第12話 廻る月

 話しだけではきっとにわかに信じられなかっただろう。しかし、京弥は二人のことを知っている。全てをありのまま信じると決めたのだから、月彦の言葉をそのまま信じる。

「陽人さんが自分の名前も今の状態も覚えてないってことは、陽人さんは自分のことを月彦だと思っているってことですよね?」

「そうみたいだ」

 幸い、月彦さえ気を付けて辻褄を合わせて行けば、もともとお互いを良く知る双子であったのだから、誰にも違和感を抱かせないように生活することは簡単だった。

 それは生活の大部分を記憶のない陽人の振る舞いに合わせていくということだった。

 月彦の視線の先には大きなダイニングテーブルの上に描きかけの絵がある。

「記憶が曖昧になっているようで、自分が陽人だったことも覚えてないし、陽人として一度死んだことも覚えてない。

ずっと、月彦で生きてきたと思っている」

「じゃあ、あなたの、月彦さんのことは?」

「……覚えてない。

俺の意識が表に出てる間は、あいつの意識は眠ってる」

 とても大事で、自分の身体を共有してもいいとさえ思っていた双子の弟が、自分の存在を忘れてしまっているのを一番近くで見守る気持ちはいったいどんなものだろう。

 そして、双子の兄にそこまで受け入れられて一緒に居ることが出来るはずだったのに、その兄のことすら忘れてしまっている弟もどれだけ悲しいことなのか。

「月彦さんと陽人さんは話しができないんですか?」

「俺の身体に陽人が入ってから話せないんだ。

でも、俺の中に陽人が居るっていうのはわかる」

「俺が、陽人さんに教えちゃだめなんですか」

 月彦は困ったような顔をして少し笑う。

「陽人が、俺の身体に入るには、条件が合った。

俺たち二人ともがちゃんと愛されること。できなければ、愛されなかった方は消えてしまう。

誰が決めたんだか知らないけど、神様みたいなものが本当に居るのかな。

案外、悪魔の方かもな。

なにかの実験とか罠とか嫌がらせの類かもしれない。

とにかく、陽人と俺は、二人ともをちゃんと愛せる、それができるのは親だと思った。

陽人が俺の身体に入ったら、まず母親に打ち明けよう。きっと、理解してくれるはずだって。

だから、二人で条件をのんで、陽人の魂を俺の身体に入れてもらったんだ」

 しかし、いざ陽人が身体に入ってきたら、陽人は自分のことを忘れて、自分を月彦だと思って表に出てくる。

母親や周囲の大人たちからしてみれば、双子の兄が突然、死んだ弟のような言動をし始めたのだ。

いくら月彦が説明をしようと自分の身体の中に陽人の魂が居るのだと言っても、双子の片割れが寂しさから子供の妄想を言っているのだとか、陽人が居るように演じて振る舞っているのだとか尤もらしい解釈で誰も信じてはくれなかった。

 最初は涙を誘う言動だったとしても、徐々に母親もほかの大人たちも、気味悪がり始めたのは責められることではなかったのかもしれない。

 だからといって月彦と陽人にも譲れないことがあった。ちゃんと二人ともを愛してもらえないと、愛してもらえなかった方は消えてしまうのだ。

月彦と陽人の交代が頻繁になればなるほど、母親の不安は大きくなっていった。

毎日毎日、双子の兄が死んだ弟のふりをして、和食をリクエストしたり、甘い物はいらないと言ってくる。いつもとは違うジャンルの映画を見たり、穏やかに読書をしていたりする。

双子を良く知っていた母親だったからこそ、一人の息子であるはずなのにその中身の違いをより明確に感じ取っていた。

 母親は、壊れてしまった。いつまでも死んだ息子を目の前に突きつけられ、残った息子は自分の個性を殺していく。

「不安定になっていく母親を見て、俺も、きっと陽人も、辛くなっていった。

自分のせいで母親が泣いて、もうやめてと怒鳴る。

俺はわかってもらうことを諦めた。

陽人も、きっと同じように自分を責めたと思う。

それからは、誰にも理解を求めようとは思わなくなった。

このことは誰にも言わず、気付かれないように生活する」

 京弥は必死で頭の中で二人の状況をなぞる。

双子の兄弟が、二つの魂が一つの身体に入っていて、どちらも愛されなければ、愛されなかった方が消えてしまう。

しかし、弟の方はその条件どころか、兄の存在も自分が一度死んでいることも覚えていない。

覚えているのは兄だけで、必然的に弟の方が本人として振る舞い、兄の方は一歩引かざるを得ない。

「ちょっと待って。

それってあんたはどうなるんだよ、どうするつもりなんだ?

