第13話 恋

 夢の内容は、もうずっと昔から全く変わっていないのだ。

高校生くらいの頃だっただろうか。いつも、知らない男の子に身体を触られている夢を見ていた。

 自分がゲイだと自覚したのは中学生のときだったから、相手が男の子だったということに関して驚きはなかった。それよりも問題だったのは、自分よりも明らかに年下、それもまだ幼さの残る子供のような印象を受けたことだった。自分はただのゲイというだけではなくペドフィリアの気でもあるのだろうかとショックを受けたものだ。

 しかし、抱かれているのは自分の方だったので、随分とややこしい性癖を持ってしまったと思い悩みもした。まともに恋愛をすることなど一生できないかもしれない。そんな風に思いつめ始めたとき、同じ高校に岡野京弥が入学してきた。

 一目見た瞬間、自分が夢に見ていた少年は彼だったのだとわかった。ああ、彼を知っていたのだ、と思った。なぜかはわからない。どこかで会っていたのかもしれない。この頃の月彦は、とにかく不安定だった。記憶も曖昧になることが多く、いつもふわふわと身体と意識が乖離しているような気がしていた。

 ちょうど家族仲も最悪な時期で、母親は実家や入退院を繰り返していてまともに顔を合わすことがなく、父親は母親がそうなったのは月彦のせいだと月彦を避けていた。

 そんなとき、校内で見かける京弥はいつもまっすぐ前を見ているような強い印象を与える黒い瞳をきらきらと輝かせ、元気に野球に勤しんでいた。

夢では幼い子供のようだと思っていたが、実際には二つしか違わず、グラウンドを走る姿はあっという間に身体つきも顔つきも変わっていった。廊下ですれ違う度に背が伸びたような気がしていたし、夏休み前には声が掠れていた。

 ある雨の日、テスト前だったけれど家には居たくなくて図書室で時間を潰していた。三年のこの時期に図書室なんかに居て先生に見つかれば面倒な小言が始まるので、奥の誰も来ないようなかび臭い古びた本が並ぶ本棚の間へ陣取り、本の背表紙をなぞっていた。

 棚の影からひょっこり顔を出したのが京弥だと認識したとき、驚きで手にしていた本を取り落とした。この時間帯にこんな所で会えるとは思ってもいなかった。ようやく発した言葉は、

「本、好きなの?」

という様々な説明と接続詞を省いたものだった。

そんな月彦に対して、京弥は先輩に臆することもなくいたって普通に応えた。

「本はあまり……、字が多いと眠くなるんで。

でも、絵本は好きです、読めるっす」

「……そうなんだ……」

 雨の音がやたらと大きく聞こえる。掠れているのに元気の良さそうな声が言った「好きです」という単語がいつまでも心の中に残った。

 京弥は近付いてくると、月彦の落とした本を拾い手渡してくれた。身長は月彦よりも小さいのに、手は骨ばっていて大きかった。


 アートギャラリーは最近の流行であるデジタルアートの作家たちの合同展だった。駅から直結の近代的な商業ビルのワンフロアがギャラリーになっている。招待券をくれたのは月彦が懇意にしている出版社だったが、作家たちとは誰一人として個人的に面識がないという立ち位置なので、ほぼ一般客のつもりだった。

 光の加減や陰影、色のバリエーション、緻密さなど、デジタルならではの写真と見紛うような絵が並んでいる。中には、写真のようにリアルなのに写真では絶対にあり得ない幻想的なものもあり、未だアナログな水彩画の月彦には新鮮だった。

 月彦も京弥も足並み揃えて仲良く並んで鑑賞するという発想がなかったために、気が付けば京弥は少し離れた次の作家のブースに移っていた。

 その横顔はパネルを見ているようでいて、どこか遠くを見ているような、なにか考えごとをしているようでもある。

退屈だったのかもしれない。月彦の趣味を押し付けてしまったのかもしれない。いや、京弥だって楽しみだと言ってくれていたはずだ。しかし、最近の京弥は少し妙な気の使い方をしていたから、もしかすると興味がないのに無理やり付き合ってくれているのかもしれない。

