七月八日の出来事

スミ

七月八日の出来事

 七月八日の月曜日、夜、僕は自転車を漕いでいた。塾からの帰りだった。こんな言い方をすると、まるで、僕がいつもの月曜の夜には自転車を漕いでいないと、そんなふうに聞こえるかもしれない。だけど、それは少し違うんだ。この日の前の七月一日の月曜日も、その前の月曜日も、そのさらに前の月曜日も、僕は塾から自転車で帰っていたと思う。もしかしたら塾をサボって家にいたかもしれないけれど、でも基本的に月曜の夜は、僕は自転車に乗っている。ただ、この日はいつもの月曜日とちょっとだけ違っててね。「何が違ったんだい」なんて聞かれると、大したことない、帰り道を普段と変えてみただけなんだけど。「じゃあなんで帰り道を変えたんだい」とまた聞かれても、これも大したことなくてさ、確か塾を出てふと空を見た時、月の右側が欠けてたんだよ。それだけなんだ。

 でも、ただ家に帰ろうとしてたんじゃないよ、そりゃあ。なんの目的もなしに帰り道を変えたりしない。第一僕はそういうルーティンみたいなのを破るのが好きじゃないんだ。ほら、それで道を変えて、もし事故に遭ったりしたらさ、いつも通り帰っていればって後悔すると思うんだ。だけどいつもの道でそういう目に遭っても、しょうがないって思えるだろう?わかるかな、こういうの。まあとにかく、僕はそう、橋に向かってたんだ。この僕が向かった橋っていうのは多摩川に架かってるやつで、これまたすっごい長くて大きな橋なんだけどさ、実を言うと、塾から見て僕の家とは反対方向にあるんだ。僕も家族で買い物とかをする時、たまに通る程度だったから、詳しい道はわからなかった。だけどなんとなくの方向感覚でさ、そういう勘は中々鋭いんだよ、僕。橋に向かった理由はほら、さっき言ったじゃないか。月の右側が欠けてたんだ。誰だってわかるだろう、この感覚は。まあ確かに、今となって冷静に考えてみるとそんな理由で死んでやろうだなんてのは馬鹿に思えるよ。でも誰にだってあるじゃないかそういう時期は。そういった一時期の感情の昂りを後になってから馬鹿にする方が、僕にとってはよっぽど馬鹿に思えるよ。

 すると君は夏休みにも入った今、なんで僕がここに、病院のベットでも黄泉の国ってとこでもない、市民図書館なんかにいるんだと、不思議に思うかもしれない。もちろん僕が橋から飛び降りて奇跡的に無傷だったって、そういうわけじゃないよ。さっきも言った通り、中々大きい橋なんだ。結構高いところに架かってるんだよ。どれだけ僕が運動神経抜群で強運の持ち主だったとしても、飛び降りてたらひとたまりもなかったと思う。じゃあ僕が怖気付いたんじゃないかって?それも違う。怖気付いたわけじゃないんだ。僕の足と肺を動かしてたあの大きな感情は、恐怖なんかじゃ動かせやしなかった。ただ、ちょっと惜しいよ。そう、橋の上に立って思い留まったっていう点ではあってるんだ。いや、怖気付いたわけじゃないんだよ、決して。ある発見があっただけなんだ。

 橋に着いたそこでね、僕はある女の子に出会ったんだよ。年はきっと、僕らと同じくらいの、十四歳とか十五歳とかだったと思う。黒いパーカーのフードをかぶっててさ、顔はあんまり見えなかったんだけど、やっぱり僕らが一番多感な時期だろう?きっと僕と同じようなことを考えてあそこに辿り着いたんだと思うんだ。あと声とか、それに、自分と同世代の人間ってわかるじゃないか。なんとなくの雰囲気で。そういうもので、とにかく、年齢はそんなものだと思う。あ、そうだ、勘違いしないでもらいたいんだけど、僕はこういったタイプの決意をして今にも行動に移そうって人に、ズイズイと干渉するようなことはしないよ。そこらへんのデリカシーはあるつもりだ。ただ、彼女にはそれがなかった、そういう話なんだよ。

