第5話 月の表と見えない裏側
仕事を定時で切り上げ、足早にビルを出ると月彦からの返事を確認した。京弥から会って話したいとメッセージを送っていたが、昼休みの時点では既読も付いていなかった。
アプリを開くと、月彦からの返事が来ていた。
『今夜は大丈夫だ』
はあ、と一気に力が抜ける。正直、返事ももらえず会ってももらえないという最悪な事態も想像していた。
『うち来る?』
続けて書いてあるメッセージには、住所と地図アプリも添付してあった。
低い雲はおそらく目一杯水分を蓄えていて、今にも溢れそうに重たく垂れこめていた。その中を小走りに行くとあっという間に汗が吹き出る。しかし、いらいらと気持ちが逸って、そんなことすら気にしている余裕がない。
マンションのエントランスで月彦からの応答を待つ間に、ようやく深呼吸をして少し冷静さを取り戻した。
「いらっしゃい。
……どうした? それは雨か汗かどっちなんだ」
京弥の姿を見るなり、月彦が柔らかく目を細めて苦笑した。
普通だ。
拍子抜けするほど普通だ。
土下座も辞さない覚悟で来た京弥は、用意していた言葉のどれもがとっさに出て来ずぽかんと玄関に立ち尽くした。
「? ……とりあえず、シャワーでも浴びるか?」
心配そうに小首を傾げながら、月彦が身体を避けて上がれ、と示す。
「あの、先輩、昨日の夜……」
「昨日の夜?」
月彦はさらに怪訝そうな顔になる。
……知らない? 覚えていないのか? 昨夜のことをなにも?
信じられない気持ちになったが、月彦が嘘を言っているようにも見えない。困惑している月彦の顔を見ながら京弥の頭の中にも疑問符がいっぱい浮かんで、二人で顔を見合わせながら首を傾げた。
「あの、とりあえずシャワー、浴びてきたらどうだ……? 汗がすごいぞ?
なんかぜいぜい言ってるし、落ち着いた方がいい」
お言葉に甘えて、京弥はシャワーを借りた。
ぬるめのシャワーは、落ち着いて思考を整理するにも有効だった。
月彦は覚えていないふりをしている?
昨夜の京弥とのセックスを「なかったことにしようとしている」のだろうか。「なかったこと」にして友人関係のままでいたいと思っているのだろうか。
しかし、たとえそうだとしても、忘れたふりで無かったことにされるのは辛い。
京弥にとって昨夜のセックスは頭から離れなくなるほど良かった。正直、京弥は今までセックスにそこまで夢中になったことがない。気持ち良いとは思うけれど、頭の中はいつもどこか冷静で、自分の言動も相手の反応も一歩引いて見ていた。自分はあまりそういった欲がない方なのだと思っていた。
それなのに、昨夜、月彦を抱いたときは、頭は常に沸騰しそうだったし身体は自分のものじゃないみたいに止まらなかった。繋がっているときは快感と満足感で溢れそうになるのに、終わってしまうと途端に寂しくなってまた欲しくなる。何度しても足りなくて、ずっと繋がっていたいと思った。
ふと下を見ると兆し始めていたので、思い出すのをやめた。ぬるいシャワーをさらにぎりぎりまで冷たくして浴びて出る。
「悪い、やっぱり、俺のシャツだと少し小さいな……。大きめのやつ選んだんだけど」
月彦が貸してくれたシャツは、確かに月彦なら余裕を持って着られるオーバーサイズの仕様だが、京弥が着るとジャストサイズ過ぎて肩幅や腕周りがぴちぴちで不格好だった。
「いや、全然いいっす。
こっちこそ、いきなり来て風呂借りて、シャツまで借りて、ご迷惑を」
「ははっ、なんでそんなにしおらしいの。
どうした? なんかあったのか?」
子供をあやすように京弥の顔を覗き込んで微笑む姿は、とても忘れたふりをしてやり過ごそうなんて考えている風には見えない。
なにも言えずに黙って月彦を見つめていると余程落ちこんで見えたらしい。
「あー……、本当になにかあったんなら、俺でよければ話、聞くぞ?
昨日で仕事、ひと段落ついたって言ってたろう?
