煤の王/toy soldier

42℃

第1話 彼女が愛した星の名前

1-1




 波が肌を洗う感触で目が覚めた。

 汀に俯せで倒れ、横向けた顔の半分以上が水に浸っていた。

 このにおいは海水か。

 起きなければ。

 身を起こす、どうということのないはずのその動作が、ひどく難儀だった。関節が凝固したように動かしがたく、重く、全身が軋んだ。

 夜の浜でひとりもがく。

 時間をかけて、ようやく、上体を持ち上げた。髪や睫毛の先から海水がとめどなく滴り、雫が落ちて弾けたその場所が、滲むように青く光った。

 座りこんだ彼に波がぶつかるたび、暗い色の水の中で青い燐光が灯っては砕けて拡散した。寄せては返す波頭も、近く遠く、悪夢のように青く光っていた。

 塩水に霞む目で、その熱のない青さをぼんやりと見つめた。

 なぜこんなに光ってる?

(夜光虫だ)

 頭の中で、声がした。

(生物が放つ光がアリスティド放射光に似ているのはなぜなんだろうな)

 なぜって? なにが? だれが?

 彼は額を手で押さえた。

 そこがひどく痛むような気がしたのだ。

(痛むはずはない。それに、もう再生してる。傷になってはいるが)

 傷?

 指先で額を撫でてみる。

 たしかにそこはでこぼことケロイド状に波打っていて、髪の生え際から眉間、鼻筋に至るほどの大きな傷が刻まれていた。

 なぜこんな傷が?

(そうだな。アストルムに傷が残るなんてあり得ないことだが、まあ、なんせ時間がかかったから。何事もなかったかのように元通りとはいかないだろう)

 なんでも知っていると言わんばかりの冷静なその声に、彼は問うた。

(なんなんだ、どうなってる)

(何も覚えてないのか)

(……おまえは誰だ)

(俺はおまえ)

 ひときわ大きな波がぶつかってきて、彼の体を揺らした。

 あたりに青い燐光が散る。

(俺とおまえは元はひとつで、今のように分離してはいなかった。だが一月のあの日、狙撃され、海に落ちた。シュマリ器官が頭部にあるとバレていて、狙撃手は腕がよかったんだ。

 シュマリ器官は深刻に傷ついたが、完全に破壊されたわけではなかったから、すぐに再生が始まった。けど、海の中に〈煤〉は少ないから、うまく集塵できなかった。俺たちの体は水に浮かないし……結局、長期間、海を漂うことになった。

 どのくらい海にいたかは、もうわからない。十日を超えたところで数えるのをやめた。かなり長い期間だったと思う)

(……)

(シュマリ器官が傷ついてるあいだは動けない。海の中を漂ってるだけだ。再生は遅々として進まず、不安定な状態が続いたせいか、そのうち、眠って力を温存しようとする部分と、起き続けて周囲の状況を把握しようとする部分で、分離してしまった。

 眠り続けたのがおまえ、起き続けていたのが俺、というわけだ。俺とおまえ、ふたつの意識に分かれた状態で、それでも少しずつ再生は進み、そして、ようやくおまえが目覚められるまでになった。ひとつの体の中にふたつの意識が残ってしまったけど、でもこれは、アストルムシリーズがそれだけ強いってことだ。普通のウラグだったら、狙撃されて海に落ちた時点でダメだったろう)

(……)

(わかったか?)

(?)

(やはり何も覚えていないようだな。再生するまでが不安定だったから、どこかがバグるとは思っていた。だが理解しろ。してもらわないと困る。この体を動かせるのはおまえなんだから)

 一度にいろいろ言われても何もわからなかった。

 ぼんやりと周囲を見渡す。

 波の中で青白く閃く夜光虫以外、周囲に動くものはなく、砂浜はただただ暗い。建物のシルエットや灯りなども見えない。空には雲が厚く垂れこめていて、星も見えなかった。

 しばらくじっと耳を澄ませていたが、寄せては返す波の音しか聞こえない。

(ここはどこだ)

(わからない)

(安全か? 移動するべきか?)

