疑似餌
秋空夕子
第1話 疑似餌
まるで死んだように生きる日々であった。
家族のために毎日足が棒になるまで働いているにもかかわらず、かつては永遠の愛を誓った妻も、生き甲斐とすら感じていた娘も、私を蔑ろにする。
どうしてこうなったのかと答えなんて出てこず、いつまでこのままなのか、もしかしたら一生続くのかもしれない。
そんな恐怖とも不安とも焦りともとれる感情に胸が苦しい日々。
彼女に出会ったのはそんなある日だった。
その日、私はいつものように暗い夜道を歩いて家路についていた。
だが、年下の上司から叱責された、同僚たちからも影で笑われたせいで、足取りが非常に遅い。
まるで重い鎖を嵌められた囚人である。
今日のことを思い返すのはもう嫌で、けれど明日のことを考えるのはもっと嫌で、何も考えたくなくて、ただただ足を動かしていた。
「あの……大丈夫ですか?」
そんな時だ、不意に声をかけられたのは。
声のする方へ目を向ければ、そこには一人の少女が立っていた。
年齢は娘と同じぐらい、女子高生だろうか。
しかし、その少女は娘とは大きく異なっていた。
まず、髪は一切染めていない綺麗な黒で、腰まで真っ直ぐ伸びている。
今どき珍しいぐらいに化粧っ気がなく、瑞々しくて綺麗な肌をしていた。
人形のように整った顔立ちで、その中でも特に目を引いたのは彼女の瞳だ。
その大きな黒い瞳はまるで夜空のように美しくて、吸い込まれそうな感覚を味わう。
今まで見たこともない絶世の美少女が、私を見つめているのだ。
ごくり、と思わず喉を鳴らしてしまったのは不可抗力だろう。
「あ、ああ……大丈夫、です」
私はそれだけ返すのがやっとだった。
しかし、彼女はそんな私に優しく微笑んでくれたのだ。
その笑顔はまるで雲の隙間から差し込む日差しのようで、私の中にあった暗い感情を吹き飛ばす。
「良かった……でも、顔色が良くないですよ。よかったらお話だけ聞かせてもらえませんか?」
少女の提案に私は一も二もなく頷いた。
それから、私達は近くの公園へと足を運び、ベンチに腰掛けて話をした。
もっぱら私が話すばかりだったが、それでも少女は嫌な顔一つせず話を聞いてくれた。
誰かと共にいて心地いいと感じたのはどれぐらいぶりだろうか。
それは娘といる時でも、妻と一緒にいる時でも、同僚たちと話している時にも感じたことのないものだった。
「そうだったんですか……それは大変でしたね」
なんの面白みもない、愚痴ばかりのおっさんの話に、彼女は真剣に耳を傾けて親身に寄り添ってくれる。
それだけでも、私の心は救われた。
「ありがとう……少し楽になりました」
「それなら良かったです」
そう言って微笑む彼女はまるで天使のようで、思わずドキリとしてしまう。
「もしよかったら、ここでまたお話しませんか?」
「え……?」
彼女の提案はあまりに予想外で、思わず聞き返してしまった。
「迷惑だったらごめんなさい……でも私、貴方とまたお話がしたいです」
そう言って彼女は私の手に自分の手を重ねてきた。
その手はとても温かくて、まるで彼女の優しさが伝わってくるようだった。
この夜から、私の灰色の日常が色鮮やかに彩られていった。
仕事終わりにあの公園へと足を運び、少女と他愛もない話をする。
日々のルーティンにこれが加わっただけで、私はこの世の幸せを独占しているような気持ちになれた。
彼女の笑顔を見るだけで一日の疲れが吹き飛び、彼女と話している間だけは仕事のことや自分に冷たい家族のことを忘れられた。
けれど、その時間は長くは続かない。
一緒にいられるのはせいぜい一時間程度。
それ以上は、流石に怪しまれてしまう。
いくら不貞行為は働いていないとはいえ、娘と同い年ぐらいの子とこうして何度も会っているのを知られればどんな邪推をされるかわからない。
だからこれは仕方がないと我慢していたのだが、日が経つほどに彼女と別れる時間が苦しくて仕方がなくなった。
このまま時間が止まればいいのに、そう何度思っただろう。
しかし、無常にも時間は過ぎていく。それは誰にも止められない。
今日だってもう彼女と別れないといけない時間だ。
けれど、どうしても彼女と離れがたく、「また明日」の一言が口に出ない。
そんな私を見兼ねたのか彼女は優しい笑みを浮かべると、そっと私の手を握ってくる。
出会ったあの日と同様、彼女の手は温かい。
「あの、まだ時間が大丈夫なら……もう少しだけ一緒にいられませんか? 私の家、この近くなんです」
その言葉に、私は思わず唾を呑み込んだ。
彼女がどういうつもりでそんなことを言っているのかわからない。
しかし、その誘いは私にとって甘美なもので、拒否するなんてことは思い浮かびもしなかった。
(……今日ぐらいは、大丈夫だ。なんの問題もないはずだ)
私はそう自分に言い聞かせ、彼女の誘いに頷いた。
「だ、大丈夫だ……問題ないよ」
「本当ですか? よかったぁ!」
彼女は嬉しそうに微笑みをこぼすと、私の手を引いて歩き出す。
(……ああ)
その小さな背中を見つめながら、私の心は期待に膨らんでいた。
ふと、思った。
そういえば、どうして自分は彼女の名前すら知らないのだろう、と。
*****
とある昼下がり、人気のない公園は物々しい雰囲気に包まれていた。
パトカーが数台停車しており、公園は立ち入り禁止のテープで仕切られている。
「これ、どうなってるんですか……?」
新人の言葉に壮年の刑事は忌々しげに吐き捨てた。
「さあな。聞いた話じゃ被害者は昨日まで普通に生きていたそうだが、今朝発見された時にはすでにこうなっていたらしい」
「でも……そんなことありえるんですか? だって、こんな……」
「……俺も信じられないが、実際こうなっちまってる以上、受け入れるしかないだろう」
彼らが見下ろす先には干からびて木乃伊のようになった男の死体が転がっていた。
疑似餌 秋空夕子 @akizora_y
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