第35話 高校で分数? そんなわけないだろ

「ふぁあ〜。終わった終わった」


 路地裏で大きく伸びをするランディの隣で、リズが「みっともないですよ」とため息をもらした。だがそれ以上注意することがないのは、やはりランディの気持ちが分かるからだろう。


 中間試験。


 数学、歴史、古語を始め、魔法理論、魔法物理学といった基礎学術単位五教科を一日で走り抜ける強行軍である。そんな強行軍がようやく終わりを迎えたのだ。ランディでなくとも、その開放感に浸りたくなるというものだろう。


「時にランディ、試験はどうでした?」


 小首を傾げたリズに、ランディの肩がピクリと動いた。


「いいかリズ……」

「はい」

「男は過去など振り返らんものだ」


 フッと笑うランディだが、「出来なかったんですね」とリズの呆れたため息は止まらない。


「だ、だってよ。何だよ∑(シグマ)って。意味分かんねーだろ! 数字じゃねーじゃん。そこはせめて分数の足し算だろ!」


「なぜ分数の足し算なのです? そんなもの、初等教育での課程ですよ」


「知ってるぅー! 俺も小さい時にやったから、知ってるぅー!」


 顔を覆うランディに、リズの頭上に疑問符が止まらない。だがランディからしたら、ふざけるなと言いたい気分である。こういうのはお約束で、小学校レベルの算数を出してもらわないと困るのだ。


 誰が異世界に来てまで、数Ⅱや数Bの内容が出ると思っているのか。それどころか、脳みそのスペックなど推して知るべしのランディだ。前世では、〝∑〟など見たことも聞いたこともない。


 だが現実は残酷だ。ランディも教会が提供している初等教育で、普通に分数が出てきた辺りで「あれ?」となった記憶はある。そしてその後はもちろん、難しくなっていく勉強に慌てたものだ。


 前世のアドバンテージで何とかついてきていた高等教育も、既にへ突入してしまった。


 もうこうなっては、ランディに出来ることはない。いや、勉強をしたらいいだけなのだが……何故か勉強となると、直ぐに眠たくなるのでどうしようもない。


「小僧、妾の教えた魔法理論はバッチリじゃろうな」

「…………」


 黙ったまま視線をそらすランディに、「こンの戯けめぇ!」とエリーが眉を釣り上げた。


「妾が阿呆の貴様に分かるよう、どれだけ噛み砕いたと思うておる!」

「やかましい! 噛み砕かれても飲み込めねーモンがあるんだよ」


 ランディからしたら勘弁してくれと言いたい。古の大魔法使いは、「何じゃこのお子様向けは」と高等魔法理論を鼻で笑い、より複雑な理論を準備して解説していくのだ。


 高等理論すら基礎中の基礎と鼻で笑うエリーの、噛み砕いた講義がどのくらい高度な内容だったかは推して知るべしだろう。そもそも高等理論すら怪しいランディが、それらを一朝一夕で飲み込める訳などなく……。


「もっと簡単な所からで良いんだよ」


 こうして口を尖らせて抗議するしか出来ない。


「何を言う。小娘はしっかりと理解しておったではないか」


 だが、それをリズが完璧に理解して、自身の中に落とし込んでいるから始末が悪い。本当に何なのこの娘というレベルで「あ、そういう事ですね」とスポンジのように吸収していくのだ。


 エリーからしたら、〝この程度〟という認識に至るのも無理はない。


「聖水の存在すら忘れる鳥頭には、神の如き妾の叡智は難しかったようじゃな」

「ぐっ……」


 嘲笑を浮かべるエリーを前に、ランディが蟀谷こめかみに青筋が浮べて言葉を詰まらせた。正直言い返したい所だが、それを擦られると返す言葉が無いのも事実だ。


「ほれ、何か言うてみんか。この鳥頭め」


 ケラケラと笑うエリーに、ランディが「テメぇ……」と頬を引きつらせつつも嘲笑を返した。


「いやいや。さすがは古の大魔法使い様。無駄に長く生きているババア様なだけあって、知恵袋のデカさが凄まじいですな」

「誰がババアじゃと?」


 嘲笑に青筋が浮かんだエリーに、ランディがこれでもかという嘲笑を返した。


「テメェだテメェ。待ってろよ。直ぐにヨボヨボの身体を見つけて、戻してやるからよ」

「戯けが。妾のセクシーダイナマイツを見ても、同じことが言えるといいの」


 睨み合っていた二人を引き剥がしたのは、エリーを抑え込んだのだろうリズと、通りの向こうから現れた人影だ。


、行きましょうか」


 通行人の存在にこれ幸いと、リズがランディとエリーの第二ラウンドが始まる前に、目的の場所へと足を速めた。




 ☆☆☆




「二人共、遅いですわよ」

「すみません、セシリー」


 微笑みながら頭を下げたリズに、「まあ良いですわ」とセシリアも微笑み返した。セシリアの後ろには、行列をなす多くの女性。そして行列の先にあるのは、真新しい白い建物だ。