(待て。何か来る)

 彼は体を固くした。ここには身を隠すことのできるような場所がない。

(何が来る?)

(人間じゃない。ウラグだ。わかるか?)

(わからない、何も)

(……そうか、第六識だけは俺のほうに残ったのか)

(どうすればいい?)

(あっちも俺たちに気づいてる。逃げても不審に思われる。仕方ない。やり過ごせ)

 彼は体を強張らせて待った。

 やがて姿を現したのは、奇妙なふたり組だった。

「ほら、やっぱりいた。俺の第六識は正確だ」

「おまえだけじゃない。俺だって感知していた」

「俺は正確だ」

「俺だって正確だ」

 ごちゃごちゃと言い合うこのふたり組、パッと見は人間――いずれも、風采の上がらない中年男性、といった雰囲気なのだが、よくよく見ると、なんだかおかしい。

 ひとりは、つるつるに禿げあがった頭部が極端に縦に長く、土気色に膨らんでいた。この巨大な頭部を、細い首で支えて不安定にゆらゆらしているのだった。ダズル迷彩のような目にうるさい白黒パターンのパーカを着て、ずっと体を揺らしている。

 もうひとりは、目鼻の配置もてらてら光る皮膚も、まるで深海魚のようだった。そこまで気温が低くないのに、カーキ色のコートにセーターを着て、さらには毛糸のマフラーを首に巻いていた。

 二本の足で立って歩いて服を着て、笑ったり言葉を話したり、人間のごとく振舞っているが、あきらかに人間とは異なる。人間のことをちゃんとは知らない何かが、表面的な知識だけで、人間のふりをしているような有り様だった。

 しかも当人たちは、自身の奇妙さに気づいていない、あるいは、頓着していないらしい。

「おまえもウラグだな?」

 ダズル迷彩の瓢箪頭に尋ねられて、彼はおどおど俯いた。

 その顔を覗きこむようにして体を折り――細い首が頭部の重みでポキリと折れてしまいそうだったが、意外と柔軟に曲げてみせて――瓢箪頭はじろじろと彼の顔を眺め回した。

 彼は怯えて身を引いた。

 すると瓢箪頭は感心したように言った。

「おまえ、すごくうまく擬態できてるな。破綻がない」

 深海魚顔も「たしかに、たしかに」と同意して頷いた。

「顔なんか特に、その造形のリアルさ、大したもんだ」

(いっしょにするな。アストルムシリーズはそのへんのウラグとは違うんだ)

 そんなことを言われてもよくわからない。

 わからないことだらけだ。

 怖い。

 彼は体を丸めるようにしてますます俯いた。

 すると深海魚顔が言った。

「造形は全体的にいいぞ。でも、額の傷がよくない。人間はそんなところに傷はない。目立ってしまうぞ。消せないのか」

 どう答えていいかわからず、彼は呻いた。

「う……う……」

 瓢箪頭がギャハハと笑った。「おまえ、言葉が下手だな」

「俺たちは、見た目はまだまだだが、言葉はうまいだろう。いっぱい練習したからな」

「そうだ、そうだ」

「シッポもちゃんと隠してるし」

「そうだ、そうだ」

「それに、人間は服を着ているものだ。裸ではいかん」

 そう言った深海魚顔が、羽織っていたコートを脱いで、彼に差し出した。

「これを貸してやろう。俺は親切だ」

「親切だ、親切だ」

「人間らしさだ」

 額に傷のある彼は、海水に浸ったままの自分の体を見下ろしてみた。そういえば、一糸纏わぬ姿なのだった。長期間海を漂っているあいだに、身に着けていたものはすべて藻屑となって消えたらしい。

 コートを抱えてぼうぜんとしていると、深海魚顔が言った。

「おまえは擬態に関してはいいセン行ってる。人間勉強会でもっと人間を学ぶべきだ」

「そうだ。いっしょに行こう」

「俺たちはもっともっと人間のことを学ばなくてはいけない」

 ふたり組は当人を差し置いて「行こう、行こう」と勝手に盛り上がった。

(……人間勉強会って、なんだ)

(知るか。でも、拒んでもややこしいことになりそうだ。ここにいてもしょうがないし、ついてってみよう。歩けるだろ?)