 僕はなんとか橋にたどり着いてその根元に自転車を止めた。鍵は一度はかけたんだけどね、鍵をいつも通り右ポケットに入れて歩き出した時に、そのことがすごい馬鹿らしく思えた。だからわざわざ鍵を付け直して、自転車を蹴飛ばしたんだ。うん、やっぱり自転車は倒れたよ。大した快感じゃなかったけどね。もし僕がまたこの日と同じようなことを考えた時が来ても、自転車は蹴飛ばさないんじゃないかな。それで、そのあと僕は、どこから飛び降りてやろうかと橋を歩いた。もちろん、基本ずっと橋の下を見てたよ。だけどふと、正面を見たんだ。そしたらその先に、さっきの彼女がいたっていうわけ。そして、彼女も僕を見ていたんだ。多分ずっと僕を見てたわけじゃないと思う。僕と同じように、ふと、僕の方を見たんじゃないかな。僕たちは一瞬でお互いの目的を察した。相手がそれを察したことも同時にわかった。きっと彼女の方も、そういった勘みたいなものが鋭かったんだと思う。でもやっぱり、流石に気まずくてさ、僕も彼女も絶妙な距離感のその場に立ち止まって、目を逸らしたよ。

 どっちが先に行動に移すわけでもなく、無言の時間が過ぎていった。僕は橋の手すりに両手をかけてずっと川の流れを見てた。それでね、これが僕にとっては不思議だったんだけど、時々彼女の方を覗くと彼女の方は逆に、ずっと空を見てたんだ。だってさ、これから飛び降りるんだから、その行き先を見るのが普通ってものじゃないか。それに、この夜の空を見たって、あの右側の欠けた月があるんだ。こんな状況でわざわざそんなものを見たくはないだろうって、僕はそう思ったね。

 だけどこれが間違いだったんだ。彼女が空を見飽きた、そのタイミングで彼女は僕に話しかけてきた。「私は生きることにします」ってね。びっくりしたよ。いや、急に話しかけてきたことにじゃない。この時の僕たちはもう既にいろんな感覚を共有してたからね。初めて言葉を介しただけで、わざわざ驚きはしなかった。ただ、僕は彼女が月を見ているとばかり思っていたから、そんな人間が、生きようと、そう考え直したことにびっくりしたんだ。

「なんでですか」

 僕は聞いた。

「昨日、七夕だったじゃないですか。でも、まだ間に合うなって」

 彼女はこう言った。そう、彼女は月じゃなくて星を見てたみたいなんだ。でも、まだいまいちピンと来なかった僕は、その答えの続きを待った。すると彼女は、ちゃんと答えてくれたよ。

 要は、彼女は夜空に浮かんでいるはずの無数の星に絶望していたんだ。どうやらこの日の前日、七月七日に彼女の身に良くない何かがあったらしい。それで、この七月八日の月曜日に橋にやってきた。僕と同じようにね。それで僕と出会って空を見上げた時に、やっと彼女は、星がないことに気づいたんだ。だから絶望を捨てた彼女は一つ、幸せを織姫と彦星に願って、生きることにしたってわけ。

 その話を聞いてさ、僕も夜空に絶望だけがあるわけじゃないって思い直したんだよ。だから、僕も一つお願い事を空に飛ばした。そして、彼女の背中が向こうに見えなくなってから、僕も橋を戻った。ゆっくりめにね。自転車は幸い盗まれても壊れてもいなかったから帰りは苦労しなかったよ。ほら、勘も鋭いしさ。ただ、いつもより遅くなったから両親は少し心配してた。悪いことをしたよ。

 まあ、そんなことがあって無事僕は今、こうやって市民図書館にいて、七夕の絵本をゆっくりと眺めているんだ。君はもう知ってるかい、天の川っていうのは星の集まりなんだ。

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