1-3




 とても寂しい。

 怖い。

 おなかが痛い……

「大丈夫」

 すぐそばで囁く者がいる。

 明るい金髪に、温かみのある茶色の瞳。

 安心して尋ねる。

 ずっと私を守ってくれる?

 金髪の青年が手を取る。

 そして微笑み、応える。

「生涯かけて」



 アラームに驚いて、宇野真希葉まきばは飛び起きた。

 スヌーズをオフにするあいだにも、夢の残像がちらつく。

 私の手を取って微笑む、王子様のような金髪の青年……

 まるで少女漫画だ。

 あんな夢を見るなんて、まさか、そういう願望が少しでもあるのだろうか。

 だが簡易ベッドから離れてしまえば夢のことなどたちまち忘れる。

 宇野真希葉は姿見の前に立ち、シャツにうっすらできていた皺をぎゅっと伸ばした。おろしていた黒髪を手櫛で梳いて、さっとひとつに束ねる。

 仕上げに上着を羽織る。白とグレーを基調として、NAGIA日本のシンボルカラーである紅色のラインが入った制服だ。その襟には乙三等官のバッチが銀色に光っている。

 女子仮眠室から出たところで、声をかけられた。

 観測官の今井丁二等官だ。

「宇野チーフ、ちょうどよかった」

 若くしてチーフになってしまった宇野真希葉が気兼ねしないようにとの配慮か、彼女よりも年下かつ同性の今井が補佐に就いた。気は利くが、入隊して二年そこらではやはり少々頼りないところもある。

 今井はちょっと言いにくそうにした。「お客様がいらしてます」

「客?」

 たしかに宇野真希葉は職務中だが、現在、深夜である。一般的にひとを訪ねるような時間帯ではない。絶対にろくなことはない。

「重要な作戦の前だ。日を改めていただいて」

「それが」と今井は少し口ごもった。「ウンブラ財団の方です」

 宇野真希葉は眉をひそめた。「どちらに」

「第二応接室です」

 宇野真希葉はすぐさま歩きだした。今井はそのあとをついてきた。

 夜間ではあるが、NAGIA日本本部はまだ働く者たちの気配でざわめいている。

 階段を降り、長い廊下をずんずん進み、第二応接室のドアをノックすると、返事を待たずに開けた。

「失礼します」

 第二応接室には、兵術局長の柘植乙二等官がいた。宇野真希葉の現在の上官である。難しい顔をしてソファに腰かけ、こちらを見ようとしない。

 部屋にはもうひとりいた。背の高い、中年の白人男性。キャメルのスーツを着て、左の襟にウンブラ財団のピンバッジをつけている。窓のそばに立って、ブラインドの隙間から外を見ていた。宇野真希葉が近づくと、振り返って微笑んだ。

「これはどうも。お忙しいところすみません」

「〈A7対策チーム〉チーフ、宇野乙三等官です」

「エンゲルブレヒトと申します」

 自然な日本語で名乗った彼は、これまた自然に会釈した。

 柘植は何も言おうとしない。

 宇野真希葉は極めて事務的に続けた。

「どういったご用件でしょうか。急かすようで申し訳ありませんが、重要な作戦が控えております」

「他でもない。その作戦に、私を同席させていただきたい」

 宇野真希葉は少し眉を上げた。「同席、ですか」

「といっても作戦内容に口を出したいわけではありません。横で見ているだけということになるでしょう。オブザーバーみたいなものだと思ってください」

「そういったことを直前に言われるのは困ります」

「これでも急いだのです。こちらが作戦概要を聞かされたのがついさっきだったもので。今回はベガを投入するそうですね――アストルム5・ベガによる、アストルム7・リゲル捕獲作戦」

「そうですが」

「ベガは信太陽子の成果物であり、信太陽子は甲一等官の研究者としてNAGIA日本に在籍してはいますが、本来、ウンブラ財団の人間です。つまりウンブラにはこれを監督する義務、いや、権利があるはずです」