(ひどいことされないだろうか)

(俺たちを傷つけることのできるウラグなんていない)

(……)

 彼は腰を上げた。長いあいだ動かしてこなかった凝り固まった関節で、ぎこちないながらも、なんとか立ち上がった。その動きで生じた飛沫の中で夜光虫たちがもやもやと青白く光り、あたりはほんの数秒、砂浜にうっすら影が射すほど明るくなった。

 機嫌よさそうに歩きだしたふたり組のあとを、よたよた追いかける。髪の先からは海水がいつまでも滴った。

(どうやら日本らしい)

(え?)

(やつら、日本語を話してた)

(ああ……)

(あまり流されてなくてよかった)

 久方振りに動かす足は、うまく曲げ伸ばしができず、棒のようだった。

 足もとが柔らかな砂であることも、歩きにくさに拍車をかけていた。がくがくと体を揺らしながら、ときどきつまずいて転びそうになりながら、なんとかふたり組についていく。

 ちょっと振り返った瓢箪頭が「歩くのも下手だ」と笑った。

 やがて砂浜は途切れ、海岸林に入った。

 この海岸林も抜けてしまうと、舗装された車道が現れた。

 ふたり組は迷うことなく車道に沿って歩く。行き慣れた道なのだろうか。外灯もまばらな暗い道が夜闇の中どこまでも伸びていた。

 どうにか安定して歩くことができてきた頃、ふと思い出し、深海魚顔がくれたコートに、苦戦しながらもなんとか腕を通した。

 生温かい風が吹き、雲の切れ間から月が覗いた。

 わずかながらも月明かりが射したことでようやく気づいたのだが、よろよろ歩く彼の周囲には、薄黒い煙のようなものが、うっすら渦巻いていた。海からの風にのってあとからあとから湧いてきて、夜道を音もなく進み、少し先を行くふたり組の足もとにまで及ぼうとしていた。

(なんだこれ)

 煙にしては煙たさがない。霧にしては色が濃い。

 自然現象なのか人為的なものかもわからない。

 頭の中の声は冷静に答えた。

(〈煤〉だ。そんなことも忘れてしまったのか)

(すす?)

(この〈煤〉が――この〈煤〉を生み出す〈煤の王〉こそが、すべての元凶、すべての始まりだ。アストルムシリーズである俺とベガとリゲルは〈煤の王〉を止めるため、信太陽子によって生み出された)

 すすのおう。

 あすとるむ。

 べが。りげる。

 しだようこ。

(……俺たちは、誰だ)

(俺たちの名はカペラ。アストルム6・カペラだ)

 カペラ。

 そうだ。俺たちの名だ。



 車道の両脇に工場か倉庫のような直方体の建物がまばらに立ち並ぶようになった。

 頭の中でカペラが言った。

(ウラグが大勢、一箇所に集まってるみたいだ)

(どこに? どうして?)

(知らん)

 どこからともなく湧いてきて月明かりと共に拡散した〈煤〉は、いまや車道全体を覆い尽くしており、見通しが悪くなっていた。先を行くふたり組を見失わないよう、きもち歩みを速める。

 やがてふたり組は角を曲がり、ひしゃげた空き箱みたいな建物に入っていった。人間が出入りしなくなって久しい工場のようだった。屋根にも外壁にも錆が浮き、一部は腐食していた。開け放された扉の脇に看板がさがっていたが、印字はほとんど消えかけていた。

 ここまでくればカペラにも大勢が集まっている気配を感じ取ることができたので、やや躊躇しながらも、ふたり組のあとについて建物に入った。

 内部は意外と広かった。高い天井からぶら下がる電灯が白々と明るい。

 機械をどけて空けたスペースに、人間に擬態したウラグが二十体以上おり、互いにつかず離れずで立っていた。隣のやつとぼそぼそ何かしゃべっていたり、天井をぼんやり見上げていたり、みんなで何かを待っているようだ。

