10−2 名前
「蜘蛛!?」
空から見えていたのは、タワシのような毛を持った巨大な蜘蛛だ。口元からか、音がカチカチと聞こえる。その音に呼び寄せられるように、他の蜘蛛が集まってきた。
日がまだあるからか、近くまで近付いてこない。だが、時間の問題だ。
届いた枝に捕まり、足をかけて振りながら体を持ち上げる。肩が痛むが、言っていられない。一回登ってしまえば、すぐ次の枝がある。その枝に手を伸ばした途端、足に高熱をかけられたような痛みを感じた。
木から気体が発せられた。いや、木に付いた酸が木の皮を溶かして、気体を発していた。着物が溶けてふくらはぎの辺りに穴が空いている。それが肌にも付いたか、血が滲んでいた。
「やだ。助けて」
呟くように口にしながら、華鈴は木に登った。蜘蛛たちはガサガサと近寄っては酸を飛ばしてくる。それが着物に当たり、足にも触れた。ジンジンと痛む足元を気にしている余裕もない。なんとか地上から離れた場所まで登ったが、蜘蛛たちはまだ集まって増えてきている。
どれだけ集まってくるのか。日が隠れると、あっという間に蜘蛛たちに囲まれてしまった。
「朝になるまで待つしかないわ。大丈夫。高い場所なら平気って言ってたもの」
自分に言い聞かせるように口にするが、蜘蛛の数が多すぎて、カタカタと震えてくる。それに、朝まで待っても、どうやって戻れば良いのか。燐家がどちらにあるかもわからない。じっとしていれば酸が当たったところが痛んでくる。捻った足首は腫れ始めていた。
どんどん空は闇に覆われて、今日に限って月も星も見えず、辺りは急速に暗くなっていた。華鈴の目には遠くの山と空の境界くらいで、山の中はすでに黒に溶け込んでいる。そこから足音が届いてくるが、一体どれだけの数が集まっているかもわからない。
カツカツと木を叩く音が耳に届く。蜘蛛が足の爪先で木をこづいている。登ろうとしてくるのか、前足を上げてカニのように身体を傾けてくるが、普通の蜘蛛のように木を伝うことはできなそうだ。しかし、何匹も木に足をかけてくるので、気を抜くこともできない。
もう少し、上に登った方が良いだろうか。そうでもしないと、安心できない。蜘蛛たちから視線を逸らし、上空を見上げれば、再び足が急激な痛みに襲われた。酸を飛ばしてきているのだ。
「いたっ!」
酸はあちこちから飛んできて、足袋を溶かす。足の甲が痛みで痺れた。遠くからも飛ばしてくるため、蜘蛛同士で争い始める。飛ばした酸が仲間に当たってしまうのだ。それでも気にせず酸を飛ばし、華鈴の足元を狙ってくる。
しかも、高いところには登ってこないと聞いていたのに、ひしめき合ってお互いの身体を足場にして足を伸ばしてきた。
よじ登ってでももっと上に行かなければ、蜘蛛が距離を縮めてくる。しかし、登った木が細すぎたか、それ以上登っても華鈴の体重を支え切れるかわからない。下は崖で、もう暗くて見えないが、木々がうっそうとしていた。また落ちても今度は無事であるかもわからない。
ぎりぎりまでよじ登って、蜘蛛の酸を避けようとしたが、もう限界だ。すでに足はぼろぼろで、酸によって着物の裾は溶けていた。ジクジクとした痛みは足全体に広がり、どこに当たったかもわからなくなっていた。
(誰か助けて)
誰が助けに来てくれるというのか。華鈴がどこにいるかなんて、わかるはずがない。
『名前を呼べばいい』
ふと、睦火の言葉が頭の中によみがえる。
『なにかある前に、ちゃんと僕の名前を呼ぶんだよ』
睦火の名前は、
「きゃあっ!」
飛ばされた酸が足首に振りかかる。その時、華鈴の足がずるりと枝からずり落ちた。もたれていた木から身体が離れて、手のひらが空を掴んだ。背中から暗闇に吸い込まれるように落ちる。
「きゃああっ!」
身体が重力に引き寄せられて急降下する。悲鳴が遠のいていくほどの速さなのに、睦火の顔が思い浮かんだ。
睦火の名前は、彼の本当の名前ではない。華鈴にはずっと見えていた。
『本当の名前を呼んではいけないよ。彼らの名前は大切だから。その名前を、そんな風に呼んではいけない。仕返しをされて、殺されてしまうかもしれないから』
でも、ひいじい、彼は、私に名を呼べと言った。
「ーーーー
「やっと、僕の名前を呼んだね」
ふわりと身体が浮いた。闇に落ちるはずの華鈴の身体は温かな腕に抱かれ、ゆっくりと上昇する。
「紫焔……」
「うん。迎えにくるのが遅くなってごめんね」
「紫焔。紫焔」
「うん。もう大丈夫だよ。だから、うちに帰ろう」
睦火ーー、紫焔は、緩やかに微笑む。泣きじゃくる華鈴に、紫焔は華鈴を抱いたまま、そっと頬に口付けた。
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