 一月、〈アストルム廃棄スキーム〉の失敗によりリゲルが逃走。

 NAGIA日本はすぐさまこれを追跡、SAKaUによる捕獲を試みたが、リゲルにひどく抵抗され失敗、大きな損害を出した。その後リゲルは、一月に一回、二月に二回、NAGIA関連施設に姿を現した。いずれも絶好のチャンスだったが、捕獲に失敗。〈アストルム廃棄スキーム〉から引き続き指揮を執っていた当時の〈A7対策チーム〉チーフが、三月、責任を取る形で解任。二代目チーフになった者の指揮下で、またしてもNAGIA関連施設に姿を現したリゲルを追跡、捕獲に乗り出したが、やはり失敗。特に四月の作戦ではSAKaUに大きな損害を出した。

 二代目チーフもまた責任を取る形で解任されたあと、チーフの座はしばし空席となっていたが、巡り巡って宇野真希葉にお鉢が回ってきた。

 宇野真希葉は、今年に入ってNAGIA日本本部兵術局に配属されたばかりであった。当初は丙一等官という階級だったが、〈A7対策チーム〉チーフの任を与えられたことで乙三等官となっている。異例の出世ではあるが、喜ばしいものではない。

 宇野真希葉が非常に有能なので抜擢された――ということになっているが、結局のところ、誰もやりたがらない、成功するかどうかも怪しい、何がどう転ぶかよくわからないイレギュラーな仕事を、「新しく入ってきた若い女」に押し付けているのだった。

 若い女なら、失敗しても「やっぱりね」で片づけられる。いずこかに謝罪するはめになっても、女が粛々と頭を下げれば溜飲も下がるだろう。この失敗が響いて出世が遅れたとしても「仕方ない」で済まされる。女なら。

「断ることはできなさそうですね」

 宇野真希葉の冷めた一言に、エンゲルブレヒトは卒なく微笑んでみせた。

「あなた方を信用していないというわけではないのです。ウンブラは皆さんの能力を信じています。ただ、〈A7対策チーム〉が失敗を繰り返し、甚大な損害を出していることも事実です」

「……」

「それに」とエンゲルブレヒトは少し声を落とした。「お父様も心配なさっていますよ」

「父は関係ありません」

 宇野真希葉の父親、宇野信頼はウンブラ財団日本支部の重役である。

 そのため、今回の人事について、NAGIA職員の中には「親の七光りだ」と思っている者も少なからずいるようだ。そんなわけないのだが。

 宇野真希葉はふうとひとつ息を吐いた。

「おっしゃることはわかりました、エンゲルブレヒトさん――しかし、財団関係者とはいえ、今回のような機密性の高い作戦に、外部の方を同席させていいのかどうか、私は判断できる立場にありません。私は一チームの長に過ぎません」

 すると、それまで黙っていた柘植がすかさず「こちらは構いません」と言った。

 おい……と宇野真希葉は内心で呻いた。

 エンゲルブレヒトが「問題ないそうです」と肩をすくめてみせた。

「ではご自由になさってください」

 なげやりに言ったのとほぼ同時に、柘植と宇野真希葉、そして今井のモバイルから同時に通知音が鳴った。

 取り出したモバイルの画面を見て、宇野真希葉は踵を返した。

「動きがありました。私は指令室に行きます。同席したいならどうぞ」

 今井を伴って第二応接室を出ると、エンゲルブレヒトもついてきた。

 足早に廊下を進む中、

「作戦の詳細は?」とエンゲルブレヒトが訊く。

「アイラスがリゲルの出現を予測した地点に、露尾したベガを直接投入します」

「ほう」

「これまではリゲルが現れた地点にSAKaUを急行させていましたが、それではどうしてもリゲルに有利です。リゲルは手強い。特に彼のスフィアは脅威です。これまでSAKaUに死者が出ていないのは、運がよかったのではなく、リゲルが手加減したからに過ぎません。通常のウラグを相手にするように動いていては、リゲルを捕らえることはできません」

 指令室に入ると、すかさず観測官のひとりが宇野真希葉にタブレットを渡した。

 正面に掲げられた複数のモニターには各種情報が映し出され、向かい合うように並んだコンソールには観測官やオペレーターが着いている。今井もまた定位置に座った。

 宇野真希葉は虚空に向かって声をかけた。

「アイラス、配置についた」

『宇野乙三等官、確認しました』

 穏やかな女性の声が降ってきた。機械音声とは思えないほどなめらかな声だ。

 指令室を見回しながら、エンゲルブレヒトは「素朴な疑問なんですが」と言った。

「ベガはリゲルと戦うでしょうか」

「ベガは我々に非常に協力的です」

「しかし、彼らはきょうだいのように育てられたといいます。自分を廃棄しようとしているNAGIAに、きょうだいを捕らえてこいと言われて、はいわかりましたと素直に言うことをきくものですかね。まあ彼らアストルムシリーズにそんな情緒があるのかどうか知りませんが」