 やがて裏口から一体のウラグが入ってきた。髪をさっぱり短くし、作業着の上下を着ていて、だから彼は、この工場の従業員に見えた。顔や体の造形に破綻はなく、見た目だけならウラグとはわからない。ふたり組の言葉を借りるなら「人間らしい」ウラグだった。

 彼の動きを目で追っていると、コートを譲ってくれた深海魚顔が振り返って言った。

「あいつが、この人間勉強会を主宰しているやつだ。あいつはとても人間に詳しく、誰よりも勉強熱心だ。俺たちもあいつに影響を受けて、学んでいる。俺たちは人間をいっぱい学ばなくてはいけない。〈煤の王〉のために」

 すすのおうのために……

 カペラが何か言う前に、深海魚顔は人垣を作るウラグたちの中に入って、どんどん前のほうに行ってしまった。

「勉強会を始める」

 作業着のウラグが言うと、周囲のウラグはすっと黙った。

 カペラは最後列に所在なく突っ立っていた。

 作業着のウラグは、いま出てきたばかりの裏口に入っていくと、すぐにまた出てきた。その左手に全裸の男性を、右手に全裸の女性を掴んで、引っ立てていた。

 カペラはギョッとしてこれを見た。

 全裸の男女は泣きだしそうな顔をしつつもほとんど抵抗せず付き従っていた。

 作業着のウラグは、男女を突き飛ばし、ウラグたちの前に転がした。

「本日の教材だ」

 ウラグのあいだからワアと歓声が上がった。

 腰を屈めて全裸の男女を覗きこもうとする者もあった。

 皺も深い老齢の男性と、黒々とした髪を長く伸ばした若い女性だった。ふたりは生白い背中を硬く丸め、俯いて震えていた。いかにも無力で哀れだった。

「本日は人間の殖え方について学んでみたい」

 作業着のウラグは男性を指差し、

「男と」

 次に女性を指差した。

「女だ」

 そしてふたりに言った。

「交尾しろ」

 男女が息を吞む音がカペラのところまで聞こえた。

 蒼白になりながら老齢の男性がようやく言った。

「でっ、で、できません」

「なぜ」

「なぜって」

「動物と違って人間は時期を問わず交尾できると聞いたが」

「え、でも、そんな、あの、わ、私は……もう歳なので」

 作業着のウラグはピンと来た顔で「なるほど」と頷いた。

 ウラグの誰かが言った。「適齢期があるんですね」

「そうか、適齢期か」

 老齢の男性はこくこくと必死に頷いた。

 作業着のウラグは速やかに進み出て、老齢の男性の前に立つと、彼の頭部を鷲掴みにした。あっという間のことだった。バコッと固いものがずれるような音がして、男性の頭部がひしゃげた。作業着のウラグが手を離すと男性はぐしゃりと倒れた。控え目に血が飛び散り、女性が引き攣った悲鳴を上げた。

(殺しやがった!)

 頭の中のカペラが激昂するのがわかった。

 だがカペラにはどうすることもできなかった。

「もっと若いのを連れてこよう」

 手についた血や涙を服になすりつけながら、作業着のウラグはまた裏口から出ていき、すぐに戻ってきた。今度は、若い男性を引きずってきた。彼もやはり全裸だったが、なぜか靴下だけ履いていた。彼を女性のそばに突き飛ばし、そして、先程と同じことを言った。

「交尾しろ」

 靴下の男性は目を白黒させた。「えっ、何、なんですか」

「その女と交尾しろ」

「えっ、いや、いやいや、なんで……」

「私たちは知る必要がある」

「えっ、そんな、えっ、できません」

「なぜ」

「そ、そりゃあ、その」

「おまえは適齢期だろう」

「でも、」

「できないならおまえに用はない」

 靴下の男性は黙りこんだ。

 そばに倒れている頭のひしゃげた老人と、啜り泣く女性を交互に見た。それから自分を取り囲むウラグの群れを見回した。作業着のウラグはかなり「人間らしい」けれど、その他のウラグのクオリティはまちまちだ。人間に近づけようという努力は感じられるがどうしても不自然な者や、あきらかに化け物じみた者もいる。人間ではない者たちに囲まれていることを改めて悟り、靴下の男性は血の気を失っていった。

