第2話
山手線を下り、近くの階段を上ると改札が見えてくる。
「えっと..。どうしてここで下りるの? 最寄り?」
後ろを歩く彼女が慌てた素振りを見せながら話しかけてきた。
「いいえ..」
この後になんというべきか少し躊躇う。
「近くにカフェがあるので、車内の会話の続きをしましょう」
「えっ!? それってオッケーしてくれるって事かな!?
やった!! 私ってチョー幸せ!!」
「あの..。それはまだ早くて..。というのも、僕たちはまだお互いの事について
何も知らないわけですよね? そんな見ず知らずの他人同士が、会ってすぐ
結婚だなんて、いろんなステップを飛び越えすぎな気が..」
「互いを知る? ステップ? じゃあそれをこなせば結婚できるんだ!!」
「....」
ダメだこの人何も分かってない。と、俺は頭を抱えた。
きっとこのままじゃカフェに寄っても埒が明かないと。
結婚しろ結婚しろと迫られて、こっちの話が一向に通じないのが
目に見えている。
俺はこんな頭のおかしな人を初めてみた。
そもそも知らない人に『結婚して』などと言われた時点で、
本来は逃げるのが正解なのだろう。しかし彼女は並大抵の人よりも
見てくれが良い。そんな最低な理由で、真剣に耳を傾けてしまっていた。
「あの..」
「ん? どうしたの!?」
言い訳をして逃げるか? 結婚する気なんてないとはっきり伝えるべきか?
もしこれ以降彼女と電車内で鉢合わせした時に、再び迫られるリスクを考えると、取るべき選択は必然的に後者となった。
「はっきり言います。俺は貴方と結婚する気はありません。
嫌いだから..、とかそういうわけじゃないですが、やっぱり、
今日会ったばかりの見ず知らずの人と結婚だなんて、出来ません..。
だから、その、ごめんなさい..」
これでまたああだこうだ言われたら、その時は逃げるか、
最悪警察を呼べばいい。しかし直後に彼女が見せたのは、”笑顔”ーー
これは意外な反応だった。あれだけ迫っていた結婚を拒否され、もっと
必死の顔で捲し立ててくるかと思いきや、彼女のとった行動はむしろ
真逆ーーまるで、これまでの彼女のアイデンティティを覆すような行動だった。
「うん..。分かった..」
「え..??」
「だよね。いきなり結婚なんて、出来ない事は分かってる..。
私の方こそごめんなさい。貴方の貴重な時間を奪ってまで..。ただ..」
ー「せめて..。名前だけでも教えてくれませんか..??
ここで貴方と出会えたのはきっと、運命か何かだと私は思うの..」
「は、はぁ..」
「あっ。自己紹介遅れました! 私、藤森光希ふじもりみつきって言います。
多分、貴方と同じ歳くらいかな..。今年で15歳になるから..」
まさかの自分より年下か..。 と、それは一旦おいといて..。
今目の前で恥ずかしげに自己紹介をする彼女を見ていると、さっきまで
あんな大胆に告白してきた彼女のイメージとブレて困る..。
藤森光希ーーそう名乗った彼女が果たして何者なのか?
どうして俺に告白なんてしようと思ったか? 聞きたい事は山ほどある。
でも、そんな彼女の告白を断ったのは俺で、ここで彼女を食い止める資格が
今の自分にはない。
じゃあ、こんな場面で、彼女になんて伝えるのが正解なのだろうか..。
最低でも名前は伝えてそれで終わりーーなのか? いや、彼女の最寄りは
ここじゃないはずだから、また同じ電車に乗って、一駅だけは一緒にいられる。
「俺の名前は矢場康太やばこうた。高校二年生で、16歳ーー
一つ年上だけど、、その、全然気軽に話しかけてくれて良いから..。よろしく..」
ってバカ俺!!
『よろしく』って、これからもよろしくお願いしますって事だろ?
彼女とはもうこの後一駅だけご一緒して終わる関係性だ。それなのにーー
「矢場さんって言うんですね! あと、主語も『俺』なんですね!!」
「はっ..」
「ふふっ..。私、そっちの方が似合ってると思いますよ。なんか、
男らしくて格好良いです!!」
「そうかな..。というか君も、
さっきはあんなに結婚してくれって言ってたのに、
今は随分と聞き分けが良いじゃないか? どういう事なの?」
「内緒です..」
「あぁ、そ、そうなんだー」
「は、はい! ま、まぁでも、その話はもう済んだ事じゃないですか!