まさか、……自分が消えるつもりだったのか?」

「怖いんだよ、その事実を知った陽人の心がどうなってしまうかを考えたら。

あいつは優しいから、自分が俺の身体を使って生きて、俺にフォローさせてたなんて知ったら……きっと自分がいなくなればいいと思ってしまう。

だから、このことは絶対、陽人には言うな。

たとえ、俺がいつどうなっても、陽人はなにも知らず月彦として生きて行けばいいんだ」

 もし、兄の魂が人知れず消えて、自分は兄の身体で生きていると知ったら、あの陽人なら、きっと自分の存在を呪うだろう。そんな思いはさせたくない。

だからといって、月彦が消えていいはずがない。

そんなことは許せない。自分がさせない。

「わかりました。

陽人さんにはなにも言わないし、これからも月彦という名前で呼びます」

「……ありがとな」

 月彦が京弥の肩口に顔を埋めて、礼を言うくぐもった声が聞こえた。

そんな風に隠さなくともどうせ真っ暗な部屋で見えないのに、とも思う。そして、隠すくらいなら、独りで隠して耐えるくらいなら、京弥にだけは当たり散らして泣いて助けて欲しいと言って欲しかった。

「ただし」

 顔を上げる月彦の顔を覗き込む。

言えないのなら言わなくてもいい。京弥は自分のエゴで勝手に、思うように行動する。

「あんたはこれからもちゃんと俺と会ってくれること。

それから、あんたと陽人さん、二人とも消えさせない。俺が、なんとかします」

 月彦はぼんやりと京弥の顔を見ている。京弥の言葉の意味を考えているようだった。

「…………はあ?」

 たっぷりと間を置いて月彦の口から出た言葉はそれだけだった。

 京弥だってこれといって確かな策があるわけではない。

ただ、月彦と離れるなんて考えられなかった。陽人が消えてしまうなんて耐えられなかった。

それならば、足掻いてみるしかない。



***

 海の中を漂うような、深い深い眠りだった。このままこうして時間をかけて自分という輪郭が溶けて、大きな海と一体になっていくのだと思っていた。

それなのに、なぜか身体のあちこちに温かい手が触れる感触がする。手が触れたところが痺れるように熱を持って、身体の感覚を甦らせる。

 大きな手だった。優しく触れたかと思うと強く掴まれたり、身体の隅々まで触れてくるから、もうこの身体の中であの手が触れていない場所なんてないほどだ。

 そのうち、誰かの吐息や柔らかく湿ったものの感触もする。

 それはちっとも不快ではなく、むしろ気持ち良くてずっと触れていて欲しくなる。冷たくて暗い海の中を漂っていたつもりが、いつの間にか大きな手に捕まえられて、撫でられ、くすぐられ、自分の輪郭を取り戻している。

海から引き揚げられ、それでも潮の満ち引きのように揺らされ、波音のように吐息とささやきを耳元で聞かされる。遠くへ行くなと言ってくれている。ここに留まれと身体を思い出させてくれる。

 気持ち良い。気持ち良くて、満たされる。流されないように捕まえていて欲しい。独りじゃないとわからせて欲しい。

 自分を抱きとめている者の瞳と目が合う。自分に覆いかぶさり、ものすごく近い距離で見つめられている。そのまっすぐで、真摯な目を見つめ返す度、身体の中に熱が戻る。心臓が動き出すのがわかる。大きく息を吐く。まだここに居たいと痛いほどに願ってしまう。

 そのまっすぐな瞳の人物の肩越しに、月が見えていた。美しい満月が。

 ぼんやりと天井を見上げ、考える。

今、自分はどこに居るのだろう。今は何時で、今日は何日で、自分はいったい何者だっただろうか。

 ああ、そうだ、今日は日曜だ。

仕事は、ああそうだ、昨夜遅くまで起きてきりの良いところまで描いた。

自分の仕事には曜日なんて関係ないけれど、スケジュールによっては予定が入っている。

日曜だから、今日の予定は。

 がばりと起き上がり、枕元のスマホを手に取る。時間を確認すると、約束の時間までにはまだ余裕があった。

「……よかった」

 だが、のんびりしていられるほどの猶予はない。急いでシャワーを浴びるために風呂場へ向かった。

 風呂場の曇った鏡を手のひらでこすると、滲んだ自分の身体と顔が現れる。

さらさらとした髪はシャワーを頭から被ったせいでぺたんこになっている。その髪をかき上げて自分の胸元に視線を落とすと、そこには小さな赤い鬱血点、つまり痣が見えた。

一昨日見つけたものだが、また気付かないうちに虫にでも刺されたのか、ぶつけでもしたのだろう。

 自分は、常日頃からどこかぼんやりしたところがあると自覚はしている。とくに絵を描いている間はひどい。筆を持ったまま床で眠っていたりすることなどは日常茶飯事だ。だから、知らない間にできていた鬱血点など、気にするほどでもない。

 それよりも、先日は朝目が覚めたときの身体の痛さの方が心配になった。

股関節は痛み、足に力が入らず、下腹部は重たく、腹筋ではなく腹の奥の方が筋肉痛だった。しかも、あろうことか肛門に力が入らず、トイレとお友達状態だった。外出の予定がなくて良かった。なにか、変な体勢で寝るか、変に身体を使うこともあっただろうか。

 思い出そうとしても、頭の中が霧がかったようにはっきりとしなかった。

 風呂から上がり、急いで髪を乾かし、下着一枚で部屋に戻る。カーテンを開けると、今日も本降りの雨で、ちっとも止みそうにはなかった。京弥と会う日は雨が多いような気がする。この時期だから仕方ないのかもしれないけれど。

 今日はアートギャラリーに行く予定で、昼前に待ち合わせをして、一緒にランチをしてから会場に向かう。

 気もそぞろでクローゼットから服を選んでのそのそと着替えた。

 京弥に会う予定だったからあのような夢を見てしまったに違いない。

 つまり、あの夢は京弥に抱かれている夢だ。月彦には実体験という経験がないため、あのようにふわふわとした夢になるに違いない。

 今さら淫夢ぐらいで恥ずかしがるほど子供ではないが、内容があのようにファンタジックなのは、とっくに成人済みの男としていかがなものかとも思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る