10 名前
華鈴は子供の頃からずっと、人と話をするのが苦手だった。
両親と離れて曽祖父と暮らすようになっても、それは変わらず、まっすぐ顔を見られずに下ばかり見て俯いていた。幼稚園や学校に行くようになっても、周囲の人は華鈴を怖がったからだ。
『華鈴。そんな風に名前を呼んではいけない。彼らを、従わせるような呼び方をしてはいけない』
その意味がわかるまで、人と関わらないようにしていた。曽祖父の仕事を手伝えるようになってから、やっと簡単に人と関わるようになっただけで。
それまでは曽祖父の家に逃げて、ただ逃れることだけを考えていた。
曽祖父はずっと、自分が死んだ後のことを心配していた。華鈴がそのままではいけないと知っていたから。
それすらも、華鈴は知らないふりをしていた。でも、いつまでも続けられないこともわかっていた。だから、曽祖父の手伝いを始めたのだ。
けれど、それすら、曽祖父に甘えていた。いつか、自ら立たなければならなかったのに、その勇気を持とうともしなかった。
「う……。ここは?」
深い森の中。木々の枝に挟まれて、華鈴は目を覚ました。
動こうとすると、ずるりと身体が沈む。
「きゃあっ! う、いったあ。お尻うった」
どさりと落ちたのは落ち葉の上。お尻から落ちたがそれでも身体中がひどく痛み、あちこちがヒリヒリと痛んだ。
空を見上げれば木々の枝がいくつか折れて、ハラハラと残っていた赤い葉が落ちてくる。
タチリュウに空から落とされて、木の枝に引っかかっていたようだ。動いたせいで地面まで落ちてきた。
「我ながら、よく生きてたわ」
呟きながら立ち上がったが、肩と足の痛みがひどい。肩はそこまででも、足首を捻ったか、足踏みすると脳天まで響くような痛みを感じた。
ゆっくり足を踏み出せば歩けるが、力を入れて走るのは難しそうだ。骨が折れているようではないので、捻挫をしたのだろう。
「ここは、どこなんだろう」
燐家からはかなり離れたはずだ。タチリュウは何もしなければ襲ってこないと言っていたのだが、人間に限っては違ったのだろうか。着ていた着物の帯ははだけて、先の方が噛みつかれてちぎれている。草履も二足とも無くなっており、足袋だけになっていた。
辺りは日がかげってきており、日が傾き始めている。
「山の中なら、もしかして、あの異形がいるんじゃ」
日の光を苦手とし、群となって生き物を襲う、山の中に住む異形。燐家から離れた場所ではあるが、繋がった山のどこかに落とされたはずだ。だとすれば、あの異形がいてもおかしくない。
「それに、あの黒い影もいるかも」
山の中の異形も、中折れ帽子の黒い影も、華鈴を追ってくるだろうか。
寒気しかしない。
「でも、どこに逃げればいいの」
すでに日がかげっているのだから、今から動いては危険だ。どこか安全な場所で留まっていた方がいい。しかし、どこが安全なのかもわからない。
「なんて言ってた? 黒い影は、酸を飛ばしてきて、光に弱くて、そうだ、高いところに登れないって」
だとしたら、木に登るしかない。華鈴が登られそうな木を探す必要があった。
もう時間はない。早く登れる木を探さなければ。足が痛むため、できれば枝の多い木でないと登れないだろう。よじ登るのは難しい。
「どこか、登れる木は」
木々は太い木ばかりで、到底登れるようなものではない。杉のように真っ直ぐで巨木であるため、よじ登ろうにも手も回すことができない。
空から見てもわかるほど、大きめな異形だ。適度な高さまで登らなければ意味はないだろう。
痛む足を引きずって、登られそうな木を探す。山の中はうっそうとしていて、高さの低い木が見当たらない。
足を引き摺りながら歩いていると、カチカチカチ、とハサミを鳴らしているような音が聞こえた。遠くから聞こえる。そのうち、ガサガサと何かが動く音まで聞こえてきた。
(何かが近付いてくる!? 早く登れる木を探さなければ)
森の中の異形は、酸を飛ばして攻撃してくる。そんなものに当たればどうなるか、ゾッと背筋が凍りそうになる。
「早く、登れる木は」
明るい場所が見えてそちらに行けば、斜めに生えている木を見付けた。他の木に比べて細く、斜めに生えているが高さがある。山深い場所に生える木は日が当たらず育ちにくく、高い木の方が多いのだが、崖になっているため、他の木より後に生えて育ったのだろう。その木なら登られそうだ。
崖の下は森で、遠くまでずっと森が続いている。日が当たる場所はここくらいしかなく、しかし、既に日は山に隠れ始めていた。
迷っている暇はない。幹を踏み付けて枝へ手を伸ばす。足の痛みを我慢して爪先立ちしながら枝を掴んだその時、背後にガサガサと大きな物体が近付いていた。
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