第17話 セルフィッシュ
月彦との連絡はSNSの陽人の知らないアカウント内で行っている。いちいちアプリを開いてメッセージを確認しないといけないというのが手間だが、通知が来てしまうと陽人にも見えてしまう、というのが月彦の言い分だった。
月彦と陽人が交代するのに特に決まりはないが、陽人が眠るのを待って月彦が表に出てくるようだった。
昼間だろうが夜だろうが本来は関係ないのだが、記憶のない陽人が眠り始めるのが夜なものだから、自然と月彦が出て来れるのも夜が多くなる。そして、月彦が眠らなければ陽人は目覚めない。
しかし、一人分の身体は普通に体力を消耗し、エネルギーも休息も欲するので、一日の活動時間を半分ずつに分けるしかない。記憶のない陽人は自分がやたらと眠ってしまう体質だと思っていた。
陽人は絵を描いている最中に唐突に限界を迎え、その場で床に寝転んで寝てしまっていた。
作業台代わりの大きなユーズドの木製テーブルの上には所狭しと、絵具やバケツに突っ込まれた何本もの絵筆、絵具の沁みついたパレットに、描きかけの画用紙、持ってきては片付けていない空のマグカップ。
油絵具ともまた違う、水彩絵の具の独特な匂いがする。
この時期は特に、雨の日の湿気と合わさって部屋に匂いが充満する。なかなか乾かないと陽人がよく零していた。
キッチンからの呼びかけに返事がないことに予感がして、京弥がカウンターから覗くと、床に陽人が転がっていた。今日も、ナルコレプシーのように唐突に眠ってしまったに違いない。
抱き上げて隣の寝室へ移動する。寝室と言っても、ベッドと小さなソファ、正面にはテレビなどもあって、実質、この部屋を生活スペースとして使っているようだった。
そのベッドに陽人を降ろすと、京弥はまたキッチンでのおかずの作り置きの続きに取り掛かろうとベッドに背を向けた。
「ふぁ……、今何日の何時だ……?」
あくびをしながら月彦が目覚める。自分が何時間眠りについていて、いつ目覚めているかわからないために、月彦も陽人も起きた直後は頭がぼんやりとしているそうだがタイミング的に京弥が居合わせることは少なかった。
ベッドの上でぼんやりとする月彦は気だるげで色っぽく見える。
「あんたの誕生日から四日後の週末の金曜、午後八時。
大丈夫ですか?」
「……ん。
……記憶が二日飛んでる……」
一日のうちにどちらかがずっと起きていて一方が眠ったまま交代しないこともあり、その間の記憶が飛ぶことも珍しくない。
あまりにも月彦がぼんやりとしているので無理に覚醒させるのも脳などに影響があるのかもしれない。京弥は月彦をそのままゆっくりとさせてキッチンに戻った。
「腹減った」
しばらくして起きてきた月彦をカウンターに座らせる。夕食に用意していた肉じゃがやご飯を月彦の前に並べる。
「美味そう」
「気分悪いとかないんすか?」
「いや? 特にそういうのはないけど、いつも交代した直後は自分が起きてるのか、それとも夢で見てるのか、陽人が見てる景色なのか区別がつかなくなってる」
「そういうの、陽人さんもあるんですか?」
「あるんじゃないか。
俺と交代してると知らない分、余計に目が覚めたとき混乱してるかもな……」
京弥はここ何日か考えていたことを言うタイミングを計っていた。
キッチンから出てカウンターで肉じゃがを頬張っている月彦の隣、スーツケースに腰かける。
「なんだよ」
「俺、考えたんですけど、やっぱり陽人さんにも現状を伝えるべきだと思うんですよね」
「あ?
そんなことしたら陽人が自分のこと責めるから言うなっつっただろ」
「でも、なにも知らない方が陽人さんだって混乱することが多いと思うんですよ」
月彦の箸が止まり、無言で口の中の物をゆっくりと飲み下す。
「……陽人のために、ってことか?」
「そうそう、そうです」
陽人に本当のことを話すのは、もちろん陽人のためだ。陽人に対してきちんと陽人自身が好きなことを伝えたい。そして、受け入れてもらいたい。
しかし、陽人のためだけでもない。月彦にも独りで抱えて欲しくない。京弥が陽人を助けられれば、きっと月彦だって京弥と自分の気持ちに素直になってくれるはずだ。
「……だめだ。
陽人に本当のことを伝えて、陽人が自分から消えたいって言い出したらどうするんだよ。
お前が陽人を助けられるのか、親でも無理だったのに」
なぜか吐き捨てるように言う月彦に、京弥も苛立ち始める。
「なんでそんな頑ななんっすか。
陽人さんはあんたが思ってるより強い人ですよ。
俺が陽人さんを支えるし、助けます」
「お前……、陽人のこと、」
「好きですよ。
ちゃんと愛してます。
俺が、責任もって陽人さんを守ります。
だから、陽人さんが消えることはない。
だったら早く全部話して俺の気持ち伝えられた方がいいでしょ」
月彦が目を見開いて固まる。
カウンターに置かれた手が震えていた。その震えた手で、自分のシャツの胸元を握る。
「月彦さん?」
「あ……、だめだ」
ひどく傷付いた顔をした月彦が小さく呟く。「やっぱり、だめだ!」
「ちょ、どうしたんですか、月彦さん!」
月彦が勢いよくカウンターに手をついて立ち上がったので、その拍子に茶碗や小鉢がひっくり返りそうになる。
「陽人にはなにも言うな!
