第9話 出会い

 一昨日から降り続いていた雨も、会社を出るときには止んでいた。シャツの袖の生地が腕にまとわりついてイライラするくらいの湿度の高さだ。見上げると雲間の向こうにわずかに月が出ているのが見えた。

 会社を出るときにズボンの尻ポケットに入れ直したスマホを取り出すと、メッセージのチェックをする。今日も月彦の部屋に行ってもいいか、ということと、スーパーへ寄る予定だがなにか欲しいものはあるかと連絡を入れようと思ったときだった。

 手の中のスマホが震える。ディスプレイの表示は月彦だった。月彦は京弥の仕事の時間を把握していないのでいつも電話ではなくメッセージを送って来るのだが、今日は珍しい。

「先輩、タイミング良いですね、今メッセージ送ろうと思ったところです。

スーパー寄りますけどなにか欲しいものあります?」

「そうだな、目の前のコーヒーショップで新作のフラッペ買って来て」

「……は?」

 京弥の立っている位置から道路を挟んではす向かいにコーヒーショップのチェーン店がある。思わず立ち止まって、スマホを耳に当てたままそちらを見た。

 道路に面したウィンドウ越しに、カウンターで手を降る月彦と目が合った。


 結局、なぜか京弥が購入することになった新作のマンゴーフラッペを満足そうに飲みながら、月彦が横を歩いている。

「甘くないんすか?」

「甘いよ。仕方ない、少し味見させてやる」

 ん、と月彦がカップを差し出してくるので、京弥が購入したのにも関わらず「いただきます」と言ってストローに口をつけた。

「あっま!」

 マンゴーとホイップクリームが混ざりあった冷たいフラッペは口の中いっぱいにフルーティーな甘さが広がる。スイーツはよく食べる方だと自覚している京弥ですら甘いと感じた。

「……甘いもの、好きなんですか」

「好き」

 月彦の手にフラッペを返しながら、その銀のピアスのついた横顔を観察する。

「もしかしてその新作フラッペが飲みたいがために出て来たんですか?」

「人を引きこもりのように言うんじゃないよ」

「先輩の部屋に行くところだったんすよ」

 月彦に電話しようとしたタイミングだったことと、ちょうど良いので一緒に帰ろうという意味を込めてそう言った。しかし、月彦はちらりとこちらを見たまま、またマンゴーフラッペを啜る。

「今日はだめだっただろ」

「なにか予定ありました?」

 月彦はそれ以上は答える気がないみたいで黙ってしまった。

 しかし、黙々と歩けばすぐに駅に着いてしまう。買い物をして月彦の部屋で夕食を作り、一緒に食べて帰るつもりだったので、予定が空いてしまった。

「このまま帰るなら送っていきますよ。

それともまたバーに飲みに行くんですか?」

「お前、顔怖いぞ」

 月彦は目の前に居るのに、なぜマンションに行くのはだめだったのだろうか。そもそも月彦はなぜここに居て、これからなんの予定があるのだろうか。

 月彦が自分との予定ばかりを優先してくれると思っているつもりはなく、月彦にだって月彦の予定があると頭ではわかっている。しかし、感情はまた別でちっとも納得してはくれない。

「別に、お前が考えてるようなことじゃないって。

俺だってこれから帰るだけだし」

「じゃあ、送っていきます」

「はあ!? 俺が嘘ついてどっか遊びに行くとでも思ってんのかよ」

「そうじゃなくて。先輩にもなにか予定があるんでしょうし、絵の締切があるのかもしれないので仕事の邪魔はしません。

ただ、家に帰るんならその間だけでも一緒に居られるって思ったから送らせて欲しいんです」

 しばらく二人で無言の攻防を繰り広げていたが、結局折れたのは月彦だった。

「……好きにすれば」

 必死に憮然とした表情を浮かべようとはしているものの、嬉しそうな口元をフラッペのストローを咥えることでごまかしている。その顔を見ると、杞憂だったかとこっそり胸を撫でおろした。