 今日だけではない。最近の京弥は心ここにあらずというか、なにか考え込んでいるようなことが多くなった。

月彦と話していても、月彦を通して違う誰かを見ているような、そんな目をするときがある。遠くを見て、ここに居ない誰かを思い浮かべているような目。

 そんなときは、ひどく不安になる。ざわざわと心が波だって、苛立って、悲しいような寂しいような気持ちになる。

「……つまらないか?」

 先ほどからアートを見つめたまま一歩も動かない京弥の隣へそっと立つ。しかし、京弥は絵を見ているわけではない。絵を見ているようで心では別のことを考えている。

「え、あれ、月彦さんはあっちのブース、もういいんですか?」

「……うん、もう見終わった」

 とっくに。

「こっちのブース、廃墟だとかディストピアみたいなイメージの絵が多いですよ。

リアルで写真みたい」

「本当だ。

……つまらなくないか?」

「なんで?

こういうダークな絵も見てて面白いっすよ、夢中になってました」

 嘘だ、と思う。夢中になっていた顔では、なかった気がする。

 また心がきしきしと音を立てて軋む。京弥の言葉が信じられなくなっていく自分こそが嫌いだ。

「俺の趣味に、無理やり突き合わせたんじゃないかと思って」

 京弥が、ようやくこちらを見る。その顔は驚いているけれど、月彦を鬱陶しがるような素振りはない。すぐに、にっこりといつもの曇りのない笑顔になって月彦の顔を覗き込んだ。

「俺、確かにゲイジュツとか全然わかんないっすけど、自分が好きなものはわかりますよ。

月彦さんの絵の方が俺にはずっと優しくきれいに見える」

 そんな言葉が返って来るとは思わなくて、一瞬呆気にとられた。

単純なもので、その言葉一つで心は簡単に喜んでしまうし期待する。顔が熱い。

「あ、ありがと。

つまらなくないなら、よかった」

 京弥には、もう一度ゆっくり向き合っていきたい、今度こそ関係を作り上げていきたいなどとさも余裕がありそうに応えたが、実際には月彦自身はもうとっくに、どうしようもないくらい、京弥への想いに翻弄されている。

