第6話

 俺は部屋の外に飛び出した。

いつもは歩いてノロノロと進んでいる渡り廊下の絨毯の上を、

この時だけは全速力で疾走した。


 120号室からエレベーターまでずっと走ってー

 

 エレベーターのある場所に着いた時、俺はすぐに下へと向かうべく

↓向きの矢印ボタンを一回押す。そしてエレベーターの扉の上には、

現在進行形でエレベーターのあるフロアが表示されるのだが、


 ここ10階までで一番距離の近いエレベーターは現在6階

いや、少し時間が経って7階に変わったーーしかし、8階にたどり着いた時、

そのエレベーターはそこで数秒停止した後下降を始めた。


 他のエレベーターにも目をやったが、どれも人を乗せているのか

上がったり下がったりで、10階に止まる挙動の気配すら見せない。


 だからもう、エレベーターを待つのはやめた。

階段を全速力で降りていけば、何とかエレベーターの下降スピードに

匹敵するかもしれないと思ったからーー


 それもあるけど、とにかくがむしゃらに身体を動かしてないと、

このはやる気持ちを抑えきれずにどうにかなりそうだった。


 だから多分エレベーターに乗っても、

俺はずっとその場で足踏みしていただろう。


 それだけ、今の俺の脳内はカオスっていて、焦燥感に満ち溢れ、

呼吸の乱れと定期的に足元を揺るがすような眩暈が止まらなかった。


 冷や汗がダバダバ溢れ、症状としては小学生の時に一度なった

貧血の時の感覚に近いかもしれないーー


 そんな最悪のコンディションで、俺は階段を下り始めた。



 マンションの地上から10階まである階段を全て消化し終えたものの、

上りではなかった分、まだまだ体力的には余力があった。

こんな俺でも中学の時はサッカー部でポジションはMF

司令塔なだけあって運動量がやたらと多く当時はかなり走り回ったから、

あれから3年経った今でも、俺は並の人よりスタミナの量には自信がある。


 それに、俺は今でも自宅で軽い運動はしているから、

衰え知らずとまではいかないが、肉体的な成長も相まって、

以前とほとんど変わらない持久力を有している事に感激しつつーー


 とにかく受付にいるNPCとか、エントランスの水槽の中を泳ぐ

”カクレクマノミ”とか”イソギンチャク”には目もくれずに、

自動ドアの開くまでのあのほんの一瞬の時間でさえもイライラしていた。


 そして、ドアの扉が開いた時、、


 受付の先にあるドーナツ状にくり抜かれた、自家用車で送り迎えをする道路、

2本の大理石の柱で支えられ、6mくらいは確保された雨よけのスペース


 そんな、ホテルの様なマンションを抜け出た先は

先程の天気予報の通り、にわか雨による激しい豪雨。そして

ゴロゴロと不気味な音を立てながら雷霆が轟いていた。


 だから手ぶらでくるという判断は正解だった。

でも同時に、ハンカチを一枚も入れてこなかった事を激しく後悔した。

ズボンのポケットの開いたスペースには現在、

例の星の砂のガラス瓶しか入ってないからーー


 

 俺はこのガラス瓶を、彼女に返さないといけない。


 もう白状しよう。

自分は彼女に濡れ衣を着せてしまった。

あの時、自分の勉強机の上を見た時、俺は目を疑ったーーとそう言った。


 なぜなら、そこには彼女が盗んだはずのガラス瓶と酷似した、正真正銘

紛れもない母の”肩身”がもう一つ置かれていたからだ。


 見た目が全く同じーーつまり彼女は盗んだのではなくて、これを元から

持っていたのだとしたら、初めから何も盗んでいない..。


 今考えてみれば、おかしい点は沢山あった。

第一強盗ならば侵入経路は恐らく玄関扉か屋外の窓をわっての二択だが、

高層ビルにおいて後者は不可能ーーかといって、前者かと言われればどうにも

辻褄が合わない点が多すぎる。


 つまり、彼女は本当に俺の部屋の中に転移したのかもしれない..。

そんな非科学的な話を、もう認めざるを得なくなっていた。

そしてもう一つ分かっているのが、彼女には部屋に来る経緯、

また自分の個人情報の一切に至るまで、全ての記憶を失っているーー


 だとしたら俺がやった行為は、認知症患者のお爺さんに対して、

もう二度と施設には戻るなと言い放ったも当然。


 これで数週間も経ち彼女が鉄橋の下で餓死して干涸びていたなんて

ニュースにもなっていようものなら、俺は一生今日という日を後悔

して生きる羽目になる。そんなの嫌だーー


 こんな土砂降りの中、裸足でセーラー服を着た彼女が、

途轍も無い孤独感と悲壮感に包まれ涙を浮かべるーー

そんな気味の悪い光景が、目の前にマジマジと浮かび上がってくるようだった。


 

 俺はひたすら走り続けた。

彼女がどこに行ったのか、彼女を見つけるために走った。


 ♢♢ ーー??ーー視点



 暑いーー苦しいーー痛いーー


 そんな感覚が少しずつ途切れ、意識も朦朧としてくる私は、

閉塞的な暗所に閉じ込められ、もうどのくらい経っただろう..?