 そして、己の男性器を掴むと、絶望の面持ちで、しごき始めた。

 作業着のウラグは不思議そうにその様を見ていたが、すぐにピンと来た顔で「なるほど」と頷いた。

「そうか、生殖器が交尾できる状態にならないといけないのか」

 すかさず女性に向かって言った。「おまえも交尾できる状態になれ」

 すると女性はワッと声を上げ、顔を覆って泣いた。

「もうやめて」

 作業着のウラグは首を傾げた。「なぜ」

「こんなことやめて……」

「すごく嫌がってるな。交尾を見たり聞いたりするのは、よくないことなのか?」

 周囲のウラグたちも揃って首を傾げ、隣の者と意見を交わし始めた。

 よくないことなのか? そうなのかもしれない。あの女は嫌がっている。だからなかなかお目にかかれないのかも。なるほど。でも街には交尾を示唆する印刷物や映像がいっぱいある。交尾を仕事にしている者もいる。あれはなんだろう。あれはいいのか? しかしそれらも大っぴらではない気がする。そうか? ではやはりよくないことなのか。俺たちが思っているより野蛮な行為なのか……

 誰かが言った。

「強姦罪があるくらいですから、強いるのはよくないのでは」

「そうなんだろうか」

「人間のあいだで強姦は、魂の殺人、と言われています」

 作業着のウラグはもう一度首を傾げた。


「魂ってなんだ」


 ざわざわしていたウラグたちが黙りこんだ。

 しんと静まり返る中、作業着のウラグは靴下の男性に向かって手を伸ばした。

 靴下の男性は身をすくませたが、作業着のウラグは構わず彼の頭部に右手をのせた。

「魂は人間の体のどこにある?」

 さらに、肩に左手を乗せ、それぞれの手に力を込めた。外側へ、開く方向に。

(まずい、止めろ!)

 頭の中のカペラが叫んだが、カペラは動けなかった。

 甲高く、布の裂けるような音がした。

 ふたつに分かたれた男性の断面から、赤黒い内臓がもりもり溢れ出る。

 カペラは咄嗟に目を逸らした。

(くそっ!)

 たちまち臓腑と血の臭いがあたりに満ちる。

 女性の口からほとんど狂乱に近い悲鳴が上がり、ウラグたちからは歓声が沸いた。ほうほうと物珍しげに顔を近づけ観察しようとする者まであった。

 作業着のウラグは二分された死体を床に投げ捨てた。べちゃと湿った音がして、内臓と同じ色の液体が広範囲に飛び散った。

(何が人間勉強会だ……)

 作業着のウラグは死体のそばに屈みこむと、そのへんに落ちていた鉄の棒で、新鮮に血を滴らせる死肉をほじくり始めた。

「魂ってどれだ?」

 同じように屈みこんだ別のウラグも、「わかりません」と言いながら、指の先で死体をつついたりつまんだりした。その周囲にぞろぞろとウラグたちが集まり、蹂躙される死体を覗きこんで、思ったことを口々に言い始めた。

 魂は、目に見えないのか? 魂は本当にあるのか? あるかどうかもわからないものを、なぜ、重要なものであるかのように言うのか? 目に見えないから重要なのか? 魂は、我々にも在るか?

