2-3




 陽が中天を越えてもカペラはまだ木陰でぼんやり座っていた。

 配給ボランティアはとっくに撤収してしまい、広場はがらんとしている。

 一度、さっきの尨犬がまた近づいてきて、カペラの顔を覗きこんだりにおいを嗅いだりしていった。食べ物を何も持っていないとわかると、さっさとどこかへ行った。

(これから何をすべきだ?)

 わからない、と頭の中のカペラは言った。

(俺たちは銷失したと思われてるはずだ。額を撃ち抜かれて海に落ちたからな)

(俺たちが生きてることを誰も知らないってこと?)

(そうだ)

(助けてくれそうなひととか、匿ってくれるようなひとって、いないのか)

(いない。俺たちは存在を秘匿されながら育てられた)

(知り合いもいない?)

(いない)

(NAGIAに戻るっていうのは……)

(確実に銷失させようとしてくるぞ)

(じゃあホントに何もすることないし行くとこないのか)

(そうだ。俺たちは誰からも何も求められてない。俺たちにするべきことはない)

 俺たちがするべきこと……

 カペラはしばし考えた。

(あのさ)

(うん)

(俺たちは〈煤の王〉を止めるためにつくられたんだよな)

(そうだ)

(〈煤の王〉はどこにいる?)

(わからない。〈煤の王〉の居場所をさがし出すことも含めて、俺たちの仕事だった)

(さがすべきかな)

(わからない)

(ベガとリゲルってどうなったんだ?)

(わからない)

(ベガとリゲルも狙撃されて海に落ちたんだろうか)

(わからない……)

(〈煤の王〉を止めれば、〈煤〉が止まるってことなんだよな?)

(そう言われてる)

(そもそも〈煤〉ってどこから湧いてるんだ?)

(実質的に〈煤〉を吐き出してるのは、〈三樹〉と呼ばれるウラグ――〈ボヘミアのエレギア〉、〈日本のナヅキ〉、〈南極のゲシュライ〉だ。まあこいつらをウラグと呼んでいいかどうかってのは長く議論されてるところではあるんだが。

 人間はこれまであらゆる手を尽くしてこの三樹を破壊しようとした。爆弾を使ったり、土を汚染したり、毒物を打ちこんでみたり。でも、何をどうしようと、三樹は破壊できなかった。たとえ傷をつけることができたとしても、あっという間に再生してしまうんだ。

 三樹を破壊し〈煤〉を止めるには、もう、三樹を生み出した〈煤の王〉を止めるしかないと言われてる)

 そこまで聞いて、カペラはまたしばし考えた。

 考える時間はたっぷりあった。

 雀がそばの木の枝に留まって囀った。

 この公園を拠点にしているのであろう路宿者がやってきて、手洗い場でペットボトルに水を貯めると、カペラのほうをちらちらと見ながらどこかへ歩いていった。

 陽が傾きだした頃、ようやくカペラは言った。

(思ったんだけど)

(うん)

(三樹を破壊したら、みんな喜んでくれるかな?)

(えっ)

(〈煤の王〉を止めたいのは、〈煤〉を止めたいからだ。とにかく〈煤〉をなんとかしたいってことだ。でも〈煤の王〉はどこにいるかわからないから、〈煤〉を出してる三樹を止めたらいいんじゃないか、と思ったんだけど)

(三樹をどうやって止めるんだ)

(それはわからない)

(わからないのか……)

(でも俺たちは〈煤の王〉を止めるためにつくられたんだよな? それって、俺たちには〈煤の王〉を止める力があるってことだ)

(尖兵型すら怖がって泣いてたやつに何ができるんだよ)

(三樹って怖いのか?)

(いや、知らないけど。実際に見たことがないから)

(怖くないかも。見てみるまでわからない)

(うーん?……)

(人間にはできなかったけど、俺たちにはできるかもしれない。わからないけど、やってみなきゃわからないままだ。とにかくやってみよう。ここに座ってるよりずっといい)

(……そうだな)

(もしうまくいって、みんなが喜んでくれたら、俺たちは生まれた意味があるかな?)

(きっとある!)

 よし! とカペラは威勢よく立ち上がった。

(せっかく日本にいるんだから、まず、ナヅキから行ってみよう! ナヅキってどこにいるんだ?)