 この暗闇は、眼を開けているはずなのに果てしなく

続いていて、時間の流れる感覚、自己という存在の定義ーー

その全てを曖昧にさせ、私はもう、自分の名前さえも思い出せなくなっていた。


 ただひたすらに漠然と流れる時間、その時空を奔流するように、

一秒一秒が蓄積され、深みにハマっていって抜け出せない。

踠いても、手足の感覚がないーー


 そしてさっきから異常に喉が渇くーーなのに、動く事が出来ない。

芋虫のように這う事すら叶わず、

自分が今仰向けなのか、はたまたうつ伏せなのかも分からないーー

上下感覚はとっくに麻痺したが、かろうじて呼吸は出来る。


 ふぅっと息を吸うと、その度に冷たい風が、私の鼻腔を刺激し

無感覚の全身を癒すような心地が得られる。


 

 ♢♢ ーー??ーー視点


 一体、どのくらい歩いただろう?


 歩いて、疲れて、

私は大きな平野の椅子の一角で、一人眠ってしまっていた。


 そしてまた嫌な夢を見た。さっき、誰かの家の布団の中に

入っていた時に見たのと、全く同じ夢だった。


 その夢の中では、私は永遠に暗闇の中に閉ざされ、

抜け出す事が出来ない。なんで私は、そんな夢を見るのだろう..。


 辺りを見回す


 ついさっき、私の上に雨粒が2,3滴ぽつりぽつりと落下した

かと思えば、数分もたたないうちに、それらは大雨へと変化した。


 私の着ているこのセーラー服。

唯一私という人間を知る事が出来るかもしれないこの手掛かりは、

雨に濡らされ徐々にその布地の色を濃くしていき、

生温かい雨粒はただ座っているだけの私に容赦無くうちつけた。

そんなぬるい水が私の顔を通過するたびに思う。


 この水は雨なのか、それとも私の涙なのか..。

涙だとしたら、どうして私は泣いているのだろう..。

私は私という人間が何者かわからないのに、この胸を締め付ける

ような痛みは何だろう? 気付いたら記憶のほぼ全てを失っていた私ーー


 過去に自分が記憶した事は何も思い返せないーー

まるで、自分の体験した記憶が舞台だとするなら、そこにずっと

緞帳が下ろされているような感覚。


 私はたった一人で、緞帳の下げられた舞台の観客席に座っていて、

いつまで経っても上演の始まらない劇を、もう何時間も待っている。

いや、待たざるを得ないのだ。開始時刻の予告はない。

かといって抜け出そうにも入り口と出口は存在しないから、

会場の外で軽いお手洗いにいったり、誰かと軽食を摂る事も出来ない。


 そんな舞台が、ついに上演されたらしいーー


 現在進行形でーーつまり劇のタイトルは、

『○年前の私』とか『一日前の私』ではなく


 『今の私』


 劇の主演は普通の女性で、見ているたった一人の観客は私。

とにかく、劇中の役者は舞台装置の見知らぬベンチに座っているだけで、

本来あるはずのナレーション、台詞の一切は存在しない。


 ざぁー


 音響は雨の音、ゴロゴロとたまに鳴り響く雷の音

これらが合わさり舞台上に緊迫感、

そして悲壮感の両方をもたらしている。

ははーーおかしな劇だ全く..。ストーリーの構成はめちゃくちゃで、

動作もない座るだけの女性がただ一人映し出されているだけーー


 そしてその名も無い役者は、泣いていたーー


 雨に打たれながら、大粒の涙を瞳から溢している。

だから当然、涙袋と目の周りは赤く腫れぼったくなっている。

それに、よく見るとこの子は靴も履いていないではないかーー


 何分も凹凸のある地面を走り続けて来たから、

爪は鬱血して紫色に変色し、足裏は所々が擦り傷になっている。

しかし、舞台の彼女にとってそんな事は極めてどうでも良いようだった。


 すると、ここで劇の演目が切り替わったーー

今度のタイトルは『26分前の私』

これは過去回想のようだった。空白の記憶が始まってから

作られた新しい思い出ーー


 しかし、その劇は『今の私』と比べるとある程度の動きがある分

退屈はしなかったが、内容は酷く稚拙で、作品内に出てくる

”男役”があまりにも最低な演技をするものだからすぐに見飽きた。


 いや違うーー私はこの”男役”に、生理的な嫌悪感を感じている。

特に、この劇終盤ーー舞台上の女の子は男役に強引にベッドの上に押し倒され、

スカートのポケットの中を弄られる。そうして、彼がその子から取り出したのは、その子が本来所持していたガラスの小瓶ーー


 しかし、、その子には記憶がない。

だから、自分のポケットにそれが”元から”入っていた事実を知らぬまま

しどろもどろになっているうちに、男役はその子を窃盗の犯人に仕立て上げた。


 男役は、その子のガラス瓶が自分の物だという事を主張し

それを奪い取っただけでは無い。その子の言い分には全く聞く耳を持たず、

感情的に振る舞い、意味も分からず事態に困惑するその子を追い出したーー


 

