ブラックアウト・ガーデン

桐林才

プロローグ

夏の日、私はとあるアパートの陰で座り込んでいた。

座っているだけで汗が噴き出す気温と響き渡るセミの鳴き声は、何者かから私への拷問・尋問の類にも感じられた。

滴る汗を袖で拭いながら、私は自問自答を繰り返す。


私はここへ何をしに来たのか?

彼に会いにきた。

会ってどうするのか?

分からない。

なぜ来たのか?

予感がした。

何の予感か?

彼は、もうすぐ……。


その答えの先を紡ぐことのできない自分を、私は褒めてあげたかった。

正気を失わないためのギリギリの理性を保つ自分を。

心に押し寄せる洪水のような感情を、涙に変えて受け入れることができる自分を。


突然、私の耳に金属が擦れあう音が響いてハッとする。

立ち上がって103号室のドアに目をやると、ちょうど彼が出てくるところだった。

「あれ?」

「何してるんですか?先生」

私の姿を見つけた彼の様子は、いつもと変わらないように見えた。

「どこに、行くんだ?来人くると

「……」

私の顔は汗と涙でまみれていた。

その横を彼は無言で通り抜けようとする。

「おい!」

「人を、待たせているんです」

「大事な人を」

声を荒げる私に彼は淡々と力強い口調で言葉を返した。


行くな、と私はそう言わなければならなかった。

言えなかった。

彼をこうしたのは、追い詰めたのは他でも無い私なのだから。

「約束してくれ、来人。帰ってくるって」

「先生」

私の絞り出した言葉を遮るように、彼は言葉を被せた。

「僕の最大の幸運は、あなたの患者であったことだと思うんです」

「先生のおかげで僕は彼に気づいて、会いに行こうと思えた」


「音が聞こえるんです」

私はそう言われて思わず、セミたちの叫び声が響き続ける中庭の木々に目を向けた。

「そっちじゃなくて、ほら」

「背中から聞こえてくるこの悲しい音色ですよ」

そう言って、彼は人差し指を彼の背後に向けた。

「広い悲しみの真ん中にポツンと佇んで、必死で歌っているような、そんな音」

「僕を呼んでるんですよ、ずっと」

「聞こえませんよね。先生は僕じゃないから」

そう言って、彼は歩を進める。

「先生と一緒にいる時だけは、人みたいになれた」

「もういいんです。それで」

一度だけ振り返った彼の表情は、涙でぼやけていた。


***


「すみません。お待たせしました」

落ち着いた低い声に顔を上げると、コーヒーカップを二つ持った男が部屋に入ってくるところだった。

背中で慎重にドアを閉めると、脇のテーブルにカップを置いて私の正面の椅子に座る。

メンタルクリニックに来るのは初めてだったが、診察室には小物やインテリアが並べられ幾分カジュアルに見えた。


「勤務中、と伺っていたのですが」

「ええ。そうですよ」

そう答える彼の服装は、チノパンにチェックのシャツという出で立ちだった。

「医者がみんな白衣なわけじゃないですよ」

私の視線に気づいた彼はそう言って微笑む。

「刑事さんだって制服着てないでしょう」

「動きづらそうですもんね、あれ」

こちらから目線を外したままコーヒーを啜る彼は、30代には見えないくらい朴訥としていた。

「もうお仕事に戻られてるんですね」

「事件から一週間もたっていないのに」

「患者さんのいる仕事ですから」

彼は下を向いたままカップを両手で持って話す。

「片づけもある程度終わってやっと落ち着いたところなんですよ。だから」

そこで、彼は初めて私の目を見た。

「正直に言って、あなたの訪問を歓迎はできません」

「そうでしょうね」


「最初に申し上げておきますが」

コーヒーの温度が下がったのを見計らって、私はカップに口を付けた。

「来人くんの件、捜査は終わりました」

「彼は自ら命を絶った」

「河川敷の泥だまりに顔を突っ込んで溺死」

「……それをわざわざ報告しに?」

彼の反応を確かめるためにわざと直接的な言葉を用いた私に、彼は目を丸くしていた。

「私が今日ここに来たのは、これについてあなたに聞くためです」

そう言って私は持参していた鞄から一冊のノートを取り出して、机の上に置いた。

表紙は何の変哲もない大学ノートだが、その厚さは新品の三倍ほどに膨らんでいる。

中身のページに大量の折り目が付いており、厚みが増していた。


「この中身を、ご存じですね?」

「……ええ」

彼はノートを見つめたまま微動だにしない。

私が表紙をめくると、ノートの右側に1ページ目が現れた。

一面が黒いインクで塗りつぶされている。

マジックペンを何度もこすり付けた跡が強く残っており、インクが固まることで紙が硬くなっていた。

2ページ、3ページとめくってみても、全く同じ黒く光る紙面だけが現れる。

「警察が来人くんの部屋から回収したこのノート」

「塗りつぶされたページに何が書かれていたのか、あなたが知っていることをお聞きしたい」

「来人くんの親代わりであったあなたに」

「……」


「つまり、あなたはこう考えているわけですか?」

1分ほどの沈黙の後、彼は口を開いた。

「そのノートには遺書めいた内容や自殺の動機が書かれていて」

