2-2




 海岸林で一晩中、じっとうずくまっていたカペラだったが、陽が昇って明るくなってくると、もぞもぞ動き出し、あたりの様子を窺い、感知できる範囲に何もないと納得するまで散々窺って、ようやく立ち上がった。

 きょろきょろ周囲を警戒しながら、朝日を受けて白っぽく照る〈煤〉の中を歩きだす。

 行くあてはないが、とにかくここから離れたかった。

 海を背にして、どんどん歩く。

 歩き続けていると、やがて海岸林は途絶え、やけにひらけた場所に出た。畝やビニールハウスの痕跡があるので、かつては畑だったのだろう。長期間ひとの手が入っていないようで、草がぼうぼうに生えていた。

 放棄された耕地の端っこを、こそこそ進む。

〈煤〉が膜のように上空を覆っているせいで、降り注ぐ日光はずいぶんぼやけているが、それでも緑は瑞々しく揺れていた。花もちらほら咲いている。

 さらに進むと、民家が立ち並ぶようになった。

 住宅街らしいのだが、ひとの姿はなく、静まり返っていた。まだ朝早いからだろうか。進むあいだに、小売店や診療所、小学校なども見かけたが、やはりひと気はなかった。

 雀だけが爽やかに鳴いている。

 何年も〈煤〉に晒され続ける建物の外壁は、築年数に関係なく、一様に煤けて見えた。

 道なりに、ゆるやかな坂を下っていくと、大きな水溜まりが現れた。遠くのほうは〈煤〉で霞んでよく見えないが、見えている範囲はどこまでも水が溜まっていた。海抜の低い一帯が浸水しているらしい。

 水に浸った家屋は軒並み立ち腐れ、傾いていた。

 当然、ひと気はない。

 錆びた門扉に、大きな青鷺が一羽、ここらの主のような顔をして留まっていた。

 魚が棲んでいるのだろうか。

 水は意外なほど澄んでいて、水底に「止まれ」の文字がはっきり見えた。

 水面の様子をしばらく見ていると、どこかで、何かが崩れる重い音、と共に、ざぶんざぶんと水の音がした。腐った家屋が倒壊しているらしい。

 青鷺は知らん顔をしている。

 カペラは来た道を少し戻り、別の道を進んだ。

 相変わらずひと気はない。静かなものだ。

 真新しいゴミ袋が置かれていたり、プランターに綺麗な花が咲いていたり、誰も住んでいないということはなさそうなのだが、どうだろう、やはり誰も住んでいないのか、家の中で鳴りを潜めているのか。

 だらだらとカーブして見通しの悪い生活道路をしばらく歩いていると、行く手に、野犬が集まっているのが見えた。何かを一生懸命食べており、よく見ると、それは人間の死体だった。カペラが近づいてきたのを察すると、何匹かが牙を剥き、低く唸った。怖いので、カペラは大きく遠回りしてこれを避けた。

 陽は高くなりつつあった。

 人間とすれ違うことはまったくなかった……ということはない。生きて歩いている人間を何度か見かけた。しかしいずれも、影法師のごとく暗く薄っぺらく、カペラに目を向けることもなく、たちまち〈煤〉の向こうに消えていった。

 住宅街の隙間を埋めるようにひっそりと線路が敷かれていた。

 線路に沿ってしばらく歩いてみたが、電車の来る気配はない。駅も見当たらなかった。やがて、小さな踏切が見えてきたので、これを渡った。

〈煤〉の向こうから、大勢の人間が歩いてくる気配がした。

 思わず、近くにあった車庫の陰に身を隠す。

 見ていると、〈煤〉の中からずるずると、十数名ほどの老若男女が歩み出てきた。皆一様に虚ろな目をして、その顔も手足も、露出している肌はすべて、煤色に汚れていた。皮膚がべろりと剥がれて垂れ下がっている者もあった。身に着けている衣類はボロボロ、頭髪はバサバサ、裸足の者も少なくない。

 みんなして、ぶつぶつと何かを呟いている。


 あと八人

 あと八人

 あと八人……


 およそ生気というものが感じられない集団だった。

 死者が行進しているかのようだ。

(なんだあれ……)

(そんなことも忘れたのか)

 怒り気味に言われてカペラはしゅんとした。

 しかし頭の中のカペラは教えてくれた。

(あれはアクガレだ。人間が〈煤〉を吸い過ぎるとああなる)

(あれ、人間か? あんなのになるのか?)