 それなのに、舞台上のその子は終始泣きじゃくったままで、

あのような仕打ちをする男役に対して、『ごめん』などといった謝罪

までも残す始末ーーお人好しも甚だしく、見るに堪えない。


 でも、、でも何でだろう..。


 そんな劇を全て見終わってから、何故か私の瞳には涙の膜が

張っていた。


 どうして私は、舞台上の哀れな女の子に、ただひたすら愚かで

お人好しな女の子に、こうも感情移入が出来るのだろう..??


 気付いた時には、私は立ち上がり舞台の方に向かって大きな

拍手をしていた。まだ忘れている事があったからーー


 演劇が終わった後のカーテンコールだーー


「今日はお忙しい中、お越し頂きまして誠にありがとうございます!」


 観客は私しかいないのに、、再び上げられた緞帳から出てきた

例の女の子は、社交辞令的な挨拶をした後に、こほんと咳払いを挟み言う。


「えぇっとですねぇーー今日私が演じた役は、実在するある人物が

元になっておりまして、ストーリーも全てノンフィクションなんです!」


 なるほど、と私は得心した。全て実話ーー

だから安いホームドラマを見せられているような感覚に、、


「この劇自体、、まだ、、公開初日ですし、私自身まだ全然役者としては

技術面でも拙いとこが多いから、お客さんが少ないのは、仕方ないよね..」


 当たり前だ。こんなつまらない劇ーー

私のように強制的に見ざるをえない状況に持ち込まない限りは、

わざわざ金を払ってまで来る人間は絶対に現れない。


 完全無料、○○劇場の演劇全部見放題!!ーーなどと銘打ち、

広告を町中にばら撒いたとしてもまだ怪しいだろう。


「でも..。私、、もっともっと上手くなります!! 上手くなって、、

それでいつか、この劇場内の観客席を全部埋め尽くしたい!」


 ほぉう、、それは随分な高望みだ。

第一この劇場の広さは底が知れない。どこまでも続いているようで、

私に与えられた一席しか無いようにも感じられるーー


 だが少なくとも今の段階において言えるのは、私はこのチープな劇の

一部始終を、最前列中央席という絶好の位置で見ていたという事だ。


「ねぇ..」


「何ですか..?」


 すると役者は、劇中で見せたような下手な泣き顔を見せ、私に話しかけてきた。



「私、、怖いんだよーーこのまま、誰一人としてお客さんが来ないと考えると、

不安で嫌な事いっぱい浮かび上がってきちゃう..」

「別に一人でも良いじゃん、、だって、貴方には記憶がないのでしょう?

そんな人間が、どうやって他の誰かと接していくーーー」


 ”一人で良いじゃん”と、そう言った直後、目の前の緞帳は再度下ろされ、

舞台は暗転した。


「え..」


 そうして、私はまた真っ暗闇の中に一人ぼっちになったのだ。


「....」


 そっかーーー


「もう、、分かったでしょ..??」


 どこからともなく声が聞こえる。


「分かった」と、私は答える。


「あの舞台の、貴方が演じていた役は私だったんだねーー」

「そうよ、、」


「何よあれ..。下手くそじゃない..」



 でも、あれが過去の私で、あれを演じていたのは自分ーー


 そして、下手な演技しか出来ない私は結局、

舞台上でただ一人演じ続けるしかない。それも永遠にーー


「怖いよ..」 


 そう考えただけで、漠然とした恐怖が込み上げて、

喉まででかかった泣き声をついに抑えられなくなった私ーー


 横隔膜はひっきりなしに痙攣し、鼻からも

粘性の低い液体が出てくるのが止まらなくなった。


「怖いよ..。誰か、、助けてよぉ、、、」


 するとその直後、私の身に不可解な変化が起きた。


「あれ..」


 というのは、私の身体に雨粒が打ちつける事がなくなったから。

 

 俯いている私の頭上では、パラパラと水滴がばら撒かれている音が

するのに一体どうしてーー??


 

 暗闇に包まれた劇場、下げられた緞帳に、たった一人で観客席に座る私。



 そう、今までは私だけのはずだった。でも今は違う、、

そいつはーー最前列の私の席の隣に遠慮なしに腰を据え、足を組んで

一端の評論家を気取った風に、舞台の方へ目をやっていた。


 その、彼の姿に私は見覚えがあるーー


 そうだ..。今私の目の前にいるこの人が、男役、その人なんだーー


 

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