「それが都合の悪い何者かによって塗りつぶされた」

「そして、その何者かとは唯一の身内である私ではないか、と」

彼が私に向ける瞳は空洞のように色が無かった。

「その可能性もゼロではないでしょう」

私はふっと短く息を吐いて答える。

「あなたが彼の部屋に入る鍵を持っていたことは事実」

「あなたが警察の聴取でこのノートの存在に言及しなかったことも事実」

「……」

私が少しの沈黙を挟むと、先ほどまで聞こえなかった壁に掛けられた時計の針の音がやけに響いた。


「でも、私は真実を知りたくてここに来たわけではない」

「それだけなら、このノートを鑑識に持ち込めば済む話です」

彼は何か口を挟もうとしてグッと飲み込む仕草をした。

「あなたの口から直接聞きたいのです。このノートの正体を」

「お話していただけませんか?」

「……いいでしょう」

彼はそう言って、持っていたカップの中身を飲み干した。

「私が持つ答えがあなたの期待するものとは思えませんがね」

「ありがとうございます」


「結論から言いましょう」

「このノートは凶器です」

「……どういう意味ですか?」

思わず彼の顔を覗き込むが、見えたのはここに入ってきた時と変わらない冷たい表情だった。

「そのままの意味ですよ」

「彼を死に至らしめたのはこのノートです」


***


「最初に彼と出会ったのは、彼の母親がこのクリニックに連れてきたときでした」

彼は下を向いたまま、ポツリポツリと話し始めた。

「当時、彼は14歳」

「母親の相談は『息子が息子でなくなってしまった』というものでした」

「きっかけは、中学校の階段で転倒し後頭部を強打し意識を失ったこと」

「幸いにもすぐに目を覚まして特に後遺症も残りませんでしたが」

「母親はその後、あらゆる脳外科を片っ端から受診したそうです」

「次々と下される異常なしという診断とは裏腹に、母親の不安は日に日に増していきました」

「そして、『この子は私の息子ではない』という強迫観念に囚われるようになったと」

「姿かたちは変わらない、外科的診察でも異常はなく健康そのもの。」

「それでも、彼女の疑念は確信へと変わっていった」


「私にそれを伝えて間もなく、彼女は来人の元から消えました」

「それ以来、私が彼の後見人になったわけです」

「そして、彼と接する内に私は彼の母親と同じ種類の確信を得るに至りました」

「その理由を言葉にするだけの表現方法を持ち合わせていなかった点もまた、彼女と同じでしたがね」

「一般的な語彙で言うと、彼は魂が抜けていた状態」

「事故の衝撃により陥った『体外離脱状態』と言った方がいいかもしれません」


「『スワンプマン』という話をご存じですか?」

「……いえ」

淡々とした語り口に混ぜられた突然の問いかけに私はハッとする。

「ハイキングに出かけたある男が、不運にも雷に打たれて死んでしまうという話です」

「その時、すぐそばの沼にも同時に同じように雷が落ちた」

「そして、雷の放電により沼の成分が化学反応を起こし、偶然にも死んだ男と全く同じ構造物・生命体を生み出した」

「新しく生まれた存在『スワンプマン』は死んだ男と同じ記憶を持っており、昨日と同じ家に帰り次の日には同じ職場に出勤する」

「刑事さんは、ハイキングに出かけた男とスワンプマンは同一人物だと思いますか?」

「……思いませんね」

「同感です」

「では、この両者の違いとは何でしょうか?」

「私の言う『魂』とは、それのことです」


「話を戻しましょう」

「彼には二つの記憶があったのです。一つは階段で事故に遭った後、何事もなく回復した肉体の記憶」

「もう一つは、肉体から分離した魂の記憶です」

「それに気づいたのは、彼がもう一つの記憶を書いたこのノートを見た時です」

「私はその時、バグの原因を発見したプログラマーのような気持ちでした」

「このノートに現れた『虚の人格』を殺すことこそが、彼に対する治療であると、そう思ったわけです」

「それからは、彼がこのノートに記憶を書き加える度に私の目の前で塗りつぶさせました」

「私の目論見通り、彼の魂はこの黒いインクに溺れて死んだ」

「そして、彼の肉体はそれを追って死んだ」

「以上が私の知っている事件の顛末です」


「先生、私は今日刑事としてここに来ています」

長い沈黙の後、私は努めて無機質に話した。

「あなたの話の中で私が確認しなければならない点は一つだけ」

「『治療』の結果、彼が自殺する可能性はあると思っていましたか?」

「……私は彼の主治医です」

彼はそう言って椅子から立ち上がる。

「そろそろ、おいとま願えますか?」

「午後からの患者さんが来ますので」

「先生……」

「あとはこの手記を読んであげてください」

「他でもない来人のために」

彼の最後の言葉は、小さく震えていた。

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ブラックアウト・ガーデン 桐林才 @maruhito

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