第3話 エクメネ
3-1
大きな姿見の前に、一糸纏わぬ男が立っている。
偉丈夫である。
洗ったばかりなのか、黒髪はしっとり濡れている。
鏡の中の己を見つめながら、筋肉のひとつひとつを張り詰めさせ、あるいは弛緩させる。
「美しい」
サイドチェストで胸の厚みを堪能し、少し体の角度を変えて、サイドトライセップスで腕や腿の隆起を心行くまで眺める。
「そう思わないか?」
鏡越しに声をかけられたのは、部屋の隅に立つ、栗色の髪をシニヨンにした女である。
皺ひとつない白いブラウスをまとい背筋はすっと伸び、目鼻立ちは人形のように端整だ。
女は眉ひとつ動かさず応えた。
「ええ、あなたは美しい。アリスティド」
「美しさは力だ」
ゆっくり体を捻り、両腕を曲げる。形の良い上腕二頭筋が浮き彫りになっていく。
さらに、左腕をまっすぐ上に伸ばす。降り注ぐ光を掴もうとするように。
「人間の中でも力ある者が〈魔法使い〉であるなら、〈魔法使い〉の中でもっとも力ある私は、人間の中でもっとも力ある者であるということ、すなわち、もっとも美しい者であるということだ。そうだな、エアロン」
「そうです、アリスティド」
「美しくあり続けるためには勤勉でいなくてはならない。肉体を磨くことは自らに課した試煉だ。いずれ滅ぶからこそ肉体は美しく、美しく在ることに意味があり、それこそが魂の在りようでもある。肉体は魂の牢獄であるがゆえに」
アリスティドの言葉を遮って「宇野氏から連絡が」とエアロンは言った。「宇野真希葉が〈A7対策チーム〉のチーフに任じられたと」
「ぶふっ、そいつはいい」
笑ってポーズを解いたアリスティドは、大理石の床をひたひた歩き、ガラステーブルの上のプロテインシェイカーを手にした。
エアロンはその動きを目で追った。
「よろしいのですか」
「いいんじゃないか。チーフなら、最前線でリゲルと殴り合うわけじゃない。安全なところから指示を出すだけだろ」
と、プロテインに口をつける。
喉を鳴らしていくらか飲んだあと、アリスティドはいたずらっぽく言った。
「しかし面白いね。これも信太陽子の意志かな?」
「リゲルのことはどうされますか」
「どうもしない。私が何かする必要があるか? これに関してはウンブラかNAGIAの領分だ。それに、私はもともとあのオモチャが何かできるとは思っていない」
本革のひとり掛けソファにその身を沈め、ぼそりと言った。
「まあでも面白い見世物にはなるかな」
「そうでしょうか」
「教育というのは、すごいものでね、エアロン」
アリスティドはアームレストに肘をつき、顎を支えた。
その表情は、どこか楽しそうである。
「血の通わない、にわかづくりの怪物であっても、創造主から〈人間は守るべきものである〉と教育されれば、それが真だと思いこんでしまう。問題は、自分が今まで受けてきた教育が真ではなかったと知ったときだ。そのとき怪物が何をするかが見ものなのだ。アインシュタインも言っている――〈教育とは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、なお残っているものだ〉とね」
エアロンはもう一度「そうでしょうか」と呟いた。
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