第3話 あの日の続き
何度か短いメッセージのやり取りをすると、月彦の方も本当に嫌がっているわけではなさそうだということがわかった。
月彦はどうやら絵を描いている最中は寝食忘れるほど夢中になるらしく、メッセージの返信はすぐには返って来ないし、返事のくる時間帯もめちゃくちゃだった。しかし、そんな中でも、きちんと律義に京弥のメッセージへの返事という形で応えてくれる。どんなに京弥のメッセージの内容が「今日も雨ですね」とか「昼飯はなにを食べましたか?」だとか「食事はなにが好きですか?」だとか、たいして中身のないものだったとしても、夜中や翌日その続きの返事をくれる。
「そうだな。湿度が高いと絵具が滲みやすいから困る」「昼飯……。わすれてた。今日はなにもたべてない」「和食が好きだ。一昨日は米を炊いた」
……先輩、米を炊いただけで和食とは言わないんですよ。
日を追うごとに会いたい気持ちと心配が募るようになった。
意を決して、月彦を食事に誘うメッセージを送ることにした。月彦は、夜は絵の制作があるとかで予定が空けられないらしく、日曜の昼に会えることになった。昼間なので酒の席とはいかないが、昼間から会えるのはデートとしては嬉しい。
当日も、朝から土砂降りの雨だった。先に着いた方が濡れないように駅前のカフェの店内で待ち合わせをして、ギャラリーでの再会以来、初めて顔を合わせる。
昨夜遅くまで絵を描いていたという月彦からは少し遅れると連絡が入った。
雨だからか、店内は思ったより混んでいて騒がしい。月彦からよく見えるように大きな窓際のカウンター席に座り、雨の駅前を眺める。こんな天気でも関係なく人は多く、色とりどりの傘が目の前を行ったり来たりしている。
先ほどから、気を抜くと足を揺すったり、指先を忙しなくカウンターに滑らせたりしてしまう。普段から癖や行儀作法などは悪い方ではないのだが、今日はじっとしていられない。スマホの画面も目が滑るばかりでちっとも頭に入って来ない。
雨の中の人波に、あの浮かび上がるような雰囲気の人を探す。落ち着こうと手を顔の前で合わせ何度目かの深呼吸をしたときだった。雨で滲む赤信号の横断歩道の向こう側に、腕時計を気にしている月彦の姿を見つけた。滲んでぼやける街の風景の中で、そこだけが浮かび上がるようにはっきりと輪郭を持って存在していた。
月彦は顔を上げて横断歩道を渡る途中で京弥に気付いた。ひらりと手を振ると、月彦も照れたように躊躇いがちに小さく手を振ってくれた。
ふと、懐かしい気持ちがして、ああそうか、まるであの頃のようだと思う。いつも、こうして窓越しに眺めて、見つけていたと思い出す。今は、手を振れば手を振り返してくれる。始まることさえなかった関係を、もう一度始めることができる。そのことに胸の中で感謝した。
白いサマーニットの肩をわずかに濡らして、月彦が京弥の席の脇まで来た。
「遅くなってごめん」
「いいんすよ、連絡はもらってたし急ぐわけでもないし」
仕草だけで隣の席を勧めると、月彦が浅く腰かけた。外気の湿った雨の匂いに月彦の匂いが混じっている。
「先輩着いたばっかりだけど、混んでますし、ここはもう出て昼飯食いながらゆっくりしましょうか。それとも一息つきます?」
時間は正午にはまだ届かないが、休日だしきっと昼食を食べる場所もどこも混雑していることだろう。月彦を連れて行こうと思っている店は、本来予約などするような店ではなかったけれど、念のため席をとっておいてもらうよう頼んだから焦る必要はない。
「あ、俺はどっちでも大丈夫、だけど。……予約とか、してくれたのか」
月彦は俯き加減で先ほどから京弥の方を見ようとはしないが、その表情は心なしか嬉しそうで耳も少し赤い。自惚れかもしれないと思いつつも、喜んでもらえていると思うとこちらも嬉しくなる。