(関東の山の中にいるって話だ。三樹の具体的な位置は隠蔽されてるが、でも、近くに行けば俺たちならわかるはずだ)

(じゃあ、行こう!)



 目標が明確になると足取りは軽くなった。

 公園をあとにして、カペラは歩いた。

 衣類を身に着け、足にサンダルも履いているので、胸を張って歩ける。

 さっきまで着ていたコートは、捨てるのはもったいなかったので、手に持っていた。また何か役に立つこともあるかもしれない。

 大きな道路沿いにどんどん進んだ。

 途中、バス停を見つけたので、路線図を眺めてみた。が、知らない地名ばかりで、具体的にどのあたりなのかまったく見当がつかなかった。バスを待っても意味がないので――なんせ現金を持っていないので、また歩きだした。

 やがて、近隣商業地域っぽいところに辿り着いた。シャッターが下りている店もちらほらあるが、営業中の飲食店や商店が軒を連ねており、人間も多く行き交っている。スーツを着た会社員らしき男性、買い物帰りと思しき女性、何かを配達しているひと、モバイルで電話をしているひと――このあたりには、はっきりと人間の営みが感じられた。

 ひとが多く集まると、ひといきれで吹き散らされるのか、静かな住宅街よりも〈煤〉はだいぶ薄い。それでもほとんどのひとは防煤マスクを着け、分厚いポンチョを羽織っており、表情は見えなかった。

 陽が傾くにつれ、西日で〈煤〉がオレンジに染まっていく。

 どんどんどん

 シャンシャンシャン……

 そう遠くないところから、楽器の音が聞こえた。

 なんだか賑わっている気配もする。

 カペラはなんとなくそちらに足を向けた。

 駅前の広場に、数十人が集まって人垣を作っていた。一種独特の熱気に満ちている。みんな、上着や鞄、あるいは帽子など、何かしら白いものを身に着けており、共通の意図を持っている人々なのだと知れた。

 人垣の中心には小さな壇が置かれ、その上に立った者がマイクを握って何事かを熱く語っている。壇の左右に控えた男女が、小ぶりな太鼓を叩いたり、タンバリンを振ったりして、場を盛り上げていた。

 防煤マスクを着けていない。

 どんどんどん

 シャンシャンシャン

 壇上の人物が腕を開いて「すー、はー! すー、はー!」と声を出しながら深呼吸すると、白い何かしらを身に着けた人々も「すー、はー! すー、はー!」と胸を上下させた。

 すー、はー! すー、はー!

(たぶんあれが〈煤の王〉の信奉者だな)

 頭の中のカペラが言った。

 カペラはしげしげと彼らを見た。

(あれが……)

(初めて見る)

(俺たちは〈煤〉や〈煤の王〉を止めようとしてるから、あのひとたちにとっては敵かな)

(まあそうだな)

 信奉者たちの輪の外では、白い歯を見せて笑う若い女性数名が、通行人に何かを配っていた。白いチューブトップに白いタイトスカートと、ずいぶん薄着だ。

 通行人に無視されてもまったくめげず、どうぞ! どうぞ! と人懐っこく配りまくり、近づいてきたカペラにも「どうぞ!」と何かを差し出してきた。

 思わず受け取ってしまう。

 角度を変えるとキラキラするシールだった。長い尻尾を持つかわいいキャラクターがウインクし、ふきだしには「Don't be afraid.」と描かれている。

(シールくれた)

(もらうなバカ! 持ってたらアンチに絡まれるぞ)

(アンチ?)

(〈煤の王〉の信奉者を非難する連中だ)

(いろいろいるんだな……)

 カペラは、広場の隅にあった電話ボックスの陰で足を止めると、信奉者たちをそれとなく眺めた。

 夕暮れの中、白いワンピースに白いロングカーディガンを着た人物が新たに壇に上がり、マイクを握ると、信奉者たちがさらに沸いた。

 太い三つ編みをさげた年齢不詳の女性だ。

 化粧っけのない顔に満面の笑みを浮かべ、舞台女優のように腕を広げる。

「皆さーん! その重たいマスクを外して! 恐れないで! あなたの素敵な笑顔を見せて! いっしょに新鮮な〈煤〉を胸いっぱい吸いこみましょう! せーの、すー、はー! すー、はー! ほら! 〈煤の王〉が語りかけてきます!」

 信奉者たちがくり返す。

 すー、はー! すー、はー!

