」
「お医者さん紹介しようか?」
(医者はダメだ。人間じゃないのがバレる)
カペラは一生懸命かぶりを振ると、テーブルをそそくさと離れた。
ボランティア男性はしつこく追ってはこなかった。
(いろんなひとがいるな)
動揺冷めやらぬまま、あたりを見回してみる。
たくさんの路宿者、たくさんのボランティアがいる。
路宿者が集まると、ボランティアも同じくらい集まるらしい。このご時世、一般人は、自分の安全と衣食住を守るだけで手一杯だろうに、路宿者のために力を尽くそうとする、その思考は興味深かった。
もらった飴玉を、ジャージのポケットに入れる。
「この中にウラグがいる!」
ヒヤッとした。
炊き出しのあたりで、誰かが急に大声を出したのだ。
「いるーっ! いるーっ!」
体を折り曲げて、絞り出すように叫んでいる。
紫色っぽい半袖シャツを着た、筋肉質の男だ。頭を掻きむしり、あまりに叫ぶものだから、防煤マスクが顎のところまでずれていた。大柄な男が絶叫している様は、それだけで充分に威圧的だ。周囲の者たちはすくみ上がっていた。
カペラは目をぱちくりさせた。
(ウラグがいるって……)
(そりゃあ、何体かはいる。でも敵対的なやつじゃないぞ)
紫シャツの男は、彼を宥めようと近づいてきたボランティア男性を突き飛ばすと、すぐそばにいたボランティア女性に掴みかかり、さらに、あいだに入ろうとしたボランティア男性を払いのけた。
手のつけられない暴れぶりである。
誰かが叫んだ。「刃物持ってる!」
たしかに、紫シャツの男は、いつの間に取り出したものか、右手に刃渡り十センチほどのナイフを持っていた。
キャーッと悲鳴が上がり、みんなが男から距離を取った。隣の者を押しのける者、押されて尻から転ぶ者、もらった豚汁をひっくり返す者――場はあっという間に混乱した。
紫シャツの男は、目を真っ赤にして泣いていた。
「この中にもいる! いるーっ! 俺にはわかるんだ! こそこそしやがって、何が狙いだ! 出てこい!」
男はナイフを振りかざしながら人垣に突っこんでいった。また悲鳴が上がり、人垣が崩れる。ボランティアも路宿者も一様に入り乱れ、逃げ惑った。紫シャツの男が通り過ぎたあとに、細身の女性が悲鳴を上げて倒れた。手の甲を押さえる指のあいだから、血が溢れている。コットンの帽子、ボタニカル柄のおしゃれな防煤マスク。
さっきのおばさんだ。
カペラは凍りついた。
自分を気に留めてくれたひとが、優しくしてくれたひとが、ひどい目に遭っている。痛い思いをしている。血を流している。
止めなければ。
カペラは拳を固めた。
(俺は、強いんだよな? 〈煤の王〉を止められるくらいに)
(え? ああ)
(人間にはない力があるんだよな?)
(……ああ、そうだ)
(強いなら、その力があるなら、助けないと)
(ああ、そうだ!)
カペラは一歩踏み出した。
やらなければ。怖くても、やらなければ。
助けたい、助けられるなら。
頭の中のカペラが熱く励ましてくれる。
(行け、頑張れ!)
足はカペラが自身で思うよりずっと素早く進んだ。紫シャツの男の背後から近づき、剥き出しになっている肘を掴む――ハッとさせられた。その、脆さ、心許なさに。男が華奢だということではない。腕周りは太く、むしろ、がっしりとしたほうだろう。だが、これは、こんなものは、カルシウムでできた骨を、薄い肉と皮が取り巻いているだけ。身を守るための殻も鱗もない。
そういえば、
人間ってのは、弱いんだっけ……
「触るなあっ!」
男が吠え、ナイフを振り回しながら振り返る。カペラが手に力をこめると、肘はアルミ缶のようにくしゃりと潰れた。痛みのためというよりはおそらく驚きのために男は「ぎゃっ」と叫び、身をよじった。カペラは、体勢を崩した彼のシャツの襟を掴むと、真下に引き下ろした。男の頭部はレンガ敷きの地面に叩きつけられ、一回バウンドした。
男は動かなくなった。
あたりはしんと静まり返った。
路宿者たちが、ボランティアたちが、息を呑む気配。
「あの」
カペラはおどおどしながら、倒れたおばさんのほうへ近づいた。
怪我は大丈夫だろうか?
レンガの上に血が点々と飛び散っている。
おばさんの血か?
「あの……」
「なんでもっと早く助けないんだ!」
え? とカペラは固まった。
立ち上がったおばさんは目を血走らせ、カペラに詰め寄った。
「あんたがもっと早く助けてたらこんなことになってないのに!」
カペラに、血を流す手の甲を突きつける。
あまりに激しく喚くものだから、おしゃれな防煤マスクがずれた。
怒りで歪んだ唇が覗く。
「見なさいよ! これ! これ!」
カペラは唖然としていた。
頭の中のカペラさえ絶句していた。
怒り狂うおばさんは、カペラに掴みかからんばかりの勢いでさらに喚いた。
「どうしてくれるんだ! ねえこれ! どうしてくれるんだ!」
あたりを見回すと、誰もが、遠巻きにカペラを見ていた。
異物を見る目で。
その視線に、ぞっとした。
人間は弱い。それは確かだ。
だが同時に、人間は多い。
大勢で囲って、数の力で、異物を排除することができる。
恐ろしくなって、カペラは慌ててその場から走り去った。
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