第25話 獣の森・24 氷と獣

 頭上から振り下ろされる腕を後方へ飛んで躱す。

床の石畳が割れる音に混じり、べちっと気の抜ける音がした。しかし何の音であるかを考える暇はなく、再び腕が振り上げられる気配を感じ取り、今度は左に跳んで避ける。そちらに炎を纏うナイフが落ちているからだ。この暗い部屋では唯一の光源であり、離れれば離れるほど不利になる。次の攻撃が来る前に、ナイフを部屋の中心へ移すため拾い上げる。普段であれば少し頼りないと思う程度の炎しか出せないナイフだが、今はこの灯りが心強い。部屋の中心へ振り返り、天井に向けてナイフを放つ。先に吊り下がっていたのか、何か紐の切れる音に続いて、ガラスの割れる音がした。ナイフは無事、天井に刺さったが、床まで照らすには至らない。それでも以前よりはずっと動きやすくなった。

 暗闇の向こうでは短い唸り声と、床を蹴る音がした。咄嗟に身を屈めて防御姿勢を取るが、こちらへ向かって来たのではないらしい。

『班長、感謝するぜ。おかげで見やすくなった』

 魔結晶からハルトマンの声が飛ぶ。レムナスは光の届く範囲に敵対生物の姿がないことを確認し、部屋の入口付近まで後退する。

「……敵の位置は?」

『部屋の隅へ退避した。廊下側の奥だ』

 その言葉に釣られてレムナスもハルトマンの言った方向に目を向ける。一見すると暗闇にしか見えないが、よくよく目を凝らすと光の当たり方に微妙な違いがあるのが見えた。

「把握。……時にハルトマン、気付いていますね?」

『ん? ああ、まあ。あの挙動を見ればな』

「やはりそうですか。では、三十拍後に制圧を開始します。貴方にはこの施設の情報収集を任せます」

  了解、との返答を聞き、レムナスは限界まで低く、しかしいつでも動き出せるような体勢を取る。服の中から新たなナイフを出し、右手でしっかりと握り締める。そのまま目を閉じ、ゆっくりと呼吸しながら胸の鼓動を聴く。

(一つ……二つ……三つ……)

 動いたのは二十を数えた時だ。

 目を閉じたまま、床を蹴って前へ飛び出す。真の闇の中で、合成獣が腕を振り上げたのが分かる。あの腕で殴られれはひとたまりもない。魔法で防御を固めない限り、理解の及ばぬまま、速やかに床の染みと化すだろう。

「――なんて」

 腕が振り下ろされる寸前のところで、レムナスの右手が動く。

 ナイフを握る手に力を込め、目の前で薙ぐように振るう。

 持ち手に嵌め込んである魔結晶が輝き、白い光を放った。通常であっても相手も怯ませる効果はあるが、辺りは暗闇、それも今回相手取っている合成獣は、近づいて来た光球を破壊したり、明るくなった廊下を避けて暗い檻の壁を掘って移動して来たりと、光を異常なほど忌避していた。

 光を嫌っているのならば、強い光を当てれば目を潰せる。暗闇でもこちらの場所が分かっていたのだから、恐らく周囲の様子は視覚以外で得ていたのだろう。

 それでも、一瞬の隙があればいい。

 合成獣の長い咆哮が響く中で目を開ける。暗闇に慣れたおかげで、周囲が先ほどよりも良く見える。ダンッと床を蹴り、その勢いで飛び上がると、合成獣の喉元目掛けて回し蹴りを喰らわせる。悲鳴と共に巨体がぐらりと傾く。すかさずナイフを首筋に突き立て、後ろに跳ぶ。

