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 二〇〇〇年一月、プラハ近郊の森の中で、森林管理者は歌声を聞いた。

 小さな子供でも迷いこんだのかと思い、森の奥に分け入ってみると、そこに、今まで見たこともない樹が一本生えているのを見つけた。樹高は彼の背丈と同じくらいで、たいして大きくはないのだが、樹皮に黒鉛のような暗い光沢があり、触ってみるとつるりと滑らかで、やけに硬い。葉はついていないが枝ぶりはよく、この緻密な枝のあいだを風が通ると、哀しい歌のような澄んだ音が鳴るのだった。

 よく見ると、樹から暗色の煙がうっすら立ち昇っていた。森林管理者は驚き、火のついた箇所をさがした。が、どうにも見当たらない。とはいえ、このまま放っておくわけにもいかない。

 森林管理者は慌てて町に引き返し、消防団を連れて黒い樹のところに戻った。

 黒い樹は変わらず煙を立ち昇らせていた。

 延焼するとまずい。

 消防団は、この黒い樹に水をかけたり土をかけたり、消火剤をかけたり、思いつく限りのことを試みた。けれど、煙が途絶えることはなかった。

 そもそも、燃えていないのだ。火がついていない。

 ある消防団員が言った。

「煙じゃない」

 煙とは違う何かが森を覆い、やがて近隣の町を覆い始めた。

 住民は恐れ、困惑した。

 においはない。

 触れたり掴んだりすることもできない。けれど、吹き飛ばすことができる。住民はあらゆる手段を講じてこれを吹き払おうとしたが、大抵はうまく行かなかった。一時的に払うことはできても、しばらくするとまた黒い樹から漂ってくるのだ。

 いつからか、住民たちはこれを〈煤〉と呼ぶようになった。

 物を燃焼した際に出るいわゆる煤とは違うが、なぜかそう呼ばれた。

 誰が言いだしたかはわからない。

 それは、得体が知れないがゆえに恐れられ疎まれもしたが、美しかった。音もなく地面を覆う様は霧に似ていた。見る角度や光の具合で微妙に色相が変化した。あるときは波紋のように揺らめき、あるときは得も言われぬ艶を見せた。

〈煤〉が森を越えて大きな街に到達するのに、そう時間はかからなかった。

 影響範囲が拡大すると人間たちの反応も大きくなった。静かだった森には警察が常駐するようになり、マスコミが集まり、野次馬が遠方からも集まり、様々な大学や研究機関から派遣されてきた者たちが集まった。

 ある日ついに黒い樹を伐り倒すことになった。

 この樹は貴重な種かもしれない、様子を見よう、と反対する者もあったが、〈煤〉の拡散を止めることが優先された。

 その幹は異様に硬く、作業は難航した。チェーンソーを何本もダメにしながら何時間もかけて、ようやく深い傷をつけることができた。しかし、多くの者が見守る中、信じがたいことに、傷はたちまちのうちに塞がってしまった。自分たちが向き合っているものが、植物などではなく、未知の何かだと悟ると、伐採業者たちは一斉に手を引いた。

 とうとう軍が動き、黒い樹を爆破することになった。

 威力の強い爆弾を使ったから、多くの者が、これで片が付くだろうと考えた。しかし、黒い樹は倒れなかった。傷がついてもえぐれても焼かれても、やはりたちまちのうちに元の状態に戻ってしまうのだ。

 発見されたときは成人男性の背丈とさして変わらなかった樹高が、いつしか、森の中のどんな木よりも高くなっていた。枝は他の木々を押しのけて力強く伸び、森に大きな影を落とした。

 同年三月、日本の関東山中で、まったく同じ黒い樹が発見された。

 こちらも〈煤〉を吐き始め、たちまち、あたり一帯を煤色に霞ませていった。



 次に、雨が降った。

 天が融けだしたかのようなたいへん豪雨だった。高いも低いも暑いも寒いも関係なく、世界中のあらゆる場所で降った。何日も止まなかった。すぐに地盤が緩んだ。あちこちで土砂崩れが起こり、水門が破れ、洪水になった。農作物は腐るか土ごと流された。多くの死者が出た。数えきれないほどのひとが家を失った。地形が変わった。それでも雨は止まず、厚い雲は途切れなかった。地上からすべてを洗い流さんばかりに降りしきる雨は、人々に方舟の神話を思い出させた。