 駅のホームは帰宅する人々で溢れかえっていた。

「この路線も凄い人すね」

「……そうだな。……普段、こんな時間に乗ることねぇから」

 心なしか月彦の顔色が悪い。

 普段、電車のラッシュに無縁な在宅ワーカーで人混みに慣れていないからだろう。

 この時期の満員電車は毎日乗っている京弥ですら乗り物酔いしそうな日もあるほど不快指数が高い。気温と湿度の上がった満員電車など、慣れていない人間には地獄でしかない。

「やっぱり、どっかで時間潰して電車ずらします?」

「……いや、いい。大丈夫だ」

 青い顔をしているくせに、そんなに仕事の締切に追われているのだろうか。

 電車が目の前で停まり、降りる人を待つこともなく人々が流れ込んでいく。その波に押し流されるように、仕方なく京弥も月彦とはぐれないようになんとか乗り込んだ。

 反対側のドアまで奥に押し込まれ、京弥の前に居た月彦はドアと京弥の間に挟まれるような位置に収まってしまった。月彦を人波の圧から守るように、ドアに腕をつき必死で自分の腕とドアの間のスペースを確保する。

 ドアが閉まると人々がパーソナルスペースを確保しようと身じろぐので、ようやく少し隙間ができた。

 ほっと息をついて自分の肩口にある月彦の顔を確認すると、頬が赤い。

「大丈夫すか。苦しい?」

「……いや」

 京弥が腕の力だけで耐えているお陰で、月彦の手の中のフラッペもなんとか守られている。

 乗車率がとっくに百パーセントを超えているだろう車内は、一瞬でも腕の力を抜くと月彦を押し潰して、あろうことか京弥の体で圧死させてしまいそうだ。

 月彦自身はドアを背に京弥と向かい合っていて、足元などは京弥の足に挟まれるほど密着している。

 下りなので徐々に人は減っていくだろうから、大きな駅までこの体勢のまま我慢してもらうしかない。

「フラッペ、大丈夫だったすか。押し潰されてたら大惨事すよ」

「フラッペの心配かよ」

「いやあ、さすがに俺、先輩を守るのに精一杯でフラッペまで手が回らないんで」

 電車が揺れる度に京弥の背中には人の体重が乗っかって来て、その圧から月彦を守る為に常に腕立てをしている状態だ。つくづく月彦を独りで帰さなくて良かったと思った。

「……でかくなりやがって……」

「?」

 月彦が呟く声は京弥の耳にも届いたが、追求する余裕もなく電車が揺れた。


  京弥に初めて会ったのは月彦が高校二年生のときだから、京弥はきっとまだ中学生だったのだろう。

 真夏の暑さに、その日の月彦は朝から調子が良くなかった。

いつもの朝の駅で暑さに朦朧とし、電車に乗り込む人いきれに眩暈を覚えていた。ふらふらと乗り込んだ電車の中は全く空調が効いておらず、満員の車内の体臭や体温がじわじわと月彦の不調を悪化させていた。

 そんな日に限って、ドア付近に押さえ付けられた体勢のまま身動きもとれない状態で、下腹に違和感を覚えた。

後ろから回ってきた手が制服のズボンの下肢を無遠慮に這いまわっている。臀部には体を押し付けられて擦りつけられているのを感じる。

(最っ悪……いつもならさっさと警察に突き出してやるのに……)

 月彦は昔からなぜかよく痴漢や変質者にあう。普段なら言動の派手な友人たちが一緒に居てくれたりするし、月彦自身も泣き寝入りするタイプではないので慣れもあってさっさと取り押さえて凄む場面だ。

 しかし、この日はすでに眩暈と吐き気を我慢していた状態で、そこまでの気力と元気はなかった。あと何駅かを我慢して耐えるしかない。

 抵抗しない月彦に気を良くしたのか、痴漢は恥知らずにもどんどんエスカレートしていく。

 そのストレスからも、月彦の体調は限界を迎えようとしていた。

 そこへ、静かな車内に元気な男の子の声が響いた。

「大丈夫ですか? 気分悪いんですか?」

「え?」

 近くに居たスポーツバッグを持った子供たちの集団の中から、一人のよく日に焼けた髪の短い男の子が人波をかき分けて月彦の側へ近付いて来る。

「これ、どうぞ」

 そう言いながら、自分のスポーツバッグから着替えを入れているナイロン制の巾着タイプの袋を取り出す。そこから着替えだけをまたスポーツバッグに戻し、巾着を月彦の顔へと差し出してきた。