きっと高校生のときから、ずっと恋をしたままなのだ。

 昨夜の夢を思い出してしまう。大きな手で触れられる気持ち良さ、耳元で囁かれる低くて甘い声、自分のことを求めてくれる熱。本当は今すぐにでも欲しい。

 高校生の頃に見ていた夢の中では、手も身体つきも月彦より少し小さく、声もまだ少年ぽさを残していた。

 あの頃も、こんな風に彼に触れて欲しくてたまらなかった。毎晩のように、彼に触れられる想像をした。

卒業して、一方的に想いを告げるだけ告げて逃げて、一度は諦めたつもりになっていた。

 それでも、再会すると一瞬でまた恋をしてしまった。きっともう自分の心は雛鳥の刷り込みのように京弥に恋をすると決めてしまっているのだろう。

「どうしたんすか、なんか可愛い顔してる」

 京弥が指の背ですっと頬を撫でていった。

「はっ? かわ……?」

 慌てて京弥の指が触れて行ったところを押さえて、少し距離をとる。京弥の言動はいちいち心臓に悪いので困る。

 想像や夢ではあれだけ大胆に触れてもらって悦んで、今ももっと触れて欲しいと願っていたばかりなのに、実際には指先でなぞられただけで腰が引けてしまうのだ。

経験値がないというのは、どうにも不利だと思う。

自分にもっと経験値があれば、もっとスムーズにデートを重ね、気持ちを伝え、身体を重ねるところまでいけたのだろうか。

 そうすれば、京弥がほかのことに気持ちが移ろうのを止められるのだろうか。

「あの、月彦さ」

「やあ、月彦先生!」

 物思いに沈みかけた月彦の後ろから、まるで隣の京弥が見えていないように押し退けて男が月彦の肩に手をかけながら割って入ってきた。

「え……?」

「いやあ、お会いしたいと思っていたら、本当に会えましたよ。嬉しい偶然ですね」

 涼しげな麻のジャケットに、小さなボタンダウンのロングシャツをおしゃれに着こなしたとても四十代に見えない男が立っていた。

「貴島さん……」

 正直、嫌な男に会ったと思った。

京弥には目もくれず、月彦に握手を求める。仕方なく応じるが、なかなか離してくれないばかりか、さりげなく親指で月彦の手の甲をすりすりと撫でる感触に鳥肌がたつ。

「どちら様ですか?」

 京弥が貴島の手をさりげなく離して間に入ってくれた。

「岡野くん、こちら画商の貴島さん。俺の絵を気に入ってくれてて……」

 絵の購入どころか、実はスポンサー契約を、とまで言ってくれている。

「ああ、失礼。ご友人がいらっしゃったんですか。

気付きませんでしたよ、私は月彦先生に夢中でねぇ」

 冗談でも京弥にあらぬ誤解を生みそうな言い方は止めてもらいたい。

「貴島さん、今日はどうしてここに?」

「ああ、このアート展の出資を承ったんですよ。無事に開催できて良かったです」

「そうだったんですか。良いイベントですね」

「ええ、まあデジタルアートは流行ですからね。今なら海外でも売れる。

月彦先生のような普遍的価値とは違いますからね。月彦先生のように時代に左右されない美しさを持つ方こそが私の求めるものですよ」

「月彦先生の“絵”、ですよね」

 京弥がにっこりと笑いながら訂正する。

「ええ、もちろん、月彦先生は絵もご本人も全てがお美しいですから」

 貴島も負けじと微笑んで、ついに京弥とは握手を交わすことなく、簡単に挨拶を済ませて去っていった。

「それでは、月彦先生、次はお食事にお誘いします。

またご連絡しますよ」

「……は?」

 なぜか京弥が口元を笑みの形に引き攣らせながら貴島の言葉に不快感を表していた。

「なんですか、あの人」

「んー……、画商としては凄く力のある人らしい。

実業家でほかにも仕事を持っているらしいし」

「誘われても二人きりで行かないでくださいね」

「行かないよ。俺も苦手なんだ、あの人」

 絵画の世界も最近ではビジネスライクに出版社や画壇の協会、ネットギャラリーでの個人販売などアーティスト本人が売り込むこともできるようになっている。

 しかし、今もスポンサーや出資者などに助けてもらわなければ生活していけない若いアーティストが居るのも事実だ。スポンサーという言葉は使っていてもつまるところ「パトロン」だ。

それも、才能ある若きアーティストを手助けしようという余裕ある大人の義務やステータスとしてでのパトロンではなく、アーティストの弱みに付け込んで生活全般から性的搾取まで、囲おうとする悪しき風習の方である。

 貴島からは、その手の欲望が見え隠れしているような気がして好きになれない。

「そういえば、さっきなにか言いかけただろ」

 貴島に邪魔をされてしまったが、先ほど京弥は月彦に向かってなにか言おうとしていたのではなかったか。

「ああ……、えっと、また後で言います」

 やはり、なにか引っかかるものを覚える。

なにを言いかけたのだろう。こんなにも言い淀むのだから、よほど月彦に言い難いことなのだろうか。

 たとえば。

ほかに気になる人ができたからもう会えない、とか。

 つい自分の想像でショックを受けてしまう。血の気が引いていくようで目の前が暗くなり、呼吸が苦しくなったので、思わずシャツの胸元を握る。

「大丈夫すか?」

「え……?」

「顔色悪いっすね。さっきのおっさんのせいか?

どこか座れるところ行って休憩しましょう」

 本当に体調が悪かったわけでもなかったので、京弥にむだな心配をかけさせてしまった。しかし、正直なところアートを眺める気分ではなくなっていたことも確かだ。

 同じビル内のカフェに移動しようとしたが、混雑していてすぐに席が空いていないようだった。

カフェの外にまで伸びる席待ちの列を見て、京弥は悩む顔を見せる。そんな表情の変化にまで、今の月彦は敏感に反応してしまう。

 京弥を困らせている。どこでもいいと言わなければ。店に入らなくても大丈夫だが、京弥は落ち着きたいだろうか。いっそもう帰った方が。京弥に申し訳ない。

「俺は大丈夫だから。もう、帰ろう」

「えっ、そんなに体調悪いんです?