「ウラグでいうシュマリ器官のようなものか?」

 ふうむ、と首を傾げた作業着のウラグは、女性に顔を向けて訊いた。

「おまえは魂がどこにあるか知ってるか?」

 女性は失禁していた。

 自分の汚物と他人の血にまみれ、長い髪のあいだからウラグを暗く睨んだ。

「どうしてこんなことするの」

「人間のことを理解するためだ」

 作業着のウラグは当然とばかりに言った。

「私たちは〈煤の王〉のために人間を理解する必要がある。人間も、ずっと同じことをしてきたはずだ。未知の何かに出会ったとき、そいつを理解したいとき、捕らえて、切り開いて、刻んで、すり潰して、混ぜ合わせて、食べて、飾って、撫でて、観察して、そして理解しようとしたはずだ。同じことだ」

 作業着のウラグは鉄の棒を投げ捨てると、すくりと立ち上がった。

「自分たちはやって当然とばかりにやるくせに、される側になると、信じられない、みたいな顔をするのはなぜだ?」

 言い終わるやいなや女性の小作りな頭部を鷲掴みにした。

 女性はもはや抵抗せずそれを受け容れた。

 頭の中のカペラが叫んだ。

(助けないと!)

(ええ?)

(彼女を助けるんだ)

(無理言うな……)

ブレイドを出せ! 戦うんだ。俺たちならできる!)

(ぶ、ぶれいど?)

(生まれながらにして持ってる俺たちの武器だ。三本目の腕と言ってもいい)

(なんだそれ)

(なんでもかんでも忘れやがって!)

 硬い音がして、作業着のウラグの手の中で女性の頭部がひしゃげた。

 女性の体から力が抜け、汚れた床の上にぐにゃりと伸びる。

(ああ、くそ……)

 落胆する声が頭の中で響き、それでもカペラは動くことができなかった。

 どうしても怖かった。

 助けるだなんて、そんなこと、とてもできない――

 作業着のウラグは急に顔をカペラに向けた。

「おまえ、そこの、額に傷のあるおまえ」

 と、カペラを指差す。

 カペラはぎくりと体を強張らせた。

 作業着のウラグはさらに、自分のすぐそばにいたウラグを「それから、おまえ」と指差した。それはダズル迷彩のパーカの瓢箪頭だった。

「ついてこい」

 瓢箪頭は「はい!」と元気よく返事した。

 カペラはおろおろしていた。「え、え……」

「補充する」と言って歩きだし、さっさと裏口から出て行く。

 カペラもどぎまぎしながら歩きだした。声をかけられてしまった――死体に群がるウラグたちから離れてひとりぽつんと突っ立っていたので、目についたのだろう。

 頭の中のカペラは不満げに言った。

(やめろ、行く必要はない! なんであんなやつの言うことを聞かなきゃならないんだ)

(でも)

 逆らうとひどい目に遭うかも。

 そう思うと無視することはできなかった。

 カペラはよろよろ進み、瓢箪頭と共に裏口を出た。

 廃工場の裏手はガラクタばかりが置かれた狭い空き地で、海岸林に接していた。木々のあいだを吹き抜けてきた海からの風で何もかもが赤く錆び、腐った水のにおいが漂っていた。

〈煤〉もまた漂っていた。

 工場の窓から漏れる電灯の明かりでぬらりと照り白んだ。

 空き地の片隅に、大型犬用らしき鉄製のケージが置かれ、その中に、全裸の人間が三人うずくまっていた。隅のほうで膝を抱えて震えていた。

 作業着のウラグが鍵を取り出し、錠を開けようとしている。

 瓢箪頭は「わあ、いるいる」と手を叩いて喜んだ。

(なんてこった)

 頭の中のカペラが呻いた。

(助けないと)

(えっ)

(彼らを助けないと。今度こそ。このままでは彼らも殺される)

(でも)

(ブレイドを出せ)

(む、無理だ)

(無理じゃない! 怖がるな!)

(だって)

(逃げるな! 戦え!)

(無理だよ……)

(いいから、ブレイドを出せ!)

 だしぬけに周囲の〈煤〉がカペラの右手に向かって吸い寄せられ、収斂していき、急速に何かを形成し始めた。カペラの意志とは関係なく。

「⁉」

 作業着のウラグと瓢箪頭がカペラを振り返った。

〈煤〉の収斂は数秒もしないうちに収まり、その代わり、カペラの手には一メートルほどの長物があった。

 一目で武器とわかる冴えた輪郭。

 表面は滑らかで、割ったばかりの黒鉛のような光沢がある。黒ではない、あらゆる色が融けこんだような玄妙な暗色だ。指を通す穴が開いているだけの、無骨な鉄板のごとき見てくれで、しかしカペラの手にやけにしっくりと馴染んだ。

(出た!)