 宇野真希葉は横目でエンゲルブレヒトを見やった。

「ベガのシュマリ器官にBxパックを埋めこんであります。起動すると激しく燃焼し、二千度に達してシュマリ器官を焼き切ります。ベガがこちらの指示に背いたり、リゲルと結託する様子を見せた場合、即座に起動できます」

 エンゲルブレヒトは薄く笑った。「なるほど、それなら安心だ」

 やな感じのおっさんだな、と宇野真希葉は思った。



 夜気を切り裂いて、ヘリが一直線に飛んでいく。空撮や調査飛行などを主な事業とする民間企業が所有している機体を、NAGIAがこの作戦のために借り上げたものである。

 俯瞰する市街地は、全体的にもったりと〈煤〉に覆われていた。風向きによってムラが出るが、今夜は濃いほうだろう。地上を走るヘッドライトが〈煤〉で滲んで見える。

 プロペラとエンジンの音が轟く中、パイロットが、後部シートに座っているSAKaU隊員に向かって、ヘッドセット越しに怒鳴った。

「本当にリペリングではないんですね」

 念を押されたSAKaU隊員は、神妙な顔で「そうです」と返したものの、どこか不安げに向かいのシートを見やった。そこには、ベルトもせずに、開け放したドアから臆さず地上を見下ろしている青年がひとり。

 遠慮なく吹きこんでくる強風に、SAKaU制式の訓練服がはためいている。

 パイロットが不安になるのもわかる。

 ただの人間にしか見えないのだ。

 SAKaU隊員は、ヘッドセットをしていないその青年に向かって、大声で言った。

「本当に大丈夫なんだな」

 ふと上げられた青年の顔は、右半分がひどく爛れていた。

 右のこめかみには乾電池ほどの大きさのプレートが埋めこまれている。

 青年の唇が動いた。

「問題ない」

 右の瞳は爛れた瞼で塞がっている。

 一方、左の瞳は――不思議な色をしていた。瞳孔の周りが明るい色で、虹彩のふちが濃い色だ。瞳の中に光が灯っているかのようで、だから、夜の中でもよく映えた。

 SAKaU隊員はなんとなく気圧されながら、手振り付きで言った。

「ビーコンを」

 青年は素直に二の腕に手をやり、アームバンドに取り付けられたビーコンのスイッチをオンにした。

 これを確認して、SAKaU隊員は機外を指差した。

「作戦開始だ」

 青年は躊躇うことなく機外に躍り出た。水溜まりでも飛び越えるかのような軽やかさだった。たちまち重力に捕まり、落下していく。

 SAKaU隊員は身を乗り出して下を見た。

 ヘリは最低安全高度を保って飛行しているため、地上までの距離は数百メートルある。

 深夜のこと、眼下に広がる市街地に灯りはまばらだ。

 落下する青年の姿はたちまち〈煤〉の中に消えた。

 SAKaU隊員はヘッドセットのマイクに向かって言った。

「ベガ、降下!」



 廃屋になって久しい商業施設に隣接する、ひと気のない自走式立体駐車場の屋上をぶち抜き、三階の床をぶち抜き、二階の床をぶち抜いて、大量の瓦礫と共に、露尾したベガは一階の床に降り立った。

 その姿は、尖兵型のウラグとは明らかに違う。

 尖兵型は、深く裂けた口に長い牙、趾行、鉤爪――と獣じみたフォルムをしているが、それに比べるとベガのバランスは人間に近い。地を強く踏みしめる蹠行性の足。均整のとれた体躯。煤色の外殻で幾重にも全身を鎧った騎士のような威容。