すみません、俺気付かなくて」

「あ、違う。俺じゃなくて、岡野くんが。

こんなに混んでるのに店探しなんて面倒だろうと思って」

 京弥が歩を止めて固まる。そして、深いため息をついた。

「! ごめん、岡野くんがどこかで休憩したいならもちろん、店探すし……」

「月彦さん、月彦さん、ちょっと……、あ、ここで、とりあえず座って」

 腕を引っ張られていったのは、フロアの端に申し訳程度に備え付けてある休憩用のソファベンチだった。

「ちょっと待ってて」

 京弥はそう言い残して立ち去っていく。

その背中を見送りながら、月彦は息を吐いた。空回りしている。それはよくわかっているのに一度噛み合わなくなった歯車は自分でもどうしようもない。

 フロアの主要部分から離れている為に、人はあまりいない。せいぜいが、少し離れたソファベンチに疲れた男性が居眠りしているのと、大量の買い物袋を順番に見張りながらトイレへ向かう女性がふたり。その程度だ。

 壁にもたれかかり頭を預ける。

 どうして上手くできないのだろう。一緒に居られて嬉しいのに。

同じ絵を見て感想を言い合って、今日は夜まで一緒に居るつもりだったから美味しいごはんを食べて、軽くお酒なんかも飲めたらいいと思っていた。

今まで、あまり酒を飲まない月彦に付き合ってか、一緒に飲むことも、飲みに行こうと誘われることもなかったから、楽しみにしていた。

 高校生の頃はできなかったことが、今はできる。一緒に居られる。あの頃より一歩も二歩も進んでいる。

 あの頃、どうしてあんなに素直に好きだなんて言えたのだろう。まっすぐに、京弥のことしか見えていなかった。ただ、伝えたかった。黙っていることの方が苦しかった。

 今の方がずっと近くに居られるのに、あの頃の自分の方がまっすぐさや勇気があった気がする。ちゃんと向き合えていた気がする。

「なんだ、今の方が向き合えてないんじゃん……」

 人見知りで、人付き合いが苦手な自分が絵本を描いて、出版できて個展まで開かせてもらえるようになった。まっすぐさや素直さは武器になると知っている。

「よし……!」

「なにが“よし”なんです?」

「! びっくりした……」

 京弥が両手にテイクアウトのコーヒーを持って立っていた。

「ブラックで良かったですよね」

「うん、ありがとう」

 京弥はアイスコーヒーを飲みながら、隣に座る。

「大丈夫ですか」

 ゆっくりと、落ち着かせるように話す声。これは、意図的だろうと思うし、それができるのは京弥の優しさと細やかさゆえだ。

「ごめん、少し、というか大分、焦ってたみたいだ」

「焦ってた?」

「自分でも変なこと言ってると思うんだけど。

なんか、最近、岡野くんがどこかに行ってしまう、岡野くんが、とられちゃう、って思っちゃって。

それで、必要以上に岡野くんの顔色うかがって、勘ぐって、逆に気を遣わせてた、ごめん」

 京弥は黙って月彦の顔をじっと見ながら聞いてくれている。

 大丈夫、手は震えているけれど、落ち着いている。

京弥なら嘘をついたりごまかしたりしないでまっすぐに向き合ってくれる。

「俺、やっぱり、岡野くんが好きだ。

昔も好きだったけど、今の方がもっと好き。

とられたくないって思うのも本当だけど、もっと奥の本音は、ずっと岡野くんの側に居たいってことだと思う。

ほかの誰かは関係なくて、岡野くんと俺の間の気持ちが大事だと思う。

だから、岡野くんには俺の気持ち、知ってて欲しい」

 京弥が眩しそうに目を細める。

「……やっぱり、太陽の人、なんだろうなぁ」

「え? なに?」

 京弥が口元を押さえながら呟く声はよく聞こえなかった。

よく見ると、耳や首元まで赤い。

「高校のときも、あの日、俺に好きだって言ってくれた先輩、超きれいだったっす」

 なんだか表情や言葉遣いが高校生みたいで、思わず笑ってしまった。

「笑わないでくださいよ。

いや、ほんとに、天使かと思いましたもん」

「はぁ!?」

 告白したときより恥ずかしい。天使とはまた大きく出たなと思う。

「今の方がもっときれいっすけど。

なんて言うか、顔の造りのことじゃなくてもっとこう……、ああ、この人本当に好きなんだろうな、ていう……。

しかも、その気持ちを向けられてる相手が俺なんだって思うとたまんない」

 京弥の、なぜか少し怒っているような拗ねているような表情は、もしかして照れ隠しなのだろうか。

そう気付いた瞬間、胸の奥からじわじわと喜びが沸いてきて、先ほどまでの焦燥感や緊張、怖さがあたためられて溶けていく。

「……ふ、ふふ、あはは。

岡野くんも、可愛いところあるな」


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