(段階的にな)

 頭の中のカペラは噛んで含めるように説明した。

(人間は閾値まで〈煤〉を吸いこむと、まず、無気力になる。鬱のような症状だが、日常生活のことは自分でできるし、まだ〈煤〉への忌避感があって、正気だ。そこからさらに吸ってしまうと、全然動かなくなる。そこまではいいんだが、さらに吸ってしまって、最終段階となると、自我を失って〈煤〉を求めだし、〈煤〉の中を徘徊しだす。あんなふうに。まあ俺も実際に見るのは初めてだが)

 カペラは改めてアクガレの群れを見た。

 自我を失い〈煤〉を求める者たち。

(それまで無気力だったのが嘘みたいに、家族や医者がどんなに止めても、何がなんでも外に出ようとするらしい。その衝動はすごく強くて、たとえ拘束したとしても、自分の腕を引きちぎってでも外に出ようとするという。だからといって、外に出られないように閉じこめてしまうと、壁に体当たりして死ぬまで暴れるそうだ。アクガレになってしまったら、もう諦めるしかないってわけだ)

(どうして外に出ようとするんだ?)

(アクガレ同士で集まって、ああやって、「あと何人」って言いながら、あてどなく歩き続けるため)

(それだけ?)

(観測されてるのはそれだけだ。それ以外のことはしない。人間を襲ったり暴れたりっていうことはない。食事や排泄さえもしない。もうほとんど死体みたいなもんだからな。とにかく、それだけを延々とやり続ける。足かどこかが壊れたり、筋肉が削げ落ちたりして、倒れて動けなくなるまでやる)

(動けなくなったらどうなる?)

(その段階まで来たらもう、顔も体も朽ちて〈煤〉まみれで、見分けなんかつかなくなってる。あとは野犬の餌だな)

(……人間はみんなそうなるのか?)

(みんなってわけじゃない。閾値は個人差がかなり大きいらしい。〈煤〉を大量に吸ってもセーフなやつがいる一方、少量でアウトなやつもいる。初期段階ならリカバリーできるって話もある。

 死のバリエーションが増えただけだ。普通の病気や事故で死ぬやつもいる。〈煤〉由来の肺病で死ぬやつもいる。ウラグに殺されるやつもいる。アクガレになって朽ちるまで歩き続けるやつもいる)

 でもそれって〈煤〉がなければなかった選択肢なんだよな、と思う。

 言っても仕方のないことだが……

(あと八人、って、あれは何を数えてるんだ?)

(わからないが、世界中のアクガレが何かをカウントしてる)

(世界中で?)

(そうだ。アクガレは、二〇〇一年頃、〈煤〉の出始めで世の中が混乱しきっていたときに現れた。当時は〈煤〉やウラグに対処するほうが大変だったから、歩いてるだけのアクガレはほとんどスルーされたみたいだな。

 当初から常に何かをカウントしてて、はじめは「あと何千人」と言っていたのが、どんどん減っていき、二〇〇五年には「あと九人」にまで減った。そこからしばらく変化がなかったが、二〇一一年の十二月に、突然「あと八人」になって、それから今まで数字は動いていない、らしい。

 アクガレが何をカウントしているのかは、わからない。「何人」と言ってる以上は人間なんだろうが、どういう人間なのかわからない。いろいろ議論されてるらしいが、答えはまだわかっていない)

 へえ、と言いながらカペラは、身を隠していた車庫から出た。

 踏切を渡って〈煤〉の中に消えていくアクガレの群れを見送る。

(おまえはなんでもよく知ってるな)

(俺はおまえだから、俺がおまえに知識を教えるのは、おまえが思い出してるだけだ)

 そうか、とカペラは頷いた。



 あてどないのはカペラも同じだった。

 目的はないがとりあえず歩く。

 広い道路沿いに進んでいると、やがて、自動車とすれ違うようになった。〈煤〉で視界が悪いため、みんなのろのろ運転だ。そのうち、人間の姿もちらほら見かけるようになった。〈煤〉を除けるため、誰もが雨合羽やフード付きのポンチョを身に着け、大きなマスクをしている。ゴーグルをしている者もいる。