雨の中を並んで傘を差す。傘の分だけ距離ができるし、傘を叩く雨音もするので自然と声が大きくなっている。
月彦は物静かなタイプで、そんな月彦の隣だと自分も知らず知らず合わせた声量で話していたことに気付く。なるべく近くで、月彦にだけ聞こえるほどの声と言葉を、意識せず使っている。
カフェを出て少し裏通りに入るとおしゃれな店は少なくなり、夜には赤ちょうちんのぶら下がるような、昔ながらの小さな飲食店が軒を連ねるようになる。寂びれているわけでもなく表の大通りほどではないが人は途切れず、隠れ家のような立ち飲みワインの店や昼も営業している焼き鳥屋もあったりで若者の姿もそこそこある。その中の一軒の引き戸をからりと開けた。
「いらっしゃい」
張りのある大きな声で迎えられると、月彦を店内に迎え入れてからまた自分で引き戸を閉めた。敷地面積は表から見ていたよりも広く奥に細長い。そこに所狭しと客が各々食事を楽しんでいた。席をとっておいてもらって良かったとほっとする。
「おう、一番奥の席な」
「さんきゅ」
小さな店内の狭いカウンターの中から声の主の男性が顎で示したのは、ぎりぎり四人が座れるかどうかの小さなテーブル席だ。
店内は入口から奥へとわずかに人一人が通れるだけの幅を残して、右がカウンター、左にテーブル席が三つある。奥は一応四人掛けの木製の長椅子だが、手前二つは椅子が二脚ずつのさらに小さな席だ。
カウンターが一番席数が多く、独りで食事をしに入りやすい雰囲気だ。今日も、カウンター席は休日出勤らしきサラリーマンや夫婦らしきカップルでいっぱいになっている。テーブル席には昼間からビール瓶を傾ける常連が定位置に座っている。
壁にはずらりと手書きのメニューが短冊の紙で並べて張ってあり、カウンターの上には大皿に山盛りの一品料理が次々と出来上がっていた。
「ここ、友人がやってる店なんです。平日は定食もやってるんですけど、土日祝は夜のための一品料理のみで。
でも、めちゃくちゃ美味いし、腹いっぱい食べても安いし、気が置けないから楽なんです」
食生活に一抹の不安がある月彦には、様々な食材で栄養をとって欲しかったし、なにより美味いものを食べて欲しかった。
京弥は席を立ってすぐのカウンターから、渡された水とおしぼりを受け取る。休日の昼間はカウンターの中に居る店主が独りで切り盛りするので、料理などはある程度自分で取りに行くスタイルだ。
「なにか食べたいものあります?」
月彦はカウンターに山盛りにされた湯気の立つ皿や、カウンターの奥から香って来るダシの匂いや、ぐるりと囲む壁のメニューを順に眺めている。
「嫌いなものとかなければ俺、適当に注文してきますよ」
「うん、頼む。……岡野くんがいつも食べてるものとか、おすすめとか」
京弥がいつも食べているもの。京弥の好きなもの。それを月彦にも食べてもらいたい。
カウンターまで行って、内側で忙しく動き回る友人に声をかける。
「まず、いつものおまかせ串ネギ塩ダレと、卵焼き。それから、米二つくれ。
ポテトサラダ持って行っていい? 今日のこれなに?」
「こっちは手羽と卵の甘辛煮、そんでこっちがブリ大根、春雨サラダ、そっちのが筑前煮。ポテトサラダはその大皿から自分で好きなだけ持っていきな。
それよりさ……」
「美味そうだな」
「そりゃ美味いよ。それより!」
「なんだよ」
カウンターの中から友人も身を乗り出して小声になる。
「お前、友達と一緒に来るくらいで予約なんてしたことねーだろうが。誰だよ、あの美人」
さすがに長年幼馴染をしている友人だけあって、良からぬ勘ばかり働かせる。しかし、実は友人に話したいような、内緒にしておきたいような、そんな気持ちも心のどこかにあったからこの店に連れてきたのかもしれない。少し考えてから、京弥も身を乗り出し小声になる。