「面白いやつらだ」

 すぐ背後で誰かが言った。

 振り返ってみると、小柄な男がぽつねんと立っていた。

 体を覆う厚いポンチョ。顔をすっかり隠す防煤マスク。

 なぜか、じょうろを腕に抱えている。

「人間がいくら〈煤〉を吸いこんだところで〈煤の王〉の声は聞こえない。アクガレになるだけだってのに。何がやつらをそうさせるんだろうな。恐怖だろうか、希望だろうか」

 こいつウラグだ、と頭の中のカペラが囁いた。

 俺たちも人間でないと見て話しかけてきたんだ。

「だがアクガレが増えるのはいいことだ。〈煤の王〉の支配が進んでるってことだ」

 厚着してマスクを着けていたら、見た目だけではウラグかどうかわからないな、と思う。

 これでは人間は疑心暗鬼になるだろう。

 このひとごみの中にウラグが混ざっているのではないか?――と。

 そして、それは杞憂ではなく、現実としてたしかにウラグは混ざっているのだ。

「ところでおまえは穏健派か? 殲滅派か?」

 と、じょうろのウラグがカペラを指差した。

「えっ」

「どっちでも怒らないから言ってみ」

「あの」

 しばらく待っていてもカペラが「あの、あの」としか言わないので、じょうろのウラグは首を傾げた。

「おまえ言葉が下手だな」

「あ、あの」

「まあ俺も最初は下手だった。下手だったけど上手くなった。おまえも頑張れ」

「う……」

「どちらか決めてないなら穏健派をオススメするぜ。なぜなら俺が穏健派だから」

 じょうろのウラグはンフフと笑った。

 カペラは首を傾げた。

 そのあまりわかっていない様に、じょうろのウラグはいろいろ教えてくれる気になったらしい。

「穏健派ってのは、人間なんかせっせと殺さなくてもいいんじゃない? 放っとこうぜ、と考えてる連中だ。人間は、何もしなくても、どうせ滅ぶ。

 殲滅派は、逆だ。人間なんかさっさとみんな殺しちまおうって考えてる連中だ。〈煤の王〉はそのために俺たちウラグを生んだんだってな。まあそれも一理あるけどなー」

「……」

「おまえ、どっちだと思う?」

「あ、あ、あの」

「殲滅派になるなら、賢いやつとつるめよ。バカはSAKaUに突っこんでいくからな」

 信奉者たちがまた沸いた。

 すー、はー! すー、はー!

 恐れないで! 〈煤の王〉を感じて!

 通行人たちは無視を決めこみ、足早に通り過ぎていく。

「どっちにしても〈煤の王〉は何も言わないからな」

「……」

「俺、ちょっと混ざってみようかな。見物だ。あいつら面白そうだから」

 そう言って、じょうろのウラグは信奉者の輪のほうへ歩いていった。



 道端の地図看板を眺め、駅の切符売り場で路線図を眺めた結果、現在地が大体どのあたりなのかがわかった。山地がどちらの方角かということも見当をつけた。このまま電車に乗れば早いが、電車には乗れない。現金がないので。

 それから、駅前のコンビニエンスストアに置いてある新聞を眺めて、日付を確認した。店員が迷惑そうに睨んでくるので、さっと済ませた。現在、二〇一四年の五月らしい。

(一月に海に落ちたから、丸々四ヶ月、海に沈んでたってことだ)

 そうして再びカペラは歩き始めた。目標に続いて、現在地と目的地まで明確になったので、さらに足取りは軽くなった。今日一日ずいぶん歩いていることになるが、まったく苦にならない。