 少なくない人数が、同じ方角に向かって歩いているようなので、あまり深く考えず、その流れについていってみた。

 そして、広い公園に着いた。

 広場には人間がぱらぱらと集まっていた。折りたたみテーブルが並べられ、いろいろなものを配っているらしい。衣類、日用品、食料――温かいスープを鍋から注いで配っているテーブルもあった。並んでいるのは主に生活困窮者のようだ。彼らは静かに列を作り、粛々と受け取っていた。

 カペラは公園の入り口あたりに突っ立って、様子を見ていた。

 自分も入っていいかわからなかったのだ。

 そうしていると、歌が聞こえてきた。

 なんとなくその歌に引き寄せられ、そろりと広場に近づいていった。配布場所の少し後方に段ボール箱が積まれており、その上に、古いラジオが置かれている。歌はそのラジオから流れていた。

 カペラはラジオの前で歌に耳を傾けた。

 老成しているような幼いような、ひんやりした声が、うら寂しいピアノだけを供に、君なしでは生きていけそうもないし、と歌っている。

「あんたもカラビンカ好き?」

 後ろから話しかけられ、振り返ってみると、知らないおじさんが立っていた。

 顔の下半分に布切れを巻き付けているが、にこにこしているのはわかった。

「から……」

「いい声だよな、カラビンカ。俺も好きだぜ。CDを出さないからラジオやテレビで聞くしかないのが難儀だが。CDを出せばいいのに」

 ひとりでぶつぶつ言いながら、おじさんはどこかへ歩き去った。

 やがてカラビンカの歌も終わり、無機質なナレーションが続いた。

『あなたに選択を。この番組はプルウィス製薬の提供でお送りしています』

(服、もらえるならもらったほうがいいんじゃないか?)

 頭の中のカペラが言った。

 たしかに……と思い、衣類を配っているテーブルの列についた。

(あなたはダメですって怒られないかな?)

(大丈夫だろ。だって、これ、路宿者向けの配給ボランティアだろ)

(ろしゅくしゃ?)

(家も仕事も放棄して、自分の意志で路上で寝起きしてるひとのこと。ボランティアから見たら、俺たちは路宿者と区別がつかない)

(なるほど)

 順番はすぐに回ってきたが、何を言っていいかわからなくて、カペラはまごついた。

「あの、あの」

 衣類を配っている女性は、全裸の上にコートを着ているだけのカペラを見て、一瞬険しい目つきをしたが、不測の事態には慣れているのだろう、すぐに衣類一式を見繕って手渡してくれた。

 カペラはぺこりと頭を下げた。

 公園の隅にあった手洗い場に向かい、ひと目を気にしつつコートを脱いで、体を洗った。長期間海を漂っていたために、髪には藻が絡みついていた。砂や細かい甲殻類もジャリジャリ出てきた。狭い手洗い場で、潮臭い体をなんとか流し、拭くものがないので、べちゃべちゃに濡れたまま木の陰に移動した。

 もらった服を広げてみる。

 下着、Tシャツ、ジャージの上下、サンダル。

 くたくたの使い古しばかりだが、一応洗濯はされているようで、清潔そうだった。

 着てみると、サイズもちょうどよかった。

 Tシャツの前面には、極彩色の鳥が描かれていた。

 古着の中に、厚みのあるマスクが混ざっていた。左右一対のバルブが付いている。

(これは?)

(防煤マスク――〈煤〉を吸いこまないためのマスクだな。俺たちアストルムは着ける必要はないが、人間に紛れるなら着けておいたほうがいいかもしれない。屋外でマスクを着けてないのは、アクガレかウラグか〈煤の王〉の信奉者だ)

(〈煤の王〉の信奉者? そんなのいるのか)

(俺もよく知らないが、〈煤の王〉のことを、この世の真の支配者だかなんだかと考える人間がいるらしい。〈煤〉を吸ってアクガレになりたいとか、〈煤〉を吸えば〈煤の王〉の声が聞こえるとか、まあ、つまり、ちょっとヘンな連中だ)

 へえ、と頷いてカペラは防煤マスクを着けた。

 そのあとはすることもないので、木陰に座ったまま、行き交う人々をぼんやり見ていた。

(そういえば、おなかすいたな)

(おなかがすくわけないだろ!)

 怒鳴られて、カペラは目を丸くした。

(なんで?)

(俺たちはアストルムだぞ。水を摂取するだけで生きていけるんだ。実際、長いあいだ漂流してたのに餓死してないだろうが)

(でも……)

(食べなくても大丈夫だ!)

(でも、おなかすいた)

(はあ?)