(えぇ……)

 作業着のウラグと瓢箪頭は、不思議そうな顔でカペラを見ていた。

 奇妙な沈黙が落ちる。

 カペラはおそるおそる彼らを見やった。

 作業着のウラグがブレイドを指差した。

「おまえ、なぜ武器を出した」

「えっ……や、う、」

「答えろ、なぜ武器を出した」

「あの」

「答えられないのか?」

「あの、あの、あの」

「敵対するのか?」

 歩み寄り、カペラの頭部に向かって手を伸ばす。

 この手でぐしゃぐしゃにされた老齢の男性の、靴下の男性の、黒髪の女性の、ぐにゃりと脱力した生白い体が、血が、恐怖に見開かれた目が、にわかに思い出される。

「ひっ」

 ほとんど反射的に腕を振っていた。

 手応えらしい手応えはなかった。斬ったという意識もない。だが作業着のウラグの右腕は見事に斬り飛ばされていた。弧を描いて、どすんと地面に落ちる。

 人間のように血が迸ることはなく、その断面は黒く滑らかだ。

 作業着のウラグも、そしてカペラ自身も、落ちた右腕をぽかんと見ていた。

 もっとも早く反応したのは瓢箪頭だった。

「何しやがる!」と目を剥いて怒鳴る。

 自分が何をしたかいまいち呑みこめていないカペラは「え、え」と、まごついた。

「俺に武器を向けた! 俺に!」

 地団駄踏んで喚き散らす瓢箪頭に、急激に〈煤〉が集まり始めた。ブレイドが形成されたときと同じように。

「親切にしてやったのに! 俺は親切だ!」

 瓢箪頭を中心にして吹き荒ぶ〈煤〉の中、瓢箪頭の体がひと回りもふた回りも膨らんだ。この膨張に耐えきれずダズル迷彩のパーカは伸びきって裂けた。

(露尾するぞ!)

 人間の皮膚を模した薄い膜の内側で、骨格そのものが変形していた。腕が地面につかんばかりに伸び、頸も太く伸び、踵が持ち上がって趾行の形になった。スニーカーを引き裂いて長い鉤爪が飛び出し、地面をえぐり掴む。背骨に沿って鶏冠状の背鰭が盛り上がっていき、腰からは、脚よりも太い尾がどこまでも伸びた。軋むような音を立て、全身が暗色の外骨格に覆われていく――鉱物とも樹脂ともクチクラとも違う甲殻で、それは、ブレイドと同種の鈍い光沢があった。

 掌もまた膨れ上がり、指の一本が、鋭い鉤爪に変化する。

 目や鼻や耳は兜のような頭殻に隠れ、牙が伸びる巨大な口だけが残った。

「おまえ、〈穏健派〉なんだろ。そうだろ。〈殲滅派〉の勉強会を狙ってきたんだろ。騙された! 俺は騙された!」

 振り回された体長よりも長い尾が、未舗装の地面を撫で、土を削り飛ばす。

 外骨格に絡みついた衣服の残骸を掴んで引きちぎり、腕を広げ、虎のごとく吠えた。

 その突風のような咆哮を真正面から浴びて、カペラは腰を抜かさんばかりに縮み上がった。

「ひいぃ……」

 もはやブレイドを盾にして震えることしかできない。

(戦え! ただの尖兵型だ、敵じゃない!)

 そんなわけない。

 腕を斬り飛ばされた作業着のウラグは、しかし慌てるでもなく、事の成り行きをじっと見ていた。

 そのとき裏口が開いて、二、三体のウラグがぞろぞろ出てきた。

「誰だあ、シッポ出したやつはあ」

 元・瓢箪頭はその巨体を揺らし、裏口を振り返りながら、恐竜のようにごつい鉤爪でカペラを差した。

「俺は悪くない! あいつが悪い! あいつがいきなり武器を出して、攻撃してきた!」

 作業着のウラグを見て、それから地面に落ちている彼の腕を見て、状況を察したウラグたちはたちまち顔を歪め、耳まで裂けた口を大きく開いて吠えた。

「なんだあ、おまえ!」

「敵対するのか!」

 次々怒声を浴びせられ、カペラはさらに身をすくめて後退った。

 頭の中のカペラが負けじと声を張る。

(怯むな! 戦え! ブレイドを振れ!)

