3.試行錯誤

 七月中旬。夏休み直前にして、学生たちは軒並み浮き足立っている。

 そんな中、私は別の意味で心が落ち着かない日々を過ごしていた。


 つい先日、蔭森に見せてもらった百合漫画。あの衝撃が忘れられず、湧き上がった感情の正体も知らないまま放置している。


「はぁ……結局蔭森ともあれっきり挨拶する程度だしなぁ」


 蔭森は、私の知らないこの感情の正体を知っている。彼女ならきっと、尋ねれば教えてはくれるはず。でもその切り口が分からない。

 こんなこと聞いたら変かなとか、迷惑かなとか、ぐるぐると考えが巡って足踏みしてしまう。


 なによりも、蔭森の笑顔に対して抱いた「可愛い」という感情。友達に気軽に使うようなソレとは違う異質な感覚がまとわりついて、一層蔭森に話しかけられない。


「……学校行こ」


 床に転がったカバンを掴んで、気持ちを切り替えるように私は家を出た。


 夏真っ盛りということもあって、外はまさに猛暑。

 太陽の日差しは情け容赦なく、地球に恨みでもあるんじゃないかと思うほど降り注ぐ。


 散歩好きの私もこの暑さにはかなわず、長らく乗っていなかった自転車を解禁した。


 チェーン店の並ぶ街並みを軽快に飛ばし、風を切る。歩くのとはまた違った良さがあるな……なんて思った直後。


「あれ、蔭森?」


 猫背気味に通りを歩いていく見覚えのある後ろ姿が、私の前方に見えてくる。間違いない、蔭森だ。家が私と同じ方角なのは知っていたが、実際登校中に見かけるのはこれが初めてだった。


 声を掛けようか。いつも通り軽く挨拶だけして先に……いやでも、そうやって逃げて結局なんの解決もしないまま、モヤモヤとした感情を抱えるのもイヤだ。


 ――行こう、今日こそ。


「おーい、蔭森さん。おはよ」


「わっ……!お、大神さん!おはようございます……っ!」


 予想外の私の登場に蔭森は軽く飛び跳ねて、それから私に挨拶をした。やっぱり小動物みたい。


「ごめんね驚かせちゃって。良かったら一緒に行かない?」


 自転車をサッと降りて隣に並ぶ。真っ赤な顔の蔭森は、落ち着くように一息ついた。


「はい、も、もちろんです!」


 よし。ここまではOK。問題はその先、本題に踏み込めるかだ。


「ありがとう。蔭森さんってどこ住みだっけ?ここ通ってるってことは私の家と近いよね」


「あ、そうですね。あの大通りのところを途中で曲がって」


 まずは世間話。なんでもない話題から段々と本題に持っていこう。

 大丈夫、落ち着いて慎重に。


 慎重に……。


「じゃ、私駐輪場行ってくるね」


「はい、ではまた……」


 ――学校、着いちゃった。


 こんなはずじゃなかったのに……!!

 いざ一歩踏み込もうと思うと、どうしても羞恥心というか。謎の気恥ずかしさが込み上げて、別の話題に逃げてしまう。


 どうしようか。教室だとお互いグループは別。となると、蔭森が文芸部の部室に居る時に会いに行くか。でも一人で本を読んでる時に私が割って入ったら迷惑じゃないか。

 人と話すのって、こんなにも難しいものだったっけ。


 なんてことを考えてるうちに、蔭森の背中はいつの間にか遠ざかっていた。


 せっかく掴んだ機会だったのにこのまま何事もなく終わってしまう。それは嫌だ。


「ま、まって蔭森さん!!」


「はい?どうかしました?」


 頭よりも先に身体が動いていた。

 とはいっても反射的に呼び止めてしまった手前、なんの言葉も用意していない。


 どうしよう、何を言おう。考えろ、考えろ!!


「あのさ、その。放課後に文芸部に遊びに行っても……いい、かな?」


 そして咄嗟に出た言葉は、自分でも分かるほど震えていて、ところどころ詰まっていて。


「……!!え、えっと、はい!ぜひ!」


 上擦うわずった声で返事をした蔭森は、改めてこちらに会釈をして、それから今度こそ校舎へと歩いていく。


 今、私は確かに約束を取り付けた。蔭森に会いに行く正当な理由ができたんだ。そう思うと一仕事終えた後の安堵感と倦怠感が一気に押し寄せてきた。


 きっと傍から見ても分かるほど上機嫌なまま、私は自転車を転がしていった。

 

 

 

 

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