第5話

 思い返してみればマンションの入り口に差し掛かった辺りから、

空には発達した積乱雲がありった。


 午後のニュースのキャスターが

5分程度の尺の天気予報をする際にーー


 本日は午後1時から2時にかけて、

東京23区内にて巨大な雨雲が発達し、局地的に天気の急変、

及び雷雨をもたらすとの情報が発布された。


 室内にいるし外出の予定もないから関係ない。

現在時刻は12時45分ーー


 夏期講習のせいで大幅に遅れてしまった食事時間を

取り戻すべく、俺は作り置きしておいた鶏のささみと胡瓜和え、

枝豆と鶏そぼろご飯を胃腸に流し込む。


 何とか1時になる前に全ての飯を平らげたーー

その後はすぐに自分の部屋に戻って、

読みかけていた小説のページを開いた。


 有名作家の最新作でまだ冒頭の数ページしか読んでいない。

そんな紙の本のページを一枚一枚捲る。

ほとんど頭を使わないで、字面だけを追いたい気分だった。


 ズキーー


 しかし頬に痺れるような痛みが走る度中断されていた思考は

再び再開され、考えたくもないような事が沢山頭を過ぎるーー


 藤森ではない。さっきの不法侵入者の女の子についてだ。


 俺は、

彼女が盗んで行こうとしたガラスの小瓶をポケットから取り出した。

その小瓶の中に入っているのは一見するとただの砂に見えるが、

よく見ると星のような形をしているのが特徴的ーー


 ”星の砂”というレアな代物で、

俺にとって人生で一番の宝物だ。


 俺が6歳の時に乳がんで亡くなってしまった本当の母親ー

そんな母がまだ生きていた時に連れて行ってもらった国内、

沖縄日帰り旅行で、少し寂れたお土産物屋さんで買ってもらった、

俺の物覚えのつく範囲内であれば最初で最後のプレゼントーー


 何故、最後なのか?


 沖縄旅行の半年後に、母は死んだからだ。

俺を旅行に連れて行った時は、もう癌があちこちに転移していたらしい。

どれだけの激痛だっただろうに、母はそんな態度を微塵も出さなかった。


 そんな気丈で、優しかった俺の母親がくれた大切なもの。

それを盗られたと気付いた時、怒りで平静を失った俺は

彼女を思い切り突き飛ばしただけじゃない..。

その前に酷い事もたくさん言った。


 向こうに非があると分かってはいるが、

こっちに落ち度がないというわけでもない。

対話を自ら放棄し、悪感情のままに彼女を追い出したのは紛れもない自分だーー


 そんな罪悪感を胸に抱えたまま、手にしていた星の砂を、

元の勉強机に戻そうとした時だった。俺は一瞬自分の目を疑った。

見間違いという可能性も視野にいれ何度も目を擦る。


 しかし、いくら擦ってもそれは見間違えでも何でもなかった。

だとするなら、俺が今手にしているのは一体..。


 ピンポーン


 玄関からインターホンの音がしたのは、ちょうどその時だった。

もしかすると、彼女が戻ってきたのかもーーなどと疑心暗鬼になりつつ

扉のガラス穴から外を覗く。するとそこにいたのは、


「すみません。急に失礼しますね..」


 白髪の見え始めた頭を抱えながら丁寧にお辞儀をする、

”NPCさん”だった。


「はい。何の要件ですか..?」

「えぇ..。実はですね、先程見慣れない方がマンションの受付に来ましてね。

私を見るなりこう言ったんですよーー『120号室』に住んでいる若い男の人

に”ごめんなさい”と一言伝えてくれって..」


 例の彼女だーーと、すぐに思い至った。


「それにしても、あんなに奇妙な方は初めて見ましたよ..」

「え..? というのは..」


「はい、、私も長い事管理人生活を続けておりますんで、マンションに住んでる人とは

皆顔見知り、毎日挨拶を交えるだけでも、自然と特徴を覚えていくもんなんですわーー

だからね、あの子がここの住人じゃない事は一眼見ただけで分かりましたよ。だからこそ

不思議なんですわーー何故って? あんな別嬪さん一度見たら忘れない。だのに

受付を通ってマンションに入ってきた所を、私は見ていないんです。まぁ、私だって

持ち場は離れますし、代理の人を雇う時もありますけどね。今日に限っては一度も

あの子を見ていないんですわ。ですから矢場さん、あの子とどういったご関係で....?」

「関係..。まぁ、、かなり複雑なーー」


「うーんなるほど。矢場さんは年頃だし、

親に内緒で女性と交際するなんて珍しい話じゃない」


 NPCはかなりズレた解釈をしたようだ。


「でも、いくら人には言えないような関係だからって、、どうしてあの子は

あんなに泣いていたんです? それに、裸足でいらしましたので..」


「え....」


 泣いていた。裸足の状態だったのは、靴がなかったからーー?

確かに玄関先で靴を脱いだ時、あるのは俺のスニーカーが一足と、

母がたまに履くヒールが一足、長靴が一足


 彼女の靴は、、初めからどこにもなかった。

それにさっきNPCが言った言葉..。


「あの..。彼女を見てないって、、本当..ですか..?」

「え、えぇ。今日は朝から私が受付にいたのですがね。

それらしき人は一人も..」


「見落とした、、とかでは..」

「は、はい..。私は常日頃から、住人ではない方が部屋番号を入力し

インターホンを鳴らす際には表に出るようにしておりますんで、

あの子を見ていないと、そう断言出来るとまでいかはなくともーー

昨日でしたら別の方が受付だったもんで、まだ可能性としてはありますが」


「そうですかーー」


 つまり彼女の証言は俄かには信じ難いが、

どうにも事実だった可能性は高いーーそれこそ断言は出来ないけど、、


「あのーー」


 するとここで、NPCが嫌な質問をしてきやがった


「ところで〜..。あのお方は120号室にいたはずでは?

どうして貴方が、そんな事を聞く必要があるのです??」


 これには流石に、上手い言い訳がパッとは出てこない。

そうして逡巡した挙句、かろうじて出た言葉はーー






「俺、、DVとかマジで好きなんですよ」



「は..?」



「向こうはマゾなんで、

あくまで互いに利害関係の一致した健全な関係っていうかー..。

なんで基本室内に束縛してて、だから学校に行ってる間に勝手に外に

出歩いてたりしないか確認するために聞いたんですよー..」


 もう、ヤケになっていた。


「それでー今やらせてるのはーー、”裸足で泣きながら町内ダッシュ”っていう

変態のあいつを喜ばすためのプレイの一貫ですから何の問題もありませんねー」

「....そうですか」



「ほどほどにして下さいね..」

「はーい!! 了解でーす!!」


 バタン


 俺はNPCの追求を逃れるために、もうこれ以上は話すまいと

勢いよく部屋の扉を閉めた。


 そして、玄関先に立てかけられている一本のビニール傘を手に取った。

家の鍵とマンションのマスターキーは全部ポケットに突っ込んでーー

スマホとか財布とか、外出時の必需品などは何一つ持たず手ぶらの状態で


 とにかく待ち続けた。NPCがエレベーターで下の階層に行き持ち場に

戻るまでのほんの数分、玄関でずっと腕を組み待ち続けた。



 そろそろかーーー


 現在時刻は午後1時15分



 俺は部屋の扉を開け、傘片手に外へ飛び出したーー


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