 長い雨のあと、ようやく太陽が顔を覗かせた。

 水が引き、大気が乾いた。

 と同時に〈煤〉が世界中を覆った。

 大地から浸み出てくるかのように、それは静かに速やかに進行した。

 豪雨前よりも濃くなった〈煤〉が、各地の復興を阻害した。

〈煤〉の中を蠢くものが現れたのはこの頃からである。

 人間よりも遥かに強靭な煤色の生物が、〈煤〉のあるところならどこでも、世界中に出没した。彼らはいつも〈煤〉から現れ、〈煤〉に隠れた。彼らは一様に、人間に強く執着し、退けても退けても、人間に近寄ろうとした。ある者は人間を積極的に殺し、ある者は物陰に潜んで人間を観察し、ある者は知性を見せて人間と対話しようとした。

 この媒棲新生物はウラグと呼称された。

 ありのままの姿では警戒され攻撃されると学んだウラグの中から、やがて、人間に擬態する者が現れた。もちろん、いきなり完璧に擬態することは難しく、一目で人間ではないとわかる不格好なものばかりだったけれど、「我々の中にウラグが紛れこんでいるのではないか」という疑念を人間にいだかせるには充分だった。

 同年十二月、ドイツ南極基地から数十キロ離れた地点で、三本目の黒い樹が発見された。

 いつからそこにあったのかはわからない。発見されたときにはすでに天を衝くような巨木で、氷ばかりの白い大地がそこだけ暗かった。

 蓬々と噴き上がる〈煤〉は、地球上最強と言われる南極の風にのって、速く遠く、どこまでも流れていく。

 地吹雪が吹きつけると硬い枝が一斉に震え、悲鳴のような音が響くという。



 塵肺に近い症状を訴える者が世界同時多発的に現れた。

 原因はもちろん〈煤〉だった。これが人体に悪影響を及ぼす物質であるということが人命をもって証明されたのだった。それまでも〈煤〉がなんであるかという研究は総力を挙げてなされていたが、人間の叡智が及ぶ速度より、〈煤〉が猛威を振るう速度のほうが、遥かに速かった。

 防塵マスクやガスマスクが飛ぶように売れて品切れを起こした。

 地方へ逃げ出そうとする者が殺到して、大きな道路はどこも暴動と変わらない騒ぎになった。しかし、地方だろうが山奥だろうが現状は似たようなものだとわかると、大移動の列はやがて消えた。

 街から子供の声が消えた。

〈煤〉。ウラグ。肺病。

 ドミノが倒れ広がっていくように混乱は拡大し、良識と秩序が消え、人心は荒んだ。先進国の住宅街の道端に死体が転がるようになった。治安の良さを謳っていた国でも迂闊に外を出歩けなくなった。

 愛する者を喪った人々や、未来を悲観した人々が、自らの手で命を断ち始めた。

 自殺は蔓延し、自殺薬なるものが飛ぶように売れ、自殺を円滑に行なうための商売が繁盛するようになった。致死率の高い伝染病が流行っているのかようだった。

 緊急車両のサイレンが日がな一日鳴り響き、それも少しすると、音がうるさいとの苦情からサイレンを止めて走行するようになり、ある一時は、出動しなくなった。

 ひとが忽然と消え、消えたぶん流動し、あらゆる職場が混乱した。

 商店は戸を閉ざすようになった。強奪が増えたから。

 政府機関や裕福な家庭が襲撃された。何もしてくれなかったから。

 知人や隣人など身近な者を、なんの前触れもなくいきなり殺そうとする者が増えた。ウラグが化けているような気がしたから。

 愛情を動機とする殺人が後を立たなかった。家族やパートナーにこんな世界を生きてほしくなかったから。

 ある国で、あるテレビ番組に出演していたコメンテイターが、黙示録の一節を引用した。

「我見しに、一羽の鷲の中天を飛び、大なる声にて言うを聞く。曰く、地に住める者どもは禍なるかな、禍なるかな、禍なるかな。なお他に三人の御使いの喇叭を吹かんとするに因りて」……

 そのコメンテイターは番組収録後に死んだ。彼自身が望んだ死だった。彼の信じる宗教では自殺は禁じられていたから、彼は妻に引鉄を引かせた。妻もすぐに後を追った。



 現実感を失うほどの勢いで世界はくしゃくしゃになったが、だからといって人間が滅び去るわけではなかった。自分や自分の愛する者だけがひどい目に遭っているのではない、世界中がこうなのだと思えば、人間は意外と順応してしまう。

 多少減ったが、それでもまだかなりの数の人間が、ねぐらの中から息を潜めて世界が遷り変わっていく様をじっと見つめていた。

 うっかり生き延びたことを、喜ぶべきなのか悔いるべきなのか。

 自棄と諦観を繰り返しながら十数年。

〈煤〉の途絶える兆候はない。



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