4.校舎の片隅のお話

 ――理科準備室。


 校舎の端っこの人気のない教室の前に私は立っている。

 耳を澄ませれば微かに聞こえてくる、ペラリとページをめくる音。


 この薄い扉の向こう側に、蔭森雛実が……私の知りたかった気持ちの答えがある。


 遠くに聞こえる生徒達の声を搔き消してしまうほど私の鼓動はうるさく高鳴っていた。


「すぅぅぅ……はぁぁぁ……」


 深呼吸をして、恐る恐るノックをしてみる。

 コン、コン……と軽い音が響いた後、忙しなく椅子が動いた音がして、扉がスライドした。


「あ、蔭森さん。どーも」


 努めて冷静に。

 にこりと笑顔を浮かべて会釈する。


 しかし内心、間近で見る蔭森になぜか鼓動のテンポが早くなる。


「はいっ、お、お待ちしてました。どうぞお入りくださいっ」


 まるで執事かメイドのような物言いで、蔭森は並べたパイプ椅子へと私を通した。


「ふふっ、そんなにかしこまらなくてもいいよ。同級生だし」


「いえ、私なんかが対等に扱われようだなんて……それこそ恐れ多いですよ」


 とんでもない自己評価の低さだ。

 普段の自信なさげな態度といい、自分のことを認めてあげられていないのかもしれない。


 こんなに、可愛いのに。


「……っ、あ、いやそんなことはないよ!蔭森さん真面目で穏やかで、素敵だと思う」


 ――私は今、何を考えた?

 

 一瞬割り込んで来た「可愛い」という単語を口に出してしまいそうで、慌ててしどろもどろな回答になってしまう。


「大神さん、そんな。私には勿体ないですよそんな!」


 オーバー気味な身振り手振りで必死に否定する蔭森。顔どころか耳まで真っ赤にしてる。


「もう、蔭森さんは謙遜しすぎだよ」


「そう言われましてもっ……」


 蒸気でも上がるんじゃないかと思うほど赤くなった蔭森は、おずおずと私の隣に座る。

 相変わらず怯えた小動物のイメージが付きまとって離れない。


「そ、それで、何か特別なご用があってこちらに?」


「特別、って訳じゃないんだけどね、ただ……」


 蔭森に答えようとして急に言葉が詰まる。頭の中でいくつも考えていた切り出し方が、この一瞬で全部パーになってしまうのを実感した。


 せっかくここまで取り付けたのに。


 頑張れ私。モノにするんだ。


「ほらね、この間見たあの百合の漫画、あったじゃん?なんというか、すごく良かったなーって。だから色々、蔭森さんに教えて欲しくって、ね」


 必死に編み出した言葉は思いのほかストレートで、ウジウジと悩んでいたのがバカバカしくなる。


 ちゃんと喋れていただろうか。伝わっているだろうか。蔭森は迷惑だって思わないだろうか。


「も、もちろん!!私で良ければ何だって教えます!!」


 ――どうやら、私の杞憂だったらしい。


 さっきまでの態度から一変、蔭森はこちらにズイっと顔を寄せて、嬉々とした表情に変わっていた。


 眼前に迫った蔭森の顔に急激に身体の芯が熱を持っていくのが分かる。私まで顔が真っ赤になりそうだ。


「良かったありがとう。じゃあその、私百合についてなんにも知らないから初歩的なことから教えてくれる?」


 一度言葉が繋がると、そのままスルスルとスムーズに次の言葉が出てきてくれた。


「はい、わかりました。では少々お待ちを……」


 蔭森は手際よく傍らの紙袋から本を取り出し、テーブルに並べていく。

 

 その様子を眺めながら、ソワソワとしてどこか落ち着かない感覚と以前にも感じた高揚感が私の中で沸き上がって、ジリジリと身体の中を動き回っていた。

 これから何を見れるんだろう。どんな世界を知れるんだろう。


「お、お待たせしました。まず百合という単語の意味ですが、簡単に言うとガールズラブ……女性同士の恋愛のことを指します」

 

 そういって蔭森は、並べた本の中から一冊手に取って私に見せる。


 その表紙には、キリッとした凛々しい雰囲気のいわゆる「王子様系」の女性と、その女性に抱き寄せられる童顔の女性が美しく繊細なタッチで描かれていた。


「作品のジャンルも色々あります。例えばこの王子様モノだったり、あっちにある主人×従者の身分差モノ、優等生×不良モノ、他にもたくさん。ですので、きっと大神さんが気に入る作品も見つかるハズです」


 なるほど、まさしく多岐だ。

 私がこの前見せてもらったのは、身分差モノの百合だった。互いの立場と性別を超えた愛は文字通り目に焼き付くほどの衝撃だった。


 じゃあ王子様モノを読んだらどうなるだろう。あそこにある年の差の百合はどうだろう。


 心の内で抑え込んでいた好奇心が溢れ、目の前の作品たちに強烈に引き寄せられていく。


「どうぞ、気になった本をお貸ししますので、読まれてみては」


「え、いいの!?……っ、ごめん、大声出して!」


 私の心中を察したかのような提案に反射的に食いついてしまった。


 叫んじゃったし、今最高に恥ずかしい。


「大丈夫ですよ。やっぱり実際に読んでみませんと、ね」


 そういって不意に柔らかく笑みを浮かべた蔭森にきゅうっと心が締め上げられた。

 この子、こういう顔もできるんだ。


 ……じゃなくて!!


「あ、ありがとう。えっとじゃあ、まずはコレにしようかな」


 自分自身を誤魔化すように言葉を返しながら、目の前にあった本をひとつ手に取る。表紙を見て選ぶ余裕はとっくに吹き飛んでいた。


 この教室に来てから心臓が過労死しそうなほど稼働していて一向に休まる暇がない。

 ずっと調子が狂いっぱなしで、比喩なしにどうにかなってしまいそうだ。


「おお、その本をお選びになるとは……素晴らしいです」


 そこで初めて表紙を見る。


 見目麗しい黒髪ロングの美少女が、いかにもガラの悪そうな三白眼女子に迫られ、怪訝そうに睨み返している。


 さっき蔭森が例に挙げていた「優等生×不良モノ」だ。

 タイプも住む世界も違う二人が、どう惹かれあっていくのか。どんどん興味が膨らんでいく。


「じゃあ、ちょっと読んでみるね」


 そして私は表紙に指をかけ、未知への世界の扉を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る