 カペラは炊き出しを見た。

 意識してみると、そういえばいいにおいがする。

(俺もあれもらっていいかな)

(俺たちは固形物なんか食ったことないが)

(えっ?)

(えっ)

 ふたりして黙りこんでしまった。

 先に折れたのは頭の中のカペラだった。

(食いたいなら食ってみれば……どうなっても知らないが)

 カペラはいそいそと炊き出しの列に並んだ。

 もらえたのは、ペットボトルのお茶、クラッカーの小袋、紙コップ一杯のコーンスープだった。質素だが、スープからはいいにおいがして、カペラは嬉しかった。

 木陰に戻って、防煤マスクをずらし、いざ食べようとしたとき、一匹の尨犬がどこからともなくやってきた。

 警戒する様子もなく、カペラの前にちょんと座る。

 薄汚れているが痩せてはいない、元気そうな犬だった。愛想よくシッポまで振っている。

 これを無視してカペラはクラッカーの袋を開け、ひとつ食べた。

 スープも一口飲んだ。

(美味いか?)

(よく、わからない)

(だろうな)

 尨犬が突然、ワン! と吠えた。カペラはビクつき、その拍子に、クラッカーをバラバラと取り落とした。尨犬はサーッと駆け寄ってこれを咥えると、サーッと駆け去ってしまった。あっという間のことだった。

「……」

 カペラは残ったクラッカーとスープを黙々と口にした。

 食べ終わってしまうとまたしてもすることはなくなった。

 木陰に座ったまま、配給に集まる人々を見るでもなく見る。

 そんなふうにぼんやりしている者は、カペラ以外にもちらほらいた。

〈煤〉の中にいる者たちはみんな、覇気がなく、緩慢に見える。

 しばらくそうしていると、妙にガタイのいいふたり組が広場に入ってくるのが見えた。

 メタリックなフルフェイスマスクと薄墨色のポンチョ。

(SAKaUだ)

 また怒られるかもしれない、と思いつつ、訊いた。

(SAKaUってなんだ)

 頭の中のカペラは特に怒りもせず答えてくれた。

 もう諦めているのかもしれない。

(NAGIAが抱える、対媒棲新生物・即応強襲部隊だ。媒棲新生物っていうのはウラグの難しい言い方。つまり、人間に危害を加えるようなウラグを排除するための、武装した人間ってことだ。

 訊かれる前に先に言っておくが、NAGIAってのは〈煤〉のことを調べたりウラグの対策をしたりする組織。日本だけじゃなく世界各国にある。俺たちをつくった信太陽子がいたのもNAGIA)

 広場に入ってきたふたり組のSAKaUは、配給ボランティアのひとりと何事かしゃべり始めた。

 ポンチョの陰に小銃をさげている。

(俺をさがしてるんじゃないよな?……)

(違うと思うが)

(きのう、人間勉強会に乱入してきたのもSAKaUだったよな)

(そうだな。まあ、あのウラグども、人間を攫ったり殺したり、かなり派手にやってたみたいだから、もともとSAKaUはあのへんの警戒を強化してたんだろう。露尾したから、検知されたんだ)

(俺も見つかったら排除されるのか)

(まさか。俺はウラグとは違う)

(でも俺って誰かに狙撃されて海に落ちたんだよな。無敵じゃないよな)

(……)

(誰に狙撃されたんだ?)

(わからない)

(そもそも、どうして狙撃されたんだ?)

 頭の中のカペラはしばし黙った。

 そしてぼそりと言った。

(〈アストルム廃棄スキーム〉が発動されたんだ)

(?)

(アストルムシリーズは不要と判断されたんだ、信太陽子とNAGIAに)

(……不要?)

(俺たちは廃棄処分になったってことだ)

(どうして?)

(どうしてかは知らない。知らされてない。知らせる必要もないと思われてるんだろう。俺たちに人権みたいなものはないからな。問答無用で狙撃だ。シュマリ器官狙い撃ち。アストルムも、シュマリ器官を破壊されたら銷失する)

(俺たちは〈煤の王〉を止めるためにつくられたんじゃないのか?)

(ああ、そのためにつくられた。でも、もう要らないらしい)

(……なんでだろ)

 ふたり組のSAKaUは、広場をあとにして、公園から出ていった。

 カペラは俯いた。

 サンダルから出ている自分の爪先をじっと見つめた。

 すぐそばに小さな白い花が咲いている。

(勝手だな)

(そうだな)



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