第2話:おまわりさんこの人です!
コハクの現住所であるアパートは、都内では一番安いことで有名である。
敷金礼金はなし、家賃もつき一万円と破格の値段である。
広さについても2LDKであるから、一人暮らしをするには申し分なし。
にも関わらず、入居者がほとんどなくがらがらに空いているという矛盾を抱えていた。
理由は至って単純なもの――早い話が、曰く付きの事故物件なのである。
自殺者が絶えず、同時に鬼門に通じてもいるので環境は最悪の一言に尽きよう。
一週間ともたずして退去者が続出する中で、コハクという存在は言うまでもなく異端だった。
入居してからずっと、ここを拠点として生活している。
その生活にもとうとう、終わりを迎えようとしていた。
「は~このアパートともとうとうお別れかぁ」
もともと、コハクはあまり物を持つ性格ではなかった。
殺風景でこそないものの、他と比較すれば私物は少ない方に部類される。
その、ただでさえ少ない私物も片付けたことで部屋は今度こそ殺風景なものへと化した。
退去までのわずかな時間を満喫していた矢先である。
「ん? こんな時間に誰だ?」
時刻はとっくに午後8時をすぎている。
来訪者がくるには遅く、ましてやここは曰く付きの事故物件だ。
わざわざ好き好んでくるような知り合いを、コハクは知らない。
はて、と小首をひねりつつもコハクは応対することにした。
「はい? どちら様ですか?」
「はぁ……はぁ……よ、よかった……まだいてくれてた……!」
扉を開けた先、一人の少女が立っていた。
青色に染めたサイドテールに丸渕メガネが特徴的な女性は、ドリームスターライブプロダクションが誇る歌姫である。
最初こそなかなか伸びず、一時期は引退寸前にまで陥ったものの、歌を投稿した途端知名度が爆発的に高まった。
最近では地上波にも出演するようになり、名実ともに歌姫の称号を我が物にしている。
その歌姫こと、
「はぁ……はぁ……ちょ、ちょっと待っ……はぁ……しんど……」
「あ、えっと……と、とりあえず落ち着いてからでいいぞ?」
よっぽど急いできたのか、ぜぇぜぇと肩で息をして頬には大量の汗が滲んでいる。
それが妙に美しくもあった。
(どうしてカナデがここにいるんだ……?)
と、コハクははて、と小首をひねった。
現住所について知っているのは、社長以外にいない。
例え親しい同僚であろうとも、コハクは決して個人情報を教えなかった。
だからこそ、カナデが知っているのはありえないのである。
(まさか……あの社長がもらしたのか?)
と、コハクはふとそんなことを思った。
常識的に考えればまず断じてないといえよう。
社長という立場だからこそ、個人の情報を外部に漏洩するなどのような愚行は犯すまい。
しかし、ドリームスターライブプロダクションではタレントのほうが実は圧倒的に強い。
権力的な意味合いならば、それはもちろん社長が上に決まっている。
社長がたった一言クビと宣告しただけで、アイドルの活動はそこで簡単に終わってしまう。
(あの社長、肝心な時以外だといっつもアイドルたちに押されてたからなぁ)
人があまりにもよすぎる。
よすぎるから、今回もアイドルたちに押し負けてしまったのではないか。
そのためつい住所を教えたのではないか――可能性としては、十二分にありえる。
「……俺、たしか住んでるところ教えてなかった気がするんだが」
「そんなの、スタッフさんが帰るところを付けてきたから知ってるもん」
「堂々とストーカー宣言するな。さすがにそれはライン越えてるぞ」
アイドルらしからぬ言動には、さしものコハクもその頬をひくりと釣りあげた。
アイドルをストーカーするのであれば、実際に事例があるのでまた理解もできよう。
逆のパターンというのは、あまりにも稀有すぎてどう反応してよいかがコハクにはまるでわからなかった。
とにもかくにも、警察に連絡することはできない。
元とはいえ、職場のアイドルたちの夢が途中で断念してしまうことほど心苦しいものはないのだから。
「本当はもっと偶然を装ってからスタッフさんを落していく予定だったのに……」
「お前……って、ちょっと待ってくれ。今なんていった?」
「スタッフさんを落してカナデに依存させまくってイチャラブ生活する予定だったのに……」
「いや、さっきよりも明らかに言ってる内容が違ってるだろ! え? つまりそれは……」
「そうだよ! カナデはスタッフさんのことが好き! 大好きなの!」
「お前もかよ!」
と、コハクは思わずそう叫んでしまった。
途端、カナデの瞳からは光がすぅっと消失した。
例えるなら、まるで深淵の闇のごとく。
光を一切宿さず、どろどろとした黒がひどく渦巻いている。
少なくともコハクの目には、そのように映っていた。
「……ねぇ、ちょっと待って。お前もって、どういうこと?」
と、カナデが静かにそう尋ねた。
紡がれる言葉の節々には、氷のように冷たい感情が強くこもっていた。
それが果たしてなんであるか、皮肉にもコハクはよく知っていた――凄烈な殺気である。
夢と希望を与えるアイドルが出してもよい声とはお世辞にもいえない。
常人であれば最悪、そのまま卒倒しかねないほどカナデの言霊は大変おどろおどろしいものだった。
もしもここにファンがいれば、あまりの変貌っぷりには激しく困惑しよう。
(こ、こいつこんなおそろしい声を出せるのかよ……!)