 その一連の行動で、周囲の人々も気が付いたのか、「大丈夫?」と声をかけてくれる女性も居た。

 月彦が嘔吐しそうなのだと察した周囲が、わずかに月彦から距離をとる。痴漢も慌てて触るのを止めて去っていった。

 恥ずかしいと思うよりも、助かったとほっと息をつく。

周囲に隙間ができたことで、呼吸も随分楽になった。男の子だけは相変らず、月彦の隣で巾着を差し出している。きっと月彦がそれを受け取るまで引かないだろう。

 受け取ってみると、ちゃんときれいに使われている巾着で使い捨てではないし、とてもじゃないけれど汚してしまうわけにはいかない。

「ありがとな」

 気持ちだけ受け取ろうと、少し無理に笑って見せた。せめて男の子が降りるか、自分が降りる駅まで耐えて、使わずに返そう。そう決めたけれど、男の子は隣でじっと月彦を見続けていた。

 そして、次の停車駅に止まった瞬間、月彦の腕を掴んでまた叫んだ。

「降ります!」

 人波をかきわけて、同じチームだろう友人たちに「俺、遅れるってコーチに言っといて!」と声をかけ、呆気にとられる月彦の腕を引いて降りてしまった。

 ホームの少し陰になった固い椅子の上で、横になった月彦のおでこにひんやりと濡らされたタオルが置かれる。

「大丈夫ですか?」

「……うん、だいぶ良くなった。本当にありがとな。

俺のことはもういいから、君は次の電車で友達を追いかけな」

 そう言ったけれど、男の子は自分の凍ったペットボトルを月彦のタオルの上から当ててくれる。

「熱中症は怖いんですよ」

 明らかに自分より年下の、まだ子供のようなあどけなさの残る男の子の、タオルを当ててくれる指先に、不意に泣きそうになった。

タオルで目元まで覆って、なんとかバレないように顔を隠す。

「……うん、そうだな」

 それから、月彦と男の子は四本の電車を見送った。

 ようやく体調も落ち着いてきた頃、タオルを少し上げると、覗き込むきりりとした黒い瞳と目が合った。歯だけが白く見える顔でにこっと笑う。

「コーチに怒られるだろ? 一緒に、謝るよ」

「大丈夫っす。たぶん友達が説明してくれてるし、さっき親から電話が入ったんで」

 よく考えると自分こそが子供を攫ったとかそんな話になっているのではないだろうか。

そう思ったけれど、男の子は頑として「大丈夫だ」と言って聞かなかった。

 起き上がれるようになって、お礼にアイスでもジュースでも奢ろうと言っても、「そういうのは逆に怒られるんで」と言われてしまっては、なにも返せない。

お礼もしたかったけれど、男の子の名前や連絡先を月彦の方が聞き出すのはまずいだろう。

 とりあえず、自分の名前と学校と連絡先を書いたルーズリーフを、なにか怒られたらここに電話をくれれば自分が説明するからとむりやり押し付けた。

 それからは名も知らない少年にいつかお礼をしたいと駅のホームや電車を見回す日々だったけれど、見かけることはなった。

 翌年の春、眩しいばかりの新しい一年生の中に彼の姿を見つけたのは、校舎の窓からだった。

 そうか中学生だったのか、とか、この学校に入ったのか、とか先輩然として考えたのと同時に、これからは毎日会えるのだと喜んでいる自分が居た。

 廊下で声をかけようとしたら、少年の方は全く覚えていない様子で通り過ぎて行ってしまった。

 そうして初めて、お礼などと言いながら自分の方が彼に会いたかっただけだったのだと思い知った。

 高校生活の最後の一年は、ほとんど彼を目で追っていた気がする。

 初めて名前を知ったとき、友達と大声で笑い合っている姿を見たとき、廊下ですれ違うとき、校庭でボールを追いかける姿を眺めていたとき、探して目で追うのがクセになった。

 付き合いたいなどと大それたことは思いもしなかった。

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