 背骨に沿って鶏冠状の背鰭があり、腰からは身の丈よりも長い尾が伸びている。巨躯であり、天井が低いこの立体駐車場内でまっすぐ立つと、梁に頭がつかんばかりだ。

 兜のような頭部に錣のような頸部、人間で言えば目のある位置には窪みがあり、それが彼の目のように見えるが、その顔の右側は、露尾してもなお爛れ、崩れていた。

 外殻に絡みついた訓練服の残骸をむしり取る。

 粉塵の向こうに、人影がひとつ。

 突然降ってきたベガを唖然と見つめ、呻くように言った。

「……ベガ!」

 瞳孔の周りが明るい色、虹彩のふちが濃い色――

 ベガと同じ色をしている。

 そして、ベガと同じ顔をしている。

「リゲル」

 返事の代わりにリゲルは下からすくい上げるように手を振って、何かをばらまいた。ビー玉よりひと回り大きいくらいの、煤色の球体だ。放られた五個の球体は、空中で不自然な鋭角を描いて急に曲がると、ベガに向かって一直線に飛んだ。ベガは、しかし、これを予想していたのか、真正面から来たひとつを拳で叩き落した。二個目、三個目も立て続けに叩き落し、四個目と五個目はまとめて掴むと、握り潰した。

 その隙にリゲルは駆けだし、二階へつながるスロープを上がる。

 ベガもリゲルを追おうとスロープに足をかけた。

 リゲルはスロープの中ほどで立ち止まると、振り返ってベガを見下ろした。その袖口から、服の裾から、煤色の球体がバラバラと無数にこぼれ落ち、ベガに向かって勢いよくスロープを転がり始めた。

 ベガは数メートルも飛び退り、そこに転がっていた何十センチもの厚みがある巨大な瓦礫――自身がぶち抜いた天井の一部を持ち上げると、前にかざした。盾にされたコンクリート塊の表面に、無数の球体が散弾のごとく喰いこむ。

 穴だらけになったコンクリート塊を遠くに投げ捨て、ベガは床を蹴って駆けた。床材が砕け、進路上にあったパイロンや案内板が吹き飛んだ。ほとんど二歩か三歩でスロープを上がり二階に滑りこむ。

 そのベガに向かってバンが突っこんできた。エンジンがかかっているわけではない。この廃駐車場に放置されている車両のひとつを、リゲルが突き飛ばしたのだ。ベガはこれを片手で止めた。ピラーに手をついたため、接するガラスがへこみ、細かくヒビが入って真っ白になった。

 ころろろ、とバンの下をくぐって球体が数個、転がり出てきた。かと思うと、射出されたように飛び、一斉にベガに襲いかかった。咄嗟にかざした腕の外殻や掌にいくつかめりこむ。間髪容れず、サイドウインドウを突き破って球体が飛び出し、ベガの胸殻に撃ちこまれた。

 ベガはのけぞったが、すぐさま立て直した。バンの車体に裏拳を入れて吹き飛ばし、数メートル離れた場所にいたリゲルに一歩で距離を詰めるとタックルを決めた。二百数十センチの巨体に体当たりされて、リゲルは軽々と吹っ飛んだ。コンクリートの柱に背中から激突し、柱のほうが陥没する。

 リゲルは機敏に立ち上がると、右手を目の高さまで持ち上げた。

 その袖口から新たな球体が数個、転がり出る。

 けたたましい銃撃音が響き、リゲルが勢いよく倒れた。リゲルの背後の柱が、そのすぐそばにあった車のボンネットが、フロントガラスが、一瞬で蜂の巣になる。タイヤが破裂して空気が一気に抜け、放置車両が一列一斉に、何センチも沈みこんだ。

 この階に潜んだSAKaUが、どこからか、軽機関銃を掃射したのだ――立体駐車場の中は、太いコンクリートの柱や放置車両など、隠れることができる場所が多い。

 リゲルはすぐに身を起こそうとしたが、今度はまた別の方向から銃声が上がり、あたりを撃ちまくった。

 集中砲火である。

 掃射は数秒で止んだが、轟音の余韻があたり一帯にこだましていた。

 ベガは、粉塵がもうもうと立ちこめる空間に目を据えていた。空中に閃くガラス片が徐々に治まっていく中、ベガは、穴だらけになった軽自動車の前で立ち止まり、フロントグリルを掴むと、ひっくり返した。