と、コハクは内心でひどく狼狽した。
カナデとの付き合いは、ギンガと同じぐらいとても長い。
長い期間ずっと、彼女の活躍を傍で目にしてきただけに今日はじめて目にする一面にコハクは狼狽するのを禁じ得ない。
「ねぇ、答えてよ……どういうことなの?」
「……本人のためにも名前は公表しないが、同じように俺に告白してきたやつがいた」
「ふ~ん……そっかぁ、カナデ以外にもスタッフさん狙ってる子いたんだぁ。そうだもんねぇ、スタッフさん人気だし、みんな大好きだしぃ」
「みんな?」
と、コハクははて、と小首をひねった。
「そうだよぉ。みんなみ~んな、スタッフさんのこと狙ってたんだよ?」
「マジかよ……ていうか、そんなことあるのか?」
と、コハクはすこぶる本気でそう呟いた。
所属しているアイドルが、たった一人のスタッフを好きになる。
これが漫画やアニメといったものであれば、まだコハクも納得していた。
あれらはあくまでも創作物である。創作だからこそ、世界は作者の思うがままだ。
同時に現実ではまず起こらないからこそ、面白味がある。
それ故にコハクは、漫画やアニメのような展開が信じられずにいた。
(いやいや、いくらなんでもそりゃないだろ)
これらはカナデの主観による価値観でしかない。
第三者の目にはそう見えても、当人がそうとは限らない。
勘違いという可能性は十分にありえるのだ。
取り乱す必要はない――コハクは自らにそう、何度も告げた。
「そんなことどうだっていいよ……問題なのは、スタッフさんはカナデのなのに盗ろうとしているいけない子がいるってことなんだから」
「いや、そもそも俺はお前の物にすらなった憶えはないし、なる予定もないんだけど」
「どうしてそういうこというの?」
「怖い怖い! 普通に怖いからハイライト消した目で迫ってくるな!」
じりじりとにじり寄るカナデを、コハクは家の外へと追い出した。
扉を素早く閉めた、次の瞬間。
「ねぇスタッフさん、ここ開けてよーねぇってばー」
どんどん、と響き渡るノックの音にコハクはその顔を青白くさせる。
ホラー映画さながらの展開には慣れているコハクでさえも、現在のカナデには恐怖を憶えてしまう。
結局のところ、真に恐ろしいのは生きている人間である。
ぐぅの音も出ない事実を今一度認識して、コハクはひたすらドアを背で押さえつつ必死に祈った。
一刻でも早く、どうかこの場から諦めて立ち去ってくれ――と。
「……帰った、のか?」
程なくして、けたたましく反響していたノックの音がぴたりと止んだ。
恐る恐るドアスコープを覗く――少なくとも、視界に映る範囲にカナデの姿はもうどこにもなかった。
とりあえず難は逃れた、と理解した途端。コハクは力なく座り込んだ。
「た、助かったぁぁ……なんなんだ、カナデのやつ。あいつ、あんなにも人格ががらりと変わるやつだったのか? いっしょにいた時そんな素振り一度も見せたことなかっただろうが……」
これが俗に言う、ヤンデレと呼ばれるものなのかもしれない。
コハクはそんなことを、ふと思って――すぐに、ありえない。かぶりを振って自らの切を自嘲気味に小さく笑った。
ヤンデレは、創作物だから面白いのであって現実ではとにもかくにも恐怖でしかない。
常識と言葉が一切通じない相手ほど、手強く恐ろしいものはないと断言してもよかろう。
「しっかし、これはあれだな。明日と言わずにさっさと出ていったほうが吉だな」
その日の夜――時刻は深夜に差し掛かろうとしている。
上質な天鵞絨の生地をいっぱいに敷きつめたかのような空に、無数の星が美しく飾り立てる。
中でも特に、ぽっかりと浮いている青い満月は自然が生んだ宝石のようだった。
今晩、コハクは夜逃げ同然の帰省を行う。
「――、さてと。それじゃあ行きますか」
と、コハクはしんと心地良い眠りに就いた街並みを歩いた。
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