今日、連絡、来るかなって、……思ってたから。その、連絡、してくれて、嬉しかった」
頬を赤らめながら言う月彦は相変らず可愛くて、昨夜とのギャップから本当に頭が混乱してくる。
月彦の頬に触れると、びくりと肩が揺れた。頬を人差し指でするりと撫で、耳まで指を滑らせると耳朶は親指で優しく擦る。
「んっ……、」
思わず出た声に慌てて口を抑える月彦は、本人が一番驚いた顔をして真っ赤になっていた。
その表情に昨夜の行為を思い出しながら、京弥は黙って今や真っ赤になって熱い耳やその周辺をすりすりと触り続けている。
「な、なに……、なにして、岡野く、ん……?」
「先輩……」
「……え」
「ピアスの穴、開いてるんっすね」
「ピアス……?
ああ、うん、昔から開けてるけど」
昨夜の月彦も、雨のしずくと見紛うような銀のピアスをしていてよく似合っていた。
「先輩……」
「うん……、どうした?」
表情も変えず、半ば無心で月彦の耳を弄んでいる京弥に、月彦は困惑しつつもそのまま触らせてくれている。
「先輩って、いつもあんなことしてるんですか?
……俺じゃなくても、誰でも良いってことですか?」
ああ、嫌な言い方をしてしまった。
自分には月彦を問い詰める権利も、縛る権利もない。それはちゃんと自分で言い聞かせたはずだったのに、あまりにも月彦が普通の態度で、優しい顔で京弥を見るから。自分でも驚くほど嫌な言い方をしてしまった。
月彦が優しい顔で嘘をついているのかと思えば思うほど、苛立ちが口をついて出てしまう。
「実は……、昨日の夜繁華街で、その、男の人と一緒に居る月彦先輩を見て、その後……」
月彦が大きな目をさらに大きく見開く。
「……すみません。
俺にはこんなこと言う権利も先輩を縛る権利もないのに。
先輩がどこで何をしようと、俺のことも、もしかしてたくさんいる遊び相手の一人だったとしても……!」
頭で考えていたことよりももっと奥の方から勝手に言葉が飛び出してくる。自分で自分の言動が制御できない。
月彦が怪訝そうな顔をしながらも話を聞いてくれようとしていることが余計に辛い。自分の幼稚さが際立つようでいたたまれない。真っすぐに京弥を見る目は、ごまかしたり嘘をついている目ではないと思いたい。
「えっと、……ちょっと待って欲しい」
ふと、考え込むように左手を口元に、右手は京弥に向けてストップをするように掌が向けられた。
「昨日は俺、本当に、たぶん家で寝てた……けど」
ひゅ、と喉が閉まる。
嘘をついている?
京弥を目の前にしてそんな意味もない嘘をついてどうなるというのだろう。それに、月彦のことをまだよく知らないとはいえ、こんなにも普通の顔で嘘をつける人ではないと思う。
では、本当に覚えていない?
そんなバカな。月彦も酔っていたのだろうか。いや、それにしても、朝ホテルで目覚めた時点で、京弥が隣に寝ていた時点で何かしら気付くものではないか。
「なんか、いろいろ言いたいことはあるんだけど。
まず、俺は、寝ないともたない体質みたいで電池が切れるように長時間寝て目が覚めないことがあって、昨日もそれだった。
早い時間にはもう寝てて、起きたのは今日の昼過ぎ。
あと、人見知りだからそんなたくさんの人と、その、遊んだり、セフレ……、とかできないタイプだ。
見ててわかると思うけど、人付き合い、下手なんだ」
月彦はそこまで説明すると、俯いて小さく息を吐く。
「……これ、俺の、勘違い、かもしれないんだけど。
岡野くんが、そんな風に考えたのは、俺のことで妬いてくれた……ってこと?」
赤くなる月彦に、今度は京弥の方が驚いた。
確かに、妬いたから思わず声をかけてしまったのだし、月彦を縛りたいのも、その他大勢の中の一人が嫌なのも、月彦に対して独り占めしたいという思いがあったからなんだろう。昨夜抱き合ったときにそんな京弥の気持ちは伝わっていると思っていた。
いや、言葉にもしていないのに、伝わっていると思いこんだのは京弥の思い上がりだ。恥ずかしさに思わずその場でしゃがみ込んでしまう。
「はぁぁぁ……!」
「岡野くん? 大丈夫か?
