6−3 蛇
「はっ! 華鈴様!」
丸吉が飛び起きると、そこは自分の部屋だった。机と布団を敷いただけの、自分以外に入ることのない、小さな部屋。
なのに、ここにいるべきではない人がいる。
「睦火様!?」
「やあ、目が覚めたね。さっきまで華鈴が付きっきりで看病していたんだよ。お前をおぶって、僕に助けを求めたんだ」
「華鈴様がですか!?」
人型の狼たちに暴行を受けて、情け無いことに丸吉は気を失ってしまった。華鈴は慌てたことだろう。しかも、怪我をして意識のない丸吉を背負い、睦火を呼んだのだ。
「なんと、慈悲深い」
丸吉を助けるために、睦火に助けを求めるなど、なんと優しい人間なのか。そう口にすると、急に寒気がした。冷気を感じてチラリとそちらを見やる。
睦火が冷めた視線を丸吉に向けている。普段のにこやかな表情は無で、口元はいつもの笑みすらない。
一瞬で凍りそうな視線に、背筋が凍った。すぐに布団から飛び出して、床に頭を擦り付ける。
「も、申し訳ありません! 華鈴様を危険な目に合わせ、気を失うだなんて!!」
「ああ、いいよ。よくやってくれたね」
「は?」
「華鈴に心配されるのは、僕でないといけないけれど、まあいいよ。元気ならばあの子のところへ行ってやりなさい。心配していたからね」
睦火は冷気を消すと、いつも通りの笑顔を向けた。
よくわからないが、怒っているわけではなさそうだ。早く華鈴に顔を見せてやれとせっつかれ、自分の部屋を出る。身体に痛みはあったが、文句は言っていられない。
「怒られなかったけれど……」
華鈴が危険な目にあったのに、それについては怒っていないのだろうか。しかし、華鈴の優しさが睦火ではなく丸吉に向かったことに、腹を立てたように見えた。
(まさか、嫉妬された?)
気のせいだろうか。
丸吉は部屋を出て走り出す。早く華鈴の元へ行かなければならない。華鈴は心配しているはずだ。
そういえば、気を失う寸前、狼たちは背を向けて走り出していたが、睦火が近くにいたのだろうか? 華鈴がなにかを叫んだのは記憶にあるのだが。
「それより、華鈴様はご無事だっただろうか。お怪我がなければいいけれど」
丸吉の気配が遠のいて、睦火は一度嘆息する。
「けれど、あれはいけないね」
その睦火の呟きは、丸吉の耳に届くことはなかった。
「くっそ、まだいてえ。あの人間、何をしたんだ」
「睦火様になにか貰ってたんじゃないか。そうじゃなきゃおかしいだろう」
離れに住まう人間の娘の話は、屋敷の中でも大きな噂になっていた。
燐家当主である睦火が選んだ結婚相手が、まさかの人間で、屋敷中騒然となったのだ。花嫁候補として灰家と尉家の娘が訪れたその日に、人間の娘を紹介したというのだから。
人間の娘を睦火の相手として認めているモノは少ない。宗主が追い出さなかったことと、睦火自身が紹介したことで、娘に直接手を出すモノはいなかったが、邪魔に思っているモノは多い。
その世話を命じられた半端モノの丸吉にならば、何をしようと注意は受けないだろう。丸吉が何かしら遣らかしても、それは丸吉のせいなのだから。
それなのに、人間の娘がしゃしゃり出てきた。
「やっぱり殺そう。あの方は脅すだけで良いと言っていたが、娘に守りでも持たせているんなら、本気かもしれない」
「冗談だろう。人間の娘だぞ? 睦火様が人間の娘を本気でお望みだと思うのか?」
「源蔵は人間でも恐ろしい力を持っていたと聞いた。本当かは知らんが、睦火様は源蔵を重宝していたんだから、あの方も娘にその望みを持っていてもおかしくないと言っていただろう」
「だからって、あの娘が、俺たちにやり返してきたんじゃないよな?」
そんなはずはない。そうはっきりと口にしつつも、若干不安があった。
ただ、丸吉を軽くからかっただけだ。睦火に見付かったことはないが、今までも注意されたことはない。睦火が知らないだけかもしれないが、丸吉が睦火に伝えることはなかった。
それなのに、おかしな術をかけられた。人間の娘が命令口調で指示すると、勝手に身体が動き始めて、垣根にぶつかっても足は止まらず、壁にぶつかっても動き続けていた。
頭の中では痛みで悶えたいほどだったのに、身体は勝手に動いたまま、壁に顔が当たり続けても足は動き、壁にぶつかるのを押さえたくとも、腕は上がらず、獣の姿のまま、無理な二足歩行で足踏みし続けた。
それが止まったのは数時間後。へとへとになっても、壁に擦り付けていた鼻の先が擦れて赤くなり血が流れても、足は止まらなかったのに、突然足の動きが止まり、身体の自由が効いた。
かわりに足踏みし続け、壁に激突し続けていたせいで、足の指先と鼻の先はひどく擦り切れて、今でも痛みが消えていない。
あんな術、睦火が行えるのか? 睦火は風の力を持っており、身体の拘束を行なってどこか遠くへ飛ばすことはできるだろうが、身体の自由を奪うだけではなく、言葉通りに動かす力があるなんて聞いたことがない。
当主である睦火の力すべてが知らされているわけではないため、有り得ないとははっきり言えないが。
「あの人間、源蔵のひ孫なんだろう。もしかしたら、本当に妙な術を……」
「もしかしたら、どんな術を持っていると言うんだい?」
「む、睦火様!」
いつの間にか現れた睦火が、袖の中に手を隠したまま、ゆっくりと近付いてくる。微笑んでいるのに、どこか恐怖を感じるのはなぜなのか。
恐怖におののいて、二人で尻餅をつく。
「あの子に何をすると言ったのかな? あの子に手を出すのはいけないよ。どうやら自分に関しては頓着ないようだから」
「な、なんのことでしょうか?」
とぼけたふりをしてみれば、睦火はすうっと目を眇めてきた。
とぼけるのは無理だ。懇願するようにすぐに膝を突いて睦火を見上げた。
「俺たちは、あの半端モノに注意をしただけです。人間に湯を貸すなど、臭くてたまりません!」
人間の匂いは独特だ。獣の鼻を持つ自分たちにとっては、臭くてたまらない。妙な匂いを振りかけたり、妙なものを食べて匂いを発したりする者がいる。
あの娘から人工的な匂いは感じないが、人間臭いのは間違いなかった。
「睦火様だって、そう思われるでしょう。人間の匂いは、耐えられなくて」
「ふむ。そうだねえ」
納得ができたか、睦火が袖から手を出して、考えるように顎を撫でる。
睦火が獣のように鼻が利くのか知らないが、人間が臭いのはよく言われる話だ。二人でそうだそうだと頷いていると、睦火は目尻を下げる。
お怒りではないのか。そう安堵すると、睦火は微笑みを湛えた。
「それで、誰に頼まれたの?」
「え。な、なんのことで」
「まあ、いいけれどね。あの子には、しっかりしてほしいし」
「ぎゃっ」
「ひいいっ!」
突然突風が吹くと、身体が締め付けられた。周囲に吹く風はなく、ただ周りに強風が吹き、その風が体をぎりぎりと締めてくる。
「お、お許しください! お許し、」
「まったく、源蔵とそっくりにもほどがある。いや、源蔵はもっと割り切っていたかな」
不快な鳴き声がなくなると、真っ赤に染まった地面に背を向けて、睦火はもう一度顎を撫でた。
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