お前に責任なんてとれない、俺たちはこのままでいいんだ!」
そう言って、月彦は風呂場に向かってしまった。
後に残された京弥はぽかんとその後ろ姿を見送って、数秒後になんて自分勝手なやつだ、と憤った。カウンターの上には食べかけた食事が残っていて、すっかり冷めてしまっていた。
絵を描いていても集中できない。
初めて京弥とセックスをしてから、一週間が経っている。
今まで生きてきたなかで一番幸せな誕生日だった。
ふとした瞬間に思い出しては、独りで赤面し、身体を熱くし、その熱で湯だった脳みそはいつにも増してぼうっとして、ふわふわとしていた。
しかし、あれは誕生日という特別な日のご褒美。
優しい京弥による奉仕活動。
勘違いしてはいけない。
男同士など結局下半身とは切っても切れない関係だ。恋だの愛だのがなくてもセックスはできるし、下半身も反応する。
一度寝たくらいですっかり浮かれ切ってしまう自分の経験値のなさが恨めしい。
しかし、一度寝てしまったからこそ、もっともっとと欲が出てくるのが人間の性でもあるんじゃないだろうか。
だって、一度はできたのだ。もう一度できないわけはない。
……と、希望を持つのはいけないことだろうか。
もう一度、あと一度だけ、最後にもう一度、と何度か肌を合わせているうちに情が移るというのはよくある話だ。
「……はぁ、なんて自分勝手な……」
片手に頬杖をつき、もう片方の手で絵筆を弄びながら自嘲する。
京弥には気になっている人がいるのだ。
その京弥に誕生日だからと我儘でセックスさせておいて、あわよくば、なんて最低過ぎる。
京弥が月彦に付き合ってくれているのは、ひとえに高校生のあの日の告白があったからだろう。
ノスタルジーとか、刷り込みとか、そういうものかもしれない。思春期の思い出なんて美しく思えるものだ。
「……はぁ、ヤらなきゃよかった……」
セックスしなければ、諦めがついたかもしれない。
京弥の手の大きさを、肌の熱さを、低い声の甘さを、あの優しさを、知らなければ、こんなに寂しく感じることもなかった。
何度目かのため息を零したとき、散らかった作業テーブルのどこかでスマホが鳴った。
ばさばさと要らない書類を床に落とし、描きかけの絵を丁寧に本の上に乗せ、鳴り続けるスマホを探した。
「はい、雨野です」
表示は出版社だったので、仕事の名前で出る。
電話の向こうの声は、普段の担当者よりも少し上の立場の人だった。お互いに定例文のやり取りをした後、相手が本題に入った。
「……え、貴島さんと、ですか」
その後の京弥との誕生日が強烈過ぎてすっかり忘れていたが、先日のアート展での貴島とのやり取りを思い出した。
どうやら、貴島は本気で月彦と仕事がしたかったらしい。
出版社へ、個人での画集と海外を視野に入れた個展兼販売会をしないかと持ちかけて来た。もちろん、自分がスポンサーになるからと言っているらしいが、すでに出版社に対して予算を提示したのか、担当者が随分乗り気だった。
『それで、顔合わせも兼ねて食事会でもいかがですか。
貴島さんが気を使ってくださって、ランチの時間帯を提案してくれたんですよ。
ほら、雨野先生、夜はあまり出歩かないって言ってたから。
ランチと言ってもホテルのラウンジレストランでね、こんな機会でもないとなかなか行けないですよ』
もうそこまで決められているのか、と半ばうんざりする。おそらく、貴島の勢いと話の上手さに乗せられて話が弾んだのだろう。
これでは、提案を断るというより、雰囲気的には仕事に穴をあけるような印象になってしまう。
『まあ、ランチミーティングというか、親睦会のようなものでして、そこで話を聞いてからお断りするかどうか決めてもらっていいんですよ』
裏を返せばランチミーティングは絶対参加、断る選択肢はないということだ。
どんどんと重たくなる胃のままに、椅子からずるずると落ちて床に座り、壁にもたれる。
「それで? 日時はいつなんです?」
全くやる気のない声でようやくそれだけを言い、日時をそこら辺の雑紙にメモし、電話を終えた。
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