「『氷を。凍てつく雪華を。姿自在なる金氷を。足奪う釘氷を』」

 空中で詠唱を紡ぎ、着地と同時に魔法が発動する。

 レムナスの足下から床が凍りついていく。その先は一直線に合成獣の下へ向かい、辛うじて倒れなかった体を凍てつかせ、足首はもちろん、脛まで厚い氷が覆った。合成獣は当然、抜け出そうと藻掻くが、その度に首に刺さったナイフから鮮血が溢れ出す。その隙に氷は厚く、堅くなってさらに動きを封じる。周囲の温度が急激に下がり、やがて合成獣は動きが止まり、その場に崩れ落ちた。レムナスは音もなく近寄り、首に刺さったナイフへ手をやる。

「『氷を。凍てつく雪華を。傷塞ぐ氷晶を。熱奪う霧雪を』」

 傷口に赤い氷が咲いた。零れ落ちた欠片は床で砕けて転がる。氷が融ける様子はない。何故なら、この部屋自体の温度が下がり始めているからだ。 ひらひらと雪花が舞い、合成獣の上に落ちる。この結晶もすぐには融けず、形を保ったままだ。レムナスの肩にも舞い落ちるが、こちらは速やかに融けて見えなくなった。

 凍えゆく部屋の中、レムナスは白い息を吐きながらも、寒さに震える様子はない。凛とした姿勢を維持したまま合成獣からナイフを抜き、刃に付いた氷の花弁を払う。

「……ハルトマン。そちらはどうですか?」

『大方終わった。……ここの関係者はろくでもない奴らばっかだぜ、本当に』

 その声色から、嫌悪や憤怒のような感情は読み取れない。むしろ、口調に反した「無」と言ったところが近い。あまりの怒りに却って冷静になる、とは聞くが、それに似たものだろうか……などとレムナスは推測する。とはいえ、ハルトマンの言葉には同意しかないため、レムナスも語調を合わせることにした。

「この時代に合成獣を造るような人間はまともではないでしょう」

 魔結晶の向こうで、それもそうだと笑い声が聞こえてきた。

『それはともかく、さっき外を視たんだが、魔法監士の一行がこっちに近づいている。そろそろ上がって来てくれ』

「そうですね。これより離脱します」

 レムナスは合成獣に背を向けて歩き出す。足音がやけに響き、床に積もった霜が足跡を残していく。その背後で――合成獣が体を起こした。

 凍りついた脚では立ち上がることができず、合成獣は半身を起こすに留まった。視力は回復したらしく、まっすぐにレムナスへ目を向けている。肩口から伸びる二本の棒がぎこちなく動き、二本の腕と共に、レムナスへ向けて伸ばしていく。当の本人はそちらを振り向くことなく、ハルトマンと会話を続けている。

「ではハルトマン、また後で合流しましょう。一度魔力を切るので、リアノへの連絡もお願いします」

 そして、合成獣の指先がレムナスに触れる寸前、

 両者の視線が交わった。

 合成獣は強引にレムナスの首に指をかけようとするが、遅い。レムナスはそれよりも早く動いて合成獣の腕を掴み、詠唱を紡いでいた。

「『氷を。凍てつく雪華を。清澄なる氷柱を。留置く堅氷を』」

 今までにない硬さと堅さを具えた、一点の曇りもない氷が合成獣の腕を呑み込んだ。レムナスが掴んだ方の腕は、指先から肘まで、太い氷の柱と化している。

「気づかなかったとでも? ……空気の動きで分かりますよ」

 そう言って振り向いたレムナスが浮かべる笑みは、氷のように冷たく、刃のように鋭い。その時、レムナスは合成獣の姿を初めて間近で捉えた。瞬間、紺色の目が大きく見開かれる。だが、すぐに哀れみを帯びた眼差しに代わり、もう一方の腕を取る。

「……わたしには成さねばならないことがあります。ですが、せめて――が無事に御座へ辿り着けるように祈りましょう」

 レムナスの声に敵意はなく、ただ慈しみに満ちている。

 合成獣も動きを止めてじっとレムナスを見つめ、静かに目を閉じた。

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