 大きな道路沿いに進んでいたが、道はどんどん細くなり、交通量もひと気も減って、やがて住宅地に入りこんだ。

 風はなく、行き交う者もない道に、〈煤〉が滞っている。

 すっかり陽は落ち、あたりは暗くなっていた。

 家々の窓からは明かりが漏れているが、街灯はまばらにしか点いていない。

 ひたすらまっすぐ進んでいると、ひときわ暗い路地に入った。広い敷地を囲う垣根が延々とどこまでも続いている。手入れの行き届いていないボサボサの垣根だった。

 虫の声もない。

 前方から男性ふたり組が歩いてきた。防煤マスクを着けて、パーカのフードを目深にかぶっている。

 すれ違ったとき、

「ねえ、ちょっと」

 と呼ばれたので振り返ると、金属バットが顔めがけて飛んできた。カペラのちょうど耳あたりに当たって、カアン!と岩を叩いたかのような音がし、静かな住宅地にこだました。

 びっくりしてカペラはすっ転んだ。

 そのカペラの胸の上に金属バットを持った男が馬乗りになり、もうひとりが、カペラが落としたコートのポケットなどをさぐり始めた。

「はいちょっと点検しまーす」

「う、う?」

 カペラが身を起こそうとすると、馬乗りになった男が金属バットを突きつけてきた。

「大人しくしてろ」

(人間だ。殺すな)

 カペラは動きを止めた。

 ポケットをさぐっていた男が「なんも持ってねえよこいつ」と呆れたように言う。

「なんもってことはねえだろ」

「なんもねえよ」

 馬乗りになった男は、金属バットの表面に気づいて「あれっ、なんかすげーへこんでんな」と首を傾げた。

「おい、こいつ、〈すーはー〉だ!」

 ジャージのズボンのポケットから、あのキラキラシールをつまみ出し、ひらひらさせる。

「Don't be afraid.」の文字が七色に光る。

 馬乗りになった男が「マジか」と笑った。

 カペラの防煤マスクをむしり取ると、すぐそばの側溝に投げ捨てた。

「ほら、すーはーってしろよ。すーはーすーはー」

 ふたりそろって、ぎゃはは、と大ウケする。

 これだけ騒いでいても、住宅地はしんと静まり返り、誰も顔すら出さない。

 カペラの全身を隈なく調べた男が「こいつマジでなんも持ってねえわ」とぼやくと、馬乗りになった男が、落ちていたカペラのサンダルでカペラの頭をパン!と叩いた。

「使えねえ」

 立ち上がると、コートもサンダルもキラキラシールも、まとめて側溝に投げこんだ。側溝には緑色の水が溜まっていて、投げこまれたものはあっという間に汚れた。

 そして、ふたりしてどこかへ駆け去った。

 歪んだ金属バットが何かに当たってコオンと鳴ったのが最後だった。

 ふたり組が戻ってこないようだとわかると、カペラはおどおど身を起こした。

 それからしばらく道の真ん中でぼんやり座っていた。

 やはり、見た目だけではウラグかどうかわからないな、と思う。



 さすがにドブに落ちたものを使う気にはなれなかったので、裸足で歩き始めた。夜のアスファルトはひんやりして、ぺた、ぺた、と足音がよく響く。

 住宅は徐々にまばらになり、土のにおいが濃くなった。手入れされ整った畑と放棄されて荒れた畑が交互に現れ、雑草だらけの野球場が現れ、錆びて傾いたコンテナハウスが並ぶだけのカラオケボックスが現れた。

 どれくらい歩いただろう。

 時計がないから時間が正確にわからないけれど、もう真夜中を回っているはずだった。行く手には月に照らされた灰色の雑木林が広がる。風が吹いて木叢がさざめき、〈煤〉が少し薄まった。人間ともウラグともアクガレともまったくすれ違わないでいると、本当にこの道を進んでいていいのか、という思いに駆られそうになるが、あるとき、気配を感じて振り返ると、そこに、すらりとした獣を見た。

 細く長い四肢。ぴんと立った耳。大きな黒い瞳。

 道の真ん中で、彫像のように動きを止め、カペラをひたと見つめている。

(鹿だ……)

 初めて見た、と頭の中のカペラが囁いた。

 なんて綺麗な生き物だろう。

 月明かりで道に影が滲んでいる。

 思わずカペラが一歩踏み出すと、鹿はパッと走りだし、たちまち木々のあいだに消えた。

 カペラはそれを呆けたように見送った。

 耳を澄ませても、もはや、かさりとも聞こえない。

(動物は〈煤〉の影響を受けないのか?)

(受けないわけない。寿命は短くなってるはずだ)

 と頭の中のカペラは静かに言った。

(でも人間みたいにそれで嘆いたり自棄になったりしないんだ)

 カペラはその場に突っ立って、鹿が消えた暗がりをしばらく見つめた。

 林のどこか奥のほうで名も知らぬ鳥がヒイヒイと鳴いた。



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