あ、俺の、その勘違い、だよな。ごめん。岡野くんが、俺のことそんなに気にするわけないよな」
月彦はどうやら、本当に、昨夜のことは記憶にないらしい。
もし、本当に記憶がないのであれば、……月彦はなにかの病気を患っているのかもしれない。そんな病気があるのかどうか、京弥は詳しくはないが、ないとは言い切れないだろう。脳だとか精神的なものだとか、そんな映画やドラマならたくさん見た。
昨夜のことは、しばらく月彦に伝えない方がいいのかもしれない。
「勘違いじゃないです、そうです、俺、嫉妬しました。
俺、ずっと先輩に会いたかったんです。今は再会したばっかりでただ浮かれてるだけかもしれないけど、俺、ちゃんと先輩に向き合いたいと思ってます。
だから、もっと先輩を知りたい」
月彦は覚えていなくても、京弥は昨夜、月彦と抱き合った。嫉妬も独占欲も丸出しで流されたのだとしても、「大事にしたい」という気持ちも本当だ。
「……うん、俺も。
あのとき、返事も聞かずに逃げ帰って、……後悔してた。もっと、頑張っとけば良かった、って、思ってた。
だから、俺も、また会えて、浮かれてる」
昨夜の妖艶さとは違い、高校の続きを話す月彦は澄んだ夜空に柔らかく浮かぶ月のようだと思う。
京弥は、月彦を抱きしめた。
「岡野くん?」
大事にさせて欲しい。そう願いながら、滑らかで完璧な形のおでこに唇を押し当てた。
月彦の部屋はリビングの真ん中に大きなテーブルがあり、その上に大量の絵具や絵筆、今まさに描いている最中であろう用紙が張られた木製の下板が所狭しと置いてあった。床には画集や画法の専門書が積み上げられた山がいくつも築かれ、新聞紙や郵便の封書や契約書らしき紙が一緒くたに隅っこに置かれ、乾かしているらしき絵が所狭しと散乱していた。それ以外にはソファもテレビもなにもない。
「これ、今描いてる絵ですか?」
テーブルの上の絵を見る。手に取るのは汚してしまうのが怖くてできなかった。それぐらい繊細で、優しい絵だった。雨の街でたくさんの傘が行き交う中、二つの鮮やかな傘が寄り添っている。
「ああ、うん、そうだけど……まだ途中だからあんまり見て欲しくない」
恥ずかしそうに絵を裏返してしまった。
「“雨野月彦”の新作が誰より早く見れるの役得っすね」
悪戯っぽく月彦の顔を覗き込むと、今度はばちんと音がするほど勢いよく目元を塞がれ、顔を押しやられた。
「そういうの、本当に止めろ」
物はたくさんあるのにあまりに生活感がない部屋を見渡して、いつもここで一人で絵を描いている月彦を想像する。ストイックで、それなのにどこか自由に思える。何物からも遮断して、自分の心の内だけがどこまでも遠く広がっていく。
昔から、月彦だけが周りから少し浮かび上がって見えたのは、きっと月彦の瞳だけがいつも遠くを見ていたからだろう。
「先輩は、いつもこんな感じで絵を描いてるんっすね」
「……けた……」
「え?」
「……これでも、岡野くんが来る前に片付けた」
「えっ、これで?」
「悪かったな」
別に汚いと思っていたわけではなかったが、京弥が来るとわかって慌てて部屋を片付ける月彦の姿を想像すると愛おしい。
きれいなのはむしろ続きにあるキッチンの方で、リビングとは対照的にそちらは使っている気配がほとんどない。調理器具などはしまってあるにしても、食器類もマグカップ一つ見当たらない。唯一、流しのシンクに見えるのはエナジードリンクの空き缶だろう。
「……先輩、またちゃんと食べてませんね?」
月彦は、その見た目と本人が描く絵の繊細さによらず、かなり大雑把な生活をしているようだった。大雑把というよりも、人間としての生活能力が皆無であるようだった。
「もし良ければ、俺が飯作ってもいいですか」
「え、料理できるのか」
幼馴染の食堂兼居酒屋では、小さい頃から遊びに行っては彼の両親から幼馴染と一緒に料理を叩きこまれた。共働きだった京弥の両親に代わって、自分たちの息子と同じように手伝わせ夕食を食べさせてもらった。お陰様で、両親が居ない夜も独り暮らしをしだしてからも、自分で食事を作って食べることを面倒だと思ったことがない。
「できる、って言えるほどじゃないですよ。
でも、今日突然来てシャワー借りたりしたんで、お礼に簡単なもの作ります」
しかし、意気揚々と開けた冷蔵庫には水とエナジードリンクとブラックコーヒーくらいしか入ってなかった。かろうじて米や炊飯器はあるが使い込んでいるようには見えなかった。いったい今までどうやって生きていたのだろうと心配になる。仕方なく近所のスーパーに買い物に行くことにすると、月彦もついて来ると言った。
「なに食べたいですか?
