第18話 朔月
ずっと、モヤモヤしたまま気分が晴れない。なにが月彦をあんなに怒らせてしまったのだろう。
確かに、月彦の言うことも一理あるが、陽人になにもかも内緒にしたままこの問題が解決することなんてあるだろうか。
月彦の、怒っているはずなのにどこか悲痛な叫びのような言い方を思い出す。
月彦のことが好きだ。綺麗で、自由で、奔放そうなのに、どこか繊細で優しい、あの月彦が好きだ。
月彦も、少なからず自分のことを想ってくれていると思う。それなのに、受け入れてくれないのは、陽人に遠慮して自分が消えるつもりだからだ。
しかし、京弥は月彦も陽人もちゃんと愛している。それなのに、二人の魂と身体に変化はない。
それは、京弥がちゃんと愛しているつもりでも、本当には愛せていないからなのかもしれない。
自分の気持ちを疑ってしまう。月彦も、陽人も好きだ。
本当に?
本当に好きだ。
でも。
伝えたい、と思うのはエゴだったんだろうか。そっとしておいて、月彦と陽人はあのまま過ごしていれば、二人とも消えずに済むんじゃないだろうか。自分が絡まなければ、結局二人は何事もなく二人で居られるんじゃないか。
じゃあ、いい。
恋人になんてならなくてもいい。
自分は、二人と一緒に居られなくても、いい。
月彦と陽人が二人、この世界に存在してくれてるだけでいいのだ。
自分が関わることで二人のうちどちらかが消えてしまうなんてことがあるよりも、このままの二人を見守れていればいい。
恋人という関係性にこだわっていたのは自分で、その関係性を怖がっていたのは月彦で、その関係性を欲していたのは陽人だった。
月彦と自分、陽人と自分、そして月彦と陽人の関係性は、どれも型にはめられるようなものではないし、はめなくてもいい。
三人で新しい関係を築いていけばいい。
スマホを取り出すと、セイジから連絡が来ていた。
『国際ホテルのロビーでクーちゃん見かけたけど、珍しくスーツなんか着てたわ。
仕事?』
月彦と連絡をとっていたアプリを立ち上げると、一言『むかえ にこい』と送られてきていた。
今日、仕事で貴島と食事することは陽人が話してくれていた。二人きりじゃないから、とも言ってくれていた。
「陽人さん、酔ってんのかな?
でも、このアプリのDM、月彦さんしか知らないしな……」
嫌な予感がする。
慣れないスーツを着込んで国際ホテルの上層階ラウンジレストランの個室で慣れない食事を口に運ぶ。
壁一面の窓から臨む眺望はきっとそういう景色が好きな人間にとってはたまらないのだろうが、生憎、月彦はあまり興味がない。
月彦と出版社の担当編集者とその上司、そして貴島が中華の円卓を囲んでいた。
ただし、昼間から開けたワインで上機嫌なのは上司と貴島だけだ。担当編集は愛想笑いも疲れてきているのが目に見えている。きっと今夜あたり、顔の筋肉が筋肉痛を起こすに違いない。
月彦は、一刻も早くこの場を終わらせたいがために、黙々と料理を口に運んでいるだけだ。
会食が終盤に差し掛かったところで、出版社の上役があり得ない提案をし始めた。
「私たちは早速、社に戻りまして個展の企画を詰めて参りますから、貴島さんと雨野先生はどうぞごゆっくり」
こんなところで貴島と二人にされてはたまったものではない。
それならランチミーティング自体が終わりだろうと、月彦も腰を上げた。
「月彦先生、先生はまだいいじゃありませんか。
珍しい酒があるんですよ。十年物の紹興酒なんですがね。
ぜひ、先生にもお勧めしたくてね」
「いえ、せっかくですが酒は飲めないもので」
「雨野先生、それなら料理はいかがです?
コースに含まれない燕の巣のデザートもあるんですよ」
「いや、あれだけ食べてもう入りませんよ……」
そんな押し問答が幾度となく繰り広げられる。断り続けるのも大変で、それならと、つい妥協案のつもりでワインを口にする。一杯飲んだら違う酒も、それでは食事よりもつまみに中国のチーズを、それならこの酒の方が合うだろう、となかなかお開きにならない。
一度席を離れようと赤い顔でトイレに立ち、個室に戻ってきたときにはすでに出版社の二人は居なくなっていた。
やられた、と思いながら、自分も急いで荷物を手に取る。
「先生、そんなに慌てなくとも。
今、タクシー呼んでもらってますから。
ほら、残すともったいないですよ、この紹興酒は希少なんですから」
すでに随分と酔いが回っていて、早く帰りたいという考えで頭が占められている。
立ったまま、グラスを掴み残った紹興酒を一気に呷る。紹興酒の独特な漢方薬のような香りが鼻に抜けた。
「そのタクシーは貴島さんが使ってください。
俺は、自分で捕まえます」
そう言って踵を返し、個室の扉まで数歩の距離を歩いた途端、足が動かなくなり、気が付けば目の前に壁が迫っていた。ぶつかると思った瞬間、壁に向かって倒れ込んだ。
なんだろう。
足が動かない、視野が狭窄していく。
倒れ込まないように、壁に手をついて眩暈に耐える。
自分が思っているより酔っているのかとも思ったが、つい先ほどまでこれほど酷くはなかったはずだ。
だめだ。考えている間にも意識が失くなりそうになっている。
「あれ? 先生、飲み過ぎちゃいました?