「高校のときの、先輩。
……あー、またさ、夜来たとき話すわ」
京弥は置いてある取り皿にポテトサラダと甘辛煮を取り分けて、二つのグラスに水を注いで盆に乗せて席に戻った。
月彦は所在なげにスマホを見ていたけれど、指を動かすばかりで記事に気を取られているわけではなさそうだった。
「仲良いんだな」
顔を上げて、困ったように笑う。
「幼馴染なんすけど、あいつの嫁さんが今臨月で、店を手伝いに来てないんですよ。平日の昼間や夜はさすがにバイト入れてるんですけどね。忙しそうだから、料理ちょっと遅いかもしれないです。
あいつの両親がやってた頃からここに通ってて。俺も料理教えてもらったりしてました」
嫁さん、と呟いて、月彦は頬杖をつくように手で顔を覆った。
「料理、ありがとう」
「どうぞ、食べてみてください。
先輩、いつもおしゃれなお店とか行ってそうだからどこ行くか迷ったんすけど、やっぱり俺が一番美味いと思ってる店に連れてきたくて」
「……。うん、ありがとう」
京弥は甘辛煮の手羽にかぶりついて「美味い」と目を丸くする月彦を可愛いと思いながら眺めて、自分が食べるよりもあれもこれもと勧めてしまった。
月彦は細身ながらしっかり食べ、どれもこれもに「美味い」と感激してくれたので、それを眺めているだけで満足していた京弥は、何度も月彦に箸が止まっていることを言われながら食事を終えた。
店を出てもまだ雨は降り続いていて、軒先をうるさいくらいに叩いている。きっと普段ならうんざりしていた頃だろうが、今日はなぜか気にならない。
雨音に邪魔されないように、傘を開く前に少し月彦の方へ屈んで顔を近付けた。
「映画の時間まではまだ余裕があるのでゆっくり行きましょう。急ぐと泥が跳ねるんで」
少し近付き過ぎてしまったからか、月彦は驚いたように身体を引いてしまった。小さな軒先からはみ出るとあっという間にびしょ濡れになってしまうから、慌てて月彦の腕を掴んで近くに引き寄せる。そうすると、勢いが付き過ぎて、今度は思いがけず近くへ引き寄せてしまい、息がかかる程密着してしまった。「あ……! っ、悪い、ちょっと、びっくりした」
「あ、俺こそすいません、力強すぎた」
二人でぎこちなく距離をとり、傘を差して並んで歩き出した。ちらりと横を見ると、完全に傘で顔を隠してしまっている。距離を詰めるのは難しい。
月彦が京弥のことをどう考えているのかも、まだ踏み込んで聞けてはいない。もしかすると、月彦にはもうパートナーが居るかもしれないのだ。パートナーが居れば、こうして自分と休日に二人で出かけたりはしないとは思う。思ってはいるが、実は京弥のことはただの後輩だとか友人だとかしか考えていない可能性もある。それならパートナーが居ても遊びにくらい来るだろう。それとなくアピールしているつもりではあるけれど、京弥の方も未だ高校生の憧れの続きのような曖昧な気持ちのままだから押しきれないでいる。
今はただ、こうして月彦の姿を近くで見られること、話が出来ること、隣を歩けること、全てに浮足立っている自分に驚くばかりだ。
予想通り、映画館も混雑していた。天気や時期もあるけれど、夏の目玉映画が封切りして間もない日曜でもあるからだろう。
映画のチョイスは二人で相談して決めたけれど、シリーズもののパニックアクションで、無難な内容に落ち着いた。
「先輩って、普段映画とか見るんすか?」
ロビーのベンチにはすでに人がいっぱいで、あたたかいコーヒーを買ったら隅で二人で立って待つことにした。
熱いコーヒーを少しずつ啜りながら、月彦に向き合う。月彦は熱いものが苦手なのか、コーヒーの蓋を外し、こっそり息を吹いて冷ましている。そういうところも可愛いなと思ってしまう。
