第10話 最後の逢瀬

「……全っ然、覚えてないです」

 ようやく月彦の最寄り駅に着いたときには、月彦の顔色はさらに悪く、手の中のフラッペはとうに溶けてただの甘ったるいジュースになっていた。

 大丈夫だと言い張る月彦をベンチに座らせ、濡らしたハンカチをおでこに乗せてやると、ハンカチで顔を隠しながら月彦が思い出し笑いを始めた。

 月彦が簡単に説明したのは、おそらく中学生だった頃の京弥と月彦との出会いだった。

「覚えてないんですけど、俺、そういえば受験する高校を決めてたんですよね。絶対あの高校に行こうって」

「……へぇ、なんで」

 京弥は黙って月彦の顔を見る。

 正直、高校を決めたきっかけはなにも覚えていなかったのだが、もしかすると、そのとき月彦からもらったルーズリーフに書かれていた高校名がずっと胸にあったのかもしれない。無意識化にも月彦がずっと気になっていて、月彦が居る学校を選んだのかもしれない。

 空で、遠雷が鳴った。とっくに日が落ちていたからわからなかったが、夕立雲が近付いていたらしい。

「今まで、なにも聞かずになにも言わずにいてくれて、ありがとな」

 ハンカチで顔を覆ったまま、月彦が言う。

「聞いても良かったんすか」

「まあ、聞くのはお前の自由だし。

でも、正直に話すかどうかも俺の自由だから」

 それでは結局、京弥からはなにも聞けなかったし、言えなかったでのではないか。無理に首を突っ込んで聞けば、きっと月彦に逃げられていただろう。なにも知ることはできず、月彦にも距離を置かれていた、という最悪の結末になったはずだ。

「あんたが話したくないことなら無理に話す必要もないし、俺はなにも知らなくても、月彦先輩から離れたりしません」

「ん、……ありがと。

……本当に、男見る目は確かだわ……俺“たち”」

「……」

 夕立雲は徐々に近付いて来ているようで、ゴロゴロと鳴る不穏な音がさっきより近くで聞こえる。生温かい風に雨の匂いが混じり始める。

「今日で最後にするから」

「は、……え?」

 つい空の気配に気を取られて、月彦の言葉を聞き間違ったような気がする。もしくは、その意味をとり違えている気がする。

「最後って……なんすか」

「ああ、お前は気にしなくていい。

今まで通り会いに来て、飯作って、そんで、セックスもして、ああそうだ、今度デートもするんだっけ。

幸せになれ、“月彦”と」

 なにを、言っているんだろうと思う。

 頭がぼんやりとしていて、月彦の言っている意味を正しく理解していない気がする。

 月彦が顔からハンカチをとって、ベンチから立ち上がる。まだぼんやりとベンチに座る京弥を見下ろす月彦の表情は、妙にすっきりとして見えた。

「雨が降るだろうから、お前はもう反対のホームへ行って帰れ。

ここでお別れだな。じゃあな」

 あっさりとした別れの言葉を告げて月彦は京弥に背を向けて歩いて行こうとした。

 その後ろ姿に、理由もなく不安と焦燥感を抱く。このまま帰しても良いのだろうか。

 月彦の言葉は意味の分からないところばかりだ。気にするな、とは結局、京弥には話すほどの信用がないということではないか。

 いや、それよりもなによりも、もっと重要で、胸の大部分を占めている気持ちは、信用がどうとかt月彦の秘密がどうとかそういうことではない。そんなことどうでもいい。そうだ。自分にとって唯一どうでも良くないことが今、目の前で去っていこうとしている。

 京弥は思わず追いかけて、その腕を掴んだ。

「は!? ちょ、痛いって、なにする……! ふぁ!?」

 月彦の腕を掴んで、改札へと続く登り階段の陰へ、月彦を押し込んだ。

 そして、逃げられないように腕を壁について月彦を囲い、キスをした。

 小さな駅のホームの端っこは、電車の車両数によっては乗降口もないし、中央付近にエスカレーターもエレベーターもあるから、この辺りにはほとんど人気がない。無味乾燥な蛍光灯が浮かび上がらせるトイレが視界に入る程度だ。