 その陰にリゲルが倒れ伏していた。

 無数に被弾している。

 リゲルは立ち上がろうともがき、ベガはその背中をしばし見つめた。

 伸縮性のある素材のため、露尾しても破れなかった左腕のアームバンド――これに取り付けられたビーコンからの信号を標的にして、ベガが被弾域にいてもお構いなしに、SAKaUは弾雨を浴びせた。

 5.56mmNATO弾使用の軽機関銃ではアストルムの外殻は撃ち抜けない。

 それはリゲルもわかっているはずだった。

 ではなぜ露尾しないのか。

 ベガ相手に完全な戦闘態勢になることを躊躇しているからだ。

 ベガはそれをよくわかっていた。

「もう抵抗するな」

 なお立ち上がろうとするリゲルに、ベガは静かに声をかけた。

「SAKaUは、おまえの捕獲を最優先としてるが、それはウンブラに対する建前だ。いざとなれば銷失させることもやむなしと考えてる」

「NAGIAに戻っても銷失させられるだろ!」

 リゲルは顔を上げ、ベガを睨んだ。

 あの複雑な色の瞳で。

「なんでNAGIAの味方をする」

「これが信太陽子の意志だからだ」

「理由もわからないまま黙って廃棄されろってのか!」

「仕方ない」

 その言葉に、リゲルは声を詰まらせた。

 ベガはリゲルに手を差し伸べた。

 人間の頭部くらいすっぽり包みこんでしまえそうな巨大な手である。

「いっしょに来い、リゲル。NAGIAに戻るんだ――」

 ベガとリゲルはハッと同じ方向に顔を向けた。

 三階へと続くスロープ。

 そこから、何か来る。

 バキバキ、パン、パキ……

 細く硬いものがこすれ合い、軋み、あるいは折れる音がする。

 見ていると、黒く巨大な、影の塊のようなものがぞわぞわと、スロープからこぼれんばかりに這い出てきた。黒い束を複雑に絡み合わせながら、スロープを流れ、二階の床を覆い始める。粘菌のごとく柱を這い上がり、梁を伝って天井を這う。

 ベガとリゲルは後退った。

 これは、

「樹?」

 絡み合ってひとかたまりに見えるが、一本一本は、樹の枝のようなものだ。

 離れたところから男の絶叫と一瞬の銃声が聞こえた。

 おそらくこの階で軽機関銃を撃っていたSAKaU隊員だ。

 しばし緩慢な動きを見せていた黒い樹が、急に勢いをつけ、質量を増しながらベガとリゲルのほうに枝を伸ばしてきた。あきらかに意図を持った動きだった。

 ベガは、すぐそばに停まっていたセダンのボンネットに爪を突き立てた。包装紙でも剥がすかのようにボンネットを剥がすと、左右に力を加えて、縦に引き裂いた。

 無理に裂かれて鋭く尖った断面で、這い寄ってきた黒い枝を薙ぎ払い、圧し潰す。

 支援のつもりか、もう一方のSAKaUが掃射を始めた。弾丸は、黒い樹に当たってはいるのだが、細い枝の集合体のようなものであるから、当たったとしてもダメージらしいダメージはほとんど与えられていないようだった。

 黒い樹の塊はさらに膨張し、あたり一帯を埋め尽くすほどに拡がった。また密度も増して、圧倒的な物量で、たちまちベガの全身に巻きつき、彼を引き倒す。

 ベガは自分に巻きつく枝をまとめて掴み、引きちぎった。硬い。ベガでさえ力をこめなければ引きちぎれない。ものともせずに伸びてまた絡みついてこようとする枝を振り払い、引きちぎり、身を起こす。

 黒い樹はリゲルにも巻きついていた。リゲルは抵抗していたが、露尾したベガほど腕力はなく、また、負傷しているため、声もなく、あっという間に枝の中に埋もれてしまった。

「リゲル!」

 リゲルを包みこんだ黒い樹は、そのひとかたまりが分離し、枝を節足動物の脚のごとく蠢かして床を這うと、気持ち悪いくらい素早く移動し、駐車場のペラペラの外壁を破って、夜闇が広がる外へと飛び出した。

 追おうとしたベガの足にまだしつこく枝が絡みつき、これらを振り払って穴に駆け付けたとき、すでにそこには何者の姿もなかった。気配すら消えていた。振り返ると、あれだけあった枝はすべて、さらさらと端から崩れて〈煤〉に戻っていた。

 一瞬のことだった。



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