「見るよ。でも、映画館は久しぶりだ」
「わかる。家で配信見たりして満足してしまうんすよね。
絵を描きながら流し見したりするんっすか」
「絵を描いてるときはそんなことできない。映画ばっかり見て手が止まっちゃうだろ」
「意外と不器用なんっすね。
どんなジャンル見るんですか」
「……ん、なんでも見るけど、サスペンスとか多いかもしれない」
「へぇ、それは手止まっちゃいますね。見逃したら終わりじゃないすか。
俺も、結構考える系の映画好きっすよ」
「考える系。
確かに、見ながら考えるの好きなのかも。
サイコものも好きだし、ホラーも好きだな」
「へぇ! 俺、そういうジャンルあんまり見て来なかったんで、今度おもしろいの教えてください」
「ああ、いいよ。その代わり、岡野くんのおすすめも教えて。情報交換な」
「いいっすよ。俺、どマイナーなの持っていきますから」
「ははっ、ちゃんと好きな映画にしろよ」
笑った顔も意外と不器用なところもあの頃は知り得なかった。こんなに近くで見られるなんて思いもしなかった。可愛い。見た目に寄らずサイコサスペンス好きなところも可愛いと思う。
月彦の視界を自分で覆ってしまうくらい近くでわずかに首を傾げて見せる。
「一緒に見ます?」
できれば、またこうして二人でゆっくりと会いたい。映画館もいいけれど、こうして何気ない会話をしながら見れたらいい。
「……うん」
間もなく上映開始のアナウンスが館内への案内を始める。
薄暗い中で、スクリーンからの強烈な光を浴びる月彦の横顔は、相変らず完璧な造作だった。
夜には予定があるという月彦を駅まで送る。「こんな早い時間に解散でごめん」
本音では夕食も一緒に食べたかったし、もう少し遅い時間まで一緒に居るのも大人の醍醐味だとは思うのだが、絵の制作は夜の方がはかどるらしい。月彦もしょんぼりしているようで、同じように名残惜しいと思ってくれているのかと思うと嬉しい。
「気にしないでください。
それに……、」
今日一日ずっと感じていた不思議な感覚を、どうにか言葉にしてみる。
「高校生、みたいじゃないっすか」
「え」
「なんか、あの頃の続きをしてるみたいだな、……て」
しかし、いざ言葉にしてみるとだいぶ恥ずかしい。顔中どころか首まで熱くなって、ようやく自分が相当に浮かれていることに気が付いた。月彦だってさすがに引いているだろうと見てみれば、京弥と同じくらいかそれ以上に真っ赤になって肩を震わせている。
「……今、“こいつ意外とロマンチストだな”とか思ってるでしょー……」
「ふっ、はは、……あたり」
「言った自分が一番恥ずかしいんで、どうせだったら照れずにちゃんと笑ってくれます?」
それでも京弥に悪いと思うのか、笑いを堪えようとして堪えきれずにしばらく俯いて肩を震わせていた。
「はぁ、ああ、久しぶりに変な汗かいた」
「すいませんね」
「……悪い、本当に。バカにしてるわけじゃなくて。
なんか、……嬉しくて。
……好きになったのが、岡野くんで、良かった、って思った。
今だけじゃなくて、今日一日、ずっとそう思ってた」
この上ない誉め言葉だ 子供だった頃の恋の告白はもちろん嬉しくてどきどきするものだったけれど、大人になった今の自分を見て改めてそういった言葉をもらえると、大切な人をちゃんと大切にできる大人になれた気がする。
傘の柄を弄んでいる片方の手の指先をそっととって、短い爪の先を優しく握る。引っ込められるかと思ったけれど、そのまま握られてくれている。
「……俺は、この続きを見てみたいって思うけど、先輩も同じだったら嬉しいっす」
「……うん」
月彦は涼し気な伏し目の周りを赤らめて頷いた。
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