「んっ、……んん、ぁ、はぁ」

 月彦の身体から抵抗する力が抜けるまで、そう何分もかからなかった。

 多少、卑怯な手だとは思うし、自分でもしつこいと思うほどに角度を変えて何度もキスをしていると、ばしゃりと音を立ててフラッペのカップが月彦の手から落ちた。

 震える手で京弥にしがみつき、背中に手を回してくれたので、京弥も月彦の腰やうなじの後ろに手を回して支えた。

 くったりとする月彦からようやく唇を放すと、月彦が潤んだ目で睨む。

「なにしてんだよ、いきなり……!」

「なにしてんだはこっちのセリフ。

あんたこそ何勝手に自己完結して別れようとしてんすか。

まさか、もう会わないつもりだとか言いませんよね」

 抑えた口調に苛立ちが滲んでしまっている。冷静に努めようと試みてはいるが、抑えようとすればするほど伝わってしまう気がする。

 しばらく京弥と無言でにらみ合っていた月彦が、ふいに力を抜いて、ふ、と口の端を上げる。

「……そんなわけないだろ?

お前の大好きな月彦先輩は、明日も明後日も会えるって言ったはずだ。

デートするんだろ?」

 そうじゃない。京弥の中で、嫌な予感が膨らんでいる。胸騒ぎが大きくなっている。

 このままこの手を離してしまったらもう二度と捕まえられない気がする。手放せない。離したくない。

 今やほとんど真上の空で雷鳴がくすぶっている。

「“あんた”は!

“あんた”とは、これからも会えるんですか!?俺、たぶん、あんたのことが好……!」

 パシ、と京弥の口が手で塞がれた。

「言うな。今は言うな、頼む。

俺は聞けない、俺じゃない。

それは今度聞くから。そのとき、もう一回伝えて」

 京弥の口を塞ぐ手も、言葉も、俯く月彦の肩も震えている。

 京弥の力も抜けていった。自分の気持ちを伝えることすら許してもらえなかった。そのことにショックや怒りよりも、どうしようもないやるせなさを覚えた。

「なんでですか。

セックスだってあんたから誘って来たくせに」

 嫌な言い方だ。自分をその気にさせたのも月彦の責任だとでもいうような、卑怯な言い方だ。そんなことが言いたいわけじゃないのに。

 月彦の肩がびくりと震え、顔を上げるがその表情は強張っている。

「……わかった。最後にやらせてやるから、それで勘弁してくれ」

「は?」

 髪をかきあげた月彦は、初めて会ったときのように口の端を上げ、無理やり挑戦的な笑みを作っている。

「あそこの公衆トイレでもいいぞ。

準備とかなんもないけど、まあ、少しくらいなら痛くしてくれていい……」

「ばかなこと言わないでください。

そんなひどい抱き方するわけないでしょう。

なんでそうやって自分を貶めようとするんですか」

 最後にやらせてやる、という言い方も気に入らないが、あくまで自分を遊び相手のように軽い関係性で終わらせようとしていることも納得できない。自分の気持ちをも軽くあしらわれているような気になる。

 ついに京弥の我慢も限界にきた。

「俺は真剣だし、あんたを幸せにしたいと思ってるし、大事にしたいと思ってる。

その俺の気持ちも受け取ってもらえないんですか。

いや、百歩譲ってあんたにも事情があるんだと思います。それは俺だって感じてる。

だけど、だからって俺の気持ちまで軽いものにしないでください!

あんたが今受け取れないのは仕方ない、でも俺があんたのことを助けたい、支えたい、大事にしたいって思うことも俺の自由っすから!」

 月彦は驚いて口をぽかんと開けて、見るからに引いている。

 やってしまったと思ったが、いったん口から出たものはもう仕方がない。

 月彦の顔はみるみる内に首から耳まで赤くなり、京弥を力いっぱい突き飛ばして走りだした。

「はあ!?」

 なんの話しも解決していないのに月彦に逃げられて、わけもわからず追いかけるしかなかった。

 慌てた足元でフラッペのカップを蹴り、そのままにしておけず拾ってゴミ箱に捨てた。その間に月彦が改札を出て走り去っていくのが見えた。

「くっそ! なんで逃げるんだよ……!」

 自分も追いかけて急いで改札を通り抜け、駅を出る。どうやら月彦のマンションに帰る方向だと思い、少しだけ安心する。しかし、その背中を見失わないように必死で、夜の落ち着いた時間帯の住宅街の中を追いかけた。


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