10−3 名前

 幼い頃から、誰の名前でも、顔を見れば呼ぶことができた。


 どうしてかわからないが、顔を見れば名前が浮かぶ。それが人であろうとなかろうと、すぐにわかる。

 そして、その名前を呼べば、呼んだ相手は、言うことを聞いてくれた。

 それもまた人であろうとなかろう、なんでも同じ。


 ただ、時折、名乗ってくる名前と本来の名前が違うことがある。


 祖父はいつも口にする。


『その名前を呼んではいけないよ。相手によっては、殺されてしまうから』






「し、紫焔。助けに来てくれて、ありがとうございます」

「もっと早く呼んでくれれば良かったんだけれどね。足が傷だらけだ」

「て、手当は自分でできますから!」

「駄目だよ。普通に手当するだけでは傷が残ってしまう」


 華鈴の足首に触れながら、紫焔が足元に口付けた。

 それのどこが手当なのか。汚れた足袋を放り投げて、ただ口付ける。


「な、わわわわ。え、傷が」

 声にならない声を出していると、ほんのりと温かさを感じた。先ほどまでジクジクとした痛みがあったのに、痛みがないどころか血が滲んでいた肌も元に戻っている。捻った足首も、先ほどの激痛はどこにいったかと思うほどだ。


「顔にも傷があるよ」

「ひえ。だ、大丈夫です! 大丈夫です!!


 顔に触れられてびくりとする。紫焔がそっとその傷をなぞると、痛みが消えた。

 ほてった頬の傷は消えているのだろう。それでも熱は取れない。紫焔が近すぎるからだ。

 心臓の音が耳にまで届いてくる気がする。何か話していないと、この音が紫焔に聞こえてしまいそうだった。


「あ、あの、ごめんなさい。着物がボロボロになってしまって。草履も、どこかに落として」

「そんなこと気にする必要はないよ。それよりも、眼鏡がなくなってしまったね」

「あ、なくても見えるので」

「それなら良いけれど。よく見えない眼鏡はもう必要ないのかな」

「だ、大丈夫です」


 眼鏡のことも知っていたのか。

 意味のない眼鏡をかけていると思われていたのだろう。あの眼鏡は、お守りのようなものだった。

 

「華鈴様! 目覚められたんですか! うう、無事で良かったですうっ」

 部屋にやってきた丸吉が、大きな目から涙を溢れさせた。両手に着物を持っているため拭えないのか、顎に滴る涙を肩で拭く。


「丸吉君、心配させてごめんね」

「丸吉、着物が濡れてしまうよ。これはあずかるから、食事を持ってきなさい」

「はい。すぐに!」


 丸吉は着物を渡すと、すぐに部屋を出ていく。それを見送って紫焔が華鈴を立たせた。紫焔は中腰のまま腰に手を回すと、抱きしめてくる。悲鳴を上げて後ずさりそうになるが、抱きつかれただけで身体中の痛みが消えた。あちこち打って痛かったはずなのに。


「あ、ありがとうございます。簡単に直せちゃうんですね」

「傷ならばお手の物だけれど、内臓が傷付いたら僕も簡単には治せないよ。心の病もね」


 紫焔は抱きついたまま顔を上げた。お腹の辺りにいるのでとても居心地が悪かったが、紫焔の視線はからかっているような視線ではなかった。


「怖かったですけど。もう大丈夫です」

「君が僕の名前を呼んでくれなかったらと思うと、ぞっとするよ。その名でなければ、気付かないからね」

「怒らないんですか?」

「なにを?」

「名前を、その名前を呼んでしまったから」

「呼べば良いと言ったのに、どうして怒るの。そもそも、僕の名前は君が付けてくれたんだよ」

「私がですか?」

「君は覚えていないようだけれどね。さ、そろそろ着替えて。お風呂に入れてあげようか」

「ひ、一人で入れます!」

「そう? 湯は沸かしてあるから、入ってきなさい。もう怪我はないからね」


 紫焔は新しい着物を差し出して、古い帯を手にする。いつの間に帯をといたのか、華鈴が付けていた汚れて溶けた帯を片手にしていた。


「な、なにするんですか!」

「お風呂に入っておいで。なんなら、もっと脱がせてあげようか?」

「け、結構です!!」


 着物を受け取って、急いで湯殿に走る。紫焔はくすくすいつも通りからかうように笑った。


「まったく、かわいんだから」


 声が聞こえたが、無視してお風呂へ直行する。釜のお風呂で薪をくべて沸かすのだが、戻ってきてから沸かすには時間がかかる。それなのに、丁度良い温度で沸いていた。紫焔ならば簡単にお湯が沸かせるのだろうか。


 酸をかけられた足は傷だらけのはずだったが、もうどこにも傷がない。身体中にお湯をかけても染みるところもなかった。

 風の力を使えて、お湯も沸かせて、治療することもできるのだろうか。万能すぎる。


 皆が呼ぶ睦火の名前は、紫色の瞳を間近で見た時点で、本当の名前ではないと知っていた。

 華鈴が強い思いで名前を呼べば、その名前を持つものを操ることができる。操れなかったものはいない。そして、その能力を使うためのように、名前が瞬時にわかる力も備わっていた。華鈴は相手を見ればそのものの名前がわかる。名前はそれを表す唯一のもので、それらを操るには、名前がいるからだ。


 曽祖父はいつもそんな風に名前を呼ぶなと注意してきた。わかっていても、子供の頃それを区別することは難しく、強い思いを持つ時は制御していてもその力が発動してしまう。

 だから、子供の頃は見えにくいように度の合わない眼鏡をかけていた。顔を見なければ名前がわからないからだ。


 子供の頃からの慣れで、今でも眼鏡はしている。顔がよくわからないほど度が合わないメガネをしているわけではないが、意味のないことだと理解していても、壁がほしかったのだ。


 紫焔は華鈴のことを知っているのに、名前を呼んでいいとずっと許しをくれていた。しかし、紫焔の名前を呼べば、ただでは済まないと感じていた。だから、最初は恐ろしく思っていたのだが。


「ずっと、心配してくれてたのかな」

 紫焔は、名前を呼んだら助けに来てくれた。


 操ってなどいない。助けてほしいと名前を呼んだだけだ。

 それだけで、守られた事実に、華鈴は大きく安堵した。

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