 あっちからもこっちからも怒鳴られ、急き立てられて、すっかり怯えきったカペラは――もう何も考えられず、ブレイドを放り投げた。

(おい!)

 頭の中のカペラが声を裏返す。

 カペラの手から離れたブレイドは、地面に落ちるなり粉雪のごとくさらりと解けて〈煤〉に戻った。

 カペラは身を翻して海岸林に向かって駆けた。

(こらあ!)

「待て待てー!」

 元・瓢箪頭もまた駆けだした。人間とは比較にならない広い歩幅と強靭な脚力で、たちまちカペラに追いつく。が、カペラは足をもたつかせてひとりで勝手に転んだ。ついさっき久しぶりに歩いたような者が、急に全速力で走れるわけがなかった。

 どうにか顔を上げて振り返ると、元・瓢箪頭がすぐそばでカペラを見下ろしていた。

「ひぃ……」

 弱々しく地を這うカペラの行く手に、尾が鉄槌のように突き立った。自在に動かせる長大な尾の、その先端は槍の穂のごとく鋭い。

 元・瓢箪頭は身を乗り出し、硬直するカペラを覗きこんだ。

 海岸で出会ったときと同じように。

 そして言った。

「おまえホントにウラグか?」

 カペラは恐怖のあまり何も答えられなかった。

 頭の中のカペラが繰り返し叫んでいる。

(戦え!)

 できない。

 無力なカペラを潰すべく、元・瓢箪頭は大きく腕を振り上げ――晒されたその分厚い胸殻に、バン! と細い何かが突き立った。元・瓢箪頭もカペラもハッとこれを見た。矢だ。矢筈の小さな赤いランプが一度だけ瞬くと、次の瞬間、白い閃光を噴き上げて爆発した。焼かれた元・瓢箪頭は煙を上げながらよろついて、尻から倒れた。

 ウラグの誰かが叫んだ。

「SAKaUだ!」

 と同時に、廃工場内からも白い閃光が迸った。中にいたウラグの群れが吠える。何かが割れる音。連続して破裂するような音。大勢が暴れる気配。

 続いて、暗い海岸林から、クロスボウを抱えた人間がふたり、統率の取れた動きで走り出てきた。メタリックなフルフェイスマスクと薄墨色のポンチョを装着していた。ふたり揃って膝をつくとクロスボウを構え、即座に発射した。裏口にいたウラグたちが吠える。檻の中の人間たちが共鳴するように甲高い声で叫ぶ。白い閃光が三たび上がり、目を灼くその明るさを背に、カペラは震える足に鞭打ってなんとか立ち上がると、海岸林の奥へ駆けこんだ。



(このバカ! なんで戦わなかった!)

 明かりもない海岸林をひたすら走り、争う気配が遠くなり物音がしなくなっても走り続け、方向も場所も何もわからなくなったところで、カペラはようやく足を止めた。ほとんど倒れこむように木の陰にうずくまって、頭を抱える。

 波の音が近い。

 頭の中のカペラはひどく怒っていた。

(あんなやつら俺たちの敵じゃないのに! なんで戦わなかったんだ! 記憶をなくしてるからなんて言い訳にならないぞ、俺たちは戦うために生まれたのに! 戦わないでどうするんだバカ!)

 言い返すこともできずただ震え、そして、ついにカペラはしくしく泣き始めた。

(泣くな!)

 一喝されても、カペラの涙は止まらなかった。

 頭の中の声は途方に暮れたように言った。

(泣くな……)

 暗い〈煤〉の中、カペラの啜り泣きと波の音だけがいつまでも響いた。



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