酔った? 酔っているのだろうか。
「少し休んでいかれた方がいいでしょうねぇ」
貴島がなにか喋っているのはわかるのだが、頭の中で全く意味をなさない。
貴島が後ろから抱えて支えてくれる。腰にしっかりと腕を回された状態に不快を感じる余裕などない。動けば脳まで揺れて嘔吐しそうになるのを必死でこらえる。
『起きろ! しっかりしろ!』
その声はいやにはっきり聞こえた。その声だけが意味を持って頭の中に響く。
『逃げろ! そいつから離れろ!』
誰が叫んでいるのかとか、知っている声だったとか、そんなことを考える暇もなく、必死に身体をひねり貴島を突き飛ばした。
廊下の壁に手をつき、目も良く見えていないまま闇雲に進む。ただ、貴島から離れようという一心だ。
薬だ。なにかの薬を盛られた。となれば、盛ったのは貴島しかいない。
レストランスタッフの押すシルバーワゴンにぶつかり、派手な音を立てて皿やグラスが床に落ちた。
助けを求めたいが言葉が出ない。
ホールに出ると、ほかの客のテーブルに突っ伏してグラスを倒し、次のテーブルにぶつかっては料理をひっくり返す。
あちこちで悲鳴が上がるが、その悲鳴すらもどこか遠いところで聞こえているようだ。
『トイレだ! 個室へ入って鍵かけろ!』
頭の中に響く声だけを頼りに、なんとかトイレに辿り着き、個室の扉に縋りつき、覚束ない手で鍵を閉めた。すでに足に力が入らず、いったんずるずると座り込んでしまったら意識を保っているのがぎりぎりだった。
内蔵が捻じれてひっくり返っている気がする。便器を抱えて嘔吐した。
「先生、表はえらい騒ぎですよ。
先生、少し部屋で休みましょう」
貴島の声が聞こえて、また拒否感から嘔吐しそうになる。扉が開かないように座り込んだままの自分の身体で押さえる。
『俺に代われ、俺なら慣れてるから。
お前はこんな思いしなくていい。
お前は京弥のことだけ考えてろ』
怖い。気持ち悪い。トイレは嫌だ。
そうだ、昔、同じようなことがあった気がする。
イメージだけが断片的に浮かぶ。
薄暗い記憶。汚い壁。見下ろす男の自分を見る目。
まだ小学生だった頃、男に公園の公衆トイレに連れ込まれたことがあった。
もう薄暗くなる時間帯で、ほとんど誰も入らないような公衆トイレだ。薄暗いトイレで男の異常にぎらぎらした目だけがよく目立っていた。
頭がくらくらしている。
嫌だ。京弥以外の男に触られたくない。
『俺に代われ』
代わる? 誰に? どうやって?
「先生、大丈夫ですか?
ああ、こっちです、すみません。
連れがちょっと飲み過ぎてしまって。
ここで部屋をとってますので私の部屋で休ませますよ。
開けてもらえたら、あとは私が、大丈夫です」
扉の外で貴島が誰かと話している声が聞こえる。
あのときは、どうしたんだっけ。
結局どうやって助かったんだろう。
おそらく、もうすぐ意識がなくなる。嘔吐したおかげで薬も吐き出せたのだろう、効きは遅いが酒も入っていて限界を迎えようとしていた。
小学生のときの記憶がフラッシュバックする。
夕方の薄暗いトイレで見上げる男の顔もよく見えない。男の手が伸びる。
『大丈夫だ、それは……お前の記憶じゃないよ、陽人』
そうだ。俺じゃない。
この視点は誰のものだった? 誰の記憶だった?
男が無理やり腕を掴んで壁に向かせようとした瞬間、男の後ろからランドセルが飛んできて男の腕に子供が飛びついてきた。
「はると! なんで逃げなかった!?」
男に襲われそうだった小学生が叫ぶ。その少年に向かって自分も言い返す。
「大人もよんできた! けいさつもよんでもらった!
つきひこをほうっとけないでしょ!」
その言葉を聞いて、男は罵声を浴びせながら飛びかかってきた。しかし、大人が複数人で取り押さえてくれた。すぐに警察も来た。
本当は、二人とも男に捕まっていた。
隙を見て月彦が男に体当たりをし、陽人を逃がしてくれたのだ。
そうだ、俺は、……月彦じゃない。
『陽人。
だから、俺に代われ』
男の相手をするのなんて俺は慣れてる。
「そんな……こと、できるわけないでしょ……月彦ばっかり嫌なこと……」
だが、酒と薬は容赦なく意識を混濁させていく。
「先生、開けますよー」
『おい! 陽人! 陽人! くそ、おい起きろ!
逃げろ、逃げろよ!』
月彦の悲痛な叫びが頭の臆で聞こえるけれど、もう指一本動かせない。
そのとき、トイレの扉の向こうで大きな音がして同時に衝撃が扉を叩いた。
(……うそだろ、力づくで開ける気なのか……?)
貴島という男の異常性を改めて感じてぞっとする。
「月彦さん! 居ますか?
もう大丈夫ですよ、開けてください、俺です!」
「!」
京弥、くん……?
「月彦さん! 大丈夫ですか!? 月彦さん!」
個室の扉をドンドンと叩かれるが、先ほどまでの恐怖感が不思議なほどない。
必死で腕を伸ばして、力の入らない手で何度も失敗しながら鍵を開けた。
「月彦さん!」
扉が開けられてもたれていた身体を持っていきようがなくて床に倒れかける。そこを、京弥が抱きとめてくれた。
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