先輩、和食の方が好きでしたよね?」
出汁の香りが好きで、シンプルで優しい味付けのものを好む。肉も魚も野菜も食べるが、香りの強いパクチーやセロリは苦手。甘いものはほとんど食べない。月彦の好みを思い出したり、新しく聞き出しながら今夜の献立を決めた。
湿度が高いばかりで一向に降り始めない蒸し風呂の中のような不快さに音を上げて、アイスを買って食べながら帰ろうかと言うと、意外にも月彦も目を輝かせた。
「こういうのあんまり食べないんだけど、どれが美味しいんだろう?」
スーパーの中は冷房が良くきいていて、冷凍コーナーは特に冷えすぎる。ざっくりとしたカーディガンの二の腕を擦りながら、冷凍コーナーの前から月彦が動かない。
「甘いもの苦手だったら無理してアイス食べなくていいんですよ?」
苦笑混じりに言うと、真剣な顔の月彦が振り返る。
「なに言ってるんだ、隣で美味しそうに食べられたら俺も食べたいだろう。
暑くなったから誰かとアイスを食べる。それも、蒸し暑い夜の帰り道っていうのがいいな。
ちゃんと季節を満喫している感じがして好きだ。ちなみに、冬は肉まんだ」
「なるほど?」
カートに体重を預けながら月彦の真剣な横顔を眺めている京弥は、待ちくたびれる気配も飽きる気配もない。むしろ何時間でも眺めていたくなって困る。
甘いものはあまり食べないと言っていたが、この夏はかき氷専門店なんてどうだろう、と考える。かき氷ならそれほど甘くない味もあるし、専門店なら選ぶ楽しみもあるだろう。
酒は独りでは飲まないと言っていたが、一緒に飲みに行くことはできるのだろうか。駅前にオープンテラスのバルがあるし、ビアガーデンもオープンの時期だ。
季節を満喫したいなら、どこへでも連れて行ってあげるのに。月彦と一緒に行くことを想像するだけでわくわくしてすぐに来るだろう夏が楽しみになる。
「これならレモンやグレープフルーツの味もあるからあんまり甘くないですよ」
「ん、じゃあそれにする」
二人で並んでアイスを食べながら帰ると、蒸し暑さも気にならなかった。かき氷の店に行く提案には、月彦も乗り気だった。かき氷の絵を描こうと思っていたらしく、写真を撮りたいらしい。
今夜の献立は、炊き込みご飯と味噌汁とささみの梅しそ挟み焼きになった。月彦の部屋にあった調理器具は包丁とまな板とフライパンと小鍋が一つずつだったが、二人分を作る程度には申し分ない。しかし、やはり一つ大きな鍋が欲しい。大きな鍋でカレーなどを作って冷凍しておけば、月彦一人でも解凍して食べられる。今度、買って持ってきたら迷惑だろうか。
夕食は一緒に食べて帰ればいいと月彦に言われていたので、カウンターに並んで食べた。椅子が二脚もなかったので、月彦は寝室のクロークから持ってきたアルミ製のトランクに腰かけて食べた。
「これ、美味いな」
「お口に合いました? もう少し残ってるんで冷蔵庫に入れときます。また明日食べてください」
「ん、ありがとう」
「この部屋、本当に必要最低限の物しかないですよね」
「アトリエとしか思ってなかったから」
「えっ、暮らしてるんっすよね!?」
「絵が描ければいいかなって」
少し考えて、思い切って言ってみた。
「俺、また来てもいいっすか」
月彦はこちらに顔を向けず、夢中で食べているついでのように頷いていたが、赤い耳が長めの髪からのぞいている。
「仕事の邪魔はしないので。
あと、鍋持ってきていいっすか」
「ん?」
「カレーとかたくさん作って冷凍しとけるんで」
「……飯作りに来るのか」
しばらく意味を考えて、ああ、と思う。食べている手を止めて上半身から向き直り、月彦の顔を覗き込む。
「もちろん、口実です。料理って結構時間かかるし、長く一緒に居られますよ」
ごくっ、と大きな音がのどから鳴る。かなり大きな塊を飲み込んだようだったので、水を手渡した。その水を飲み干す白いのどに目を奪われる。
「カレーはあまり辛くしないようにしますね」
「……ん、俺も手伝う」
穏やかな愛おしさを噛みしめながら、夕食を終えた。昨夜のことは夢か幻だったのでは、と半ば本気で思い始めていた。
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