私が振られて一件落着という事で、失恋し現在進行形で傷心中の
乙女に、何か飲み物をいっぱい恵んでは頂けないでしょうか..?」
「うぅ..。こういう時、激しい罪悪感に苛まれるのだが、良いよ..」
「え..? 奢って頂けると言うのですか??」
「あぁ。缶ジュース一個分くらいなら全然。
俺が普段金なんて持ってても使わないし減るものでもないから、良いよ」
「あ、ありがとうございます!! じゃあ..」
そう言い、藤森は嬉しげで、まるで子犬のような足取りで、
たまたま近くにあった自動販売機の所に移動した。
「緑茶にします!」
「え? ジュースとかじゃなくて良いの?」
「はい勿論! ジュースには沢山の糖分が含まれているんですよ?
糖分過多はあまり身体に良くないです。その代わりに、緑茶には
カテキンという抗菌作用のある成分が含まれていて、腸内の悪玉菌
に効くんです! というわけで、これを一つ所望します!!」
「了解..」
俺は彼女の指示通り、500mlの緑茶のペットボトルを
一つ購入。自分も何か買おうとしたが、もう後少しで電車が到着するとの
アナウンスが構内に入ったから断念ーー
暑くて汗を大量にかいたから喉は乾いたけど、ここは我慢しよう。
「飲みます..??」
「え..?」
「だから、私の緑茶。矢場くんも一杯飲みませんか..?」
「い、いや大丈夫だよ! 喉乾いてないし!」
「そうですか..?」
♢
その後、藤森と再び会話を交える事はなかった。
微振動を繰り返す列車に揺られながら、彼女は緑茶に数度口をつけ、
たまに俺の座る方を見ては、何か話しかけようとしている。
しかし、結局会話を切り出される事はなかったし、
俺としても同年代の女性と流暢に話せるような会話の引き出しが
豊富にあるわけではない。
こんな不器用な沈黙が小3分ほど続けば、電車が一駅先の駅に到着する
のなんて本当にあっという間だった。
俺はもう、ここで下りるから。そう言おうと思ったが結局声に
ならないまま、減速し始めた車内の中で、
俺は立ち上がりドアの方へと向かおうとした。
とはいえ、藤森が後に続く気配は感じられない。
前回と違って今回は何も言っていないから当たり前か? などと逡巡しつつ、
もうこれが、彼女と関われる最後の時間なのかと考えたら、急に胸の奥の
方がモヤついてきた。どうしてこんな気分になるんだろう?
旅先で、ホテルのチェックアウトが近づき部屋に別れを告げる時の
あの切なさに近い感覚だ。
「あの..」
なんで、自分が声を発したのかは分からない。完全に無意識だったと思う。
「どうしたの?」
藤森は俺の方を向いた。
「え、えっと..」
「また、会えると良いですね!」
「え..」
俺じゃない。『また会えると』そう言ったのは藤森だった。
彼女は最後にそう言い残した。
甘酸っぱい声で、どこか泣きそうな顔をしていた。
彼女の手には、緑茶のペットボトルが両手でぎゅっと握られている。
「はい....」
電車の扉が開いた。彼女とのお別れの時間までもう数十秒も
残されていない。このまま電車の外に出たら、俺は再び、人間関係
というしがらみから外れた灰色の世界に戻ってしまう。
人生で初めて告白された。
見ず知らずの女性にそう言われ最初は面食らったが、少し時間を共にして
分かった事が一つだけある。
彼女といると、例えそれが沈黙の中であろうと、苦ではなかった。
俺は、基本的には他者との関係性に一定の線引きを引くのを心がけている。
でも彼女はそれを嘲笑うかのように、平然と、そして悠然とそれを飛び越えてきた。
だから、そんな俺にとって未知の人間と、ここで関係を終わらすにはまだ早い。
何かきっかけを作ろう。彼女と会えるきっかけ。
今から連絡先を聞き出す猶予はもう残されていないから、口頭で出来るだけ
簡潔に伝えられるものが好ましい。
だから、電車の扉が閉まる寸前、俺は一言だけ残した。
「俺、明後日のこの時間に、この駅のこのホームで、貴方を待ってます!!」
扉が完全に閉まった時、無音の車内で、
藤森は唖然とした表情を作った。
彼女も何か言いかけていた言葉があったのだろう。
口を動かし母音の形を作ったが、結局言えないまま閉じていた。
しかし、その代わりに彼女は満面の笑みを見せてくれた。
大人らしいというよりも、子供っぱい、無邪気な笑顔だった。
そしてその後、彼女は再び口を動かし始める。
何を伝えようとしているのか、口の動きを見て判断しろと言うのか?
だから俺は彼女の顔、筋肉の弛緩、その一切を具に捉えた。
最初の一音は ”う” 次は ”い” だ。
合わせると、『うい』
なるほど、どうやら彼女は俺の質問に対し、オッケーしてくれたようだ。
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