 レンガ造りの王都にあって目立つ地中海風の建物は、リズ曰く彼女の地元であるブラウベルグ領の特徴的な建物らしい。


 そしてこの真っ白な建物が何かと言うと……


「やっぱこうして見ると、美容品にピッタリの外観だよな」


 ……建物を見上げたランディの言う通り、美容品を販売するための実店舗なのだ。既に侯爵領ブラウベルグには一号店を出し、ハートフィールド領にも同時に二号店を出店している。


 ちなみにヴィクトール領だけは、街の雑貨屋で売るというヴィクトール領らしい販売路線だ。


 そして満を持して美容品が王都へとやってきた。既にリズやセシリアの広告効果がバッチリの王都で、美容品を扱う王都一号店がこの建物というわけだ。


 ではなぜその店舗にランディ達がいるかというと……とある人物に呼び出される形でこの建物へとやって来たのだ。一応待ち合わせの時間に間に合うように来たのだが、今は待ち合わせよりも店の繁盛具合が気になって仕方がない。


「こうしてオープンしてみると、感慨深いものがありますわ」


 建物を見上げるセシリアの言葉に、リズも黙って頷いた。店舗の改装が始まってから、何度か建物を訪れたランディ達であるが、オープンとなると色々と実感がこみ上げてくるものだ。


「それにしても凄く繁盛してますね」


 驚いたように行列を見るリズの言う通り、店の前は行列や野次馬のような人だかりで、中々の熱気だ。この行列と繁盛の中に突っ込んでいく勇気はない。何せ今の店内は女性の戦場と化しているのだ。


 そんな戦場の中から、紙袋を大事そうに抱えた桃色の頭が飛び出した。ランディ達を見るなり、慌てて駆けていったのは、間違いなくキャサリンだ。


「エヴァンス嬢ですよね?」

「ですわね」


 その背中を見送る微妙な表情の二人とは違い、ランディは感心した表情で建物を振り返っていた。


(ま、侯爵閣下なら普通に売るよな)


 ランディが侯爵の狙いに気付いた頃、店舗の勝手口と思しき場所から一人の女性が現れた。


「ランドルフ様と、セシリア様ですね。そして――」


 一度リズに視線を移した女性だが、それ以上は何も言わない。だがリズの表情を見るに、どうやら知らない人間ではなさそうだ。


(なるほど。公の場で〝様〟をつけるわけにも、かといって〝さん〟呼びも出来ないか)


 見上げた忠誠心だとランディが苦笑いとともに、自身がランドルフだと返した。


「主がお待ちです。こちらへ――」


 建物を示す女性は、やはり侯爵家の人間だろう。女性に案内されるまま、ランディ達は建物の中へ。扉越しに聞こえる店内の賑やかさを尻目に、女性が階段を上って奥の部屋をノックした。


「お連れしました」


 そう短く伝えると、扉が中から静かに開かれた。女性に促されるまま、ランディ達が部屋へと足を踏み入れると――


 先頭のランディに向けて直剣が突き出された。

 迫る切っ先だが、ランディは微動だにしない。


 ランディの鼻先で切っ先が止まり、遅れて来た風がわずかに前髪を揺らした。


 一瞬の出来事に呆けるリズとセシリアだが、ランディと剣を突き出した青年は笑顔のまま向き合っている。


「お、! なぜ――」


 叫んだリズを、ランディが庇うように下がらせた。


「護衛としては合格でしょうか?」


 笑顔のランディに、リズに兄と呼ばれた男――セドリック――が剣を退いて笑顔を見せた。


「剣を止めなかった理由を聞いても? 君は分かっていただろう?」

「剣に殺気が乗ってませんでしたから」


 肩をすくめたランディに、「ふむ」とセドリックが剣を鞘に収めた。


「そんなことまで分かるのかい?」

「鍛えられましたから」


 苦笑いのランディに、セドリックがまた笑顔を見せた。


「試すような真似をして悪かった。リザの兄、セドリックだ」


 手を出したセドリックに、ランディも名乗って手を握り返した。折角ならば意趣返しに、とわずかな殺気を込めて――


 一瞬冷えた空気に、セドリックと案内役の女性の顔が強張ったが、ランディは直ぐにその気配を霧散させて笑顔を見せた。


「護衛としては合格でしょうか?」


 先程の質問を繰り返したランディに、セドリックは満面の笑みをランディに返した。


「文句なしだよ。大事な妹を守ってくれてありがとう」


 笑顔のセドリックが紡いだ言葉は、間違いなく心の底からの謝意だろう。リズに似た中性的な顔立ちの青年は、今も嬉しそうにランディの手を握って笑っている。

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