10.天使の唇の味


 小春こはるちゃんとのぞむくんと別れて叢雨むらさめくんと一緒の帰り道、分かれ道に来た。

 ここを曲がれば叢雨くんが一人暮らしで住むマンション、まっすぐ進めば俺の家。


 さてどうしようか悩……むわけが無い。まっすぐおうちに帰る!! 帰るぞ!!

 極力叢雨くんを見ないようにして、まっすぐ歩く。


「おい」


 両手一杯に紙袋を下げている叢雨くんは立ち止まり、俺に声を掛けた。

 聞こえな〜い、聞こえませ〜ん。聞こえんなあ?

 と聞こえない振りをして、まっすぐ歩く。


「おい!」


 気付くとすぐ真後ろ、背後まで近づいていて、声と同時に紙袋を持ったままの状態で俺の首元に腕を回し、抱き締められた。


「オレを無視、するな」


 予想外の反応にドキリとした、その声には寂しさと悲しさを纏わせていたからだ。

 俺の存在を無視しないでくれ。本気でそう思い、傷ついている。そんな風に感じた。


 なんて自分勝手な、と一瞬思ったけど、まあ無視した俺が悪いよなあ、とも思い直した。


「――ごめん。で、どうかした?」


 そう問い返す。

 多分オレの家に来いだとか行くぞだとか、そんなんだとは思うけど。

 しかし叢雨くんは逡巡した後、応えた。


「……なんでもない、帰ろう」


 そう言って、俺を解放し、前を歩き始めた。

 俺の家の方角に。


 おや? と思った。叢雨くんのマンションじゃないの? と、予想外だったけど、まあ別にいいか、そう思って後をついていくように歩いた。


 後ろを歩くと良く分かる、叢雨くんはあの店を出てからずっとこんなに沢山の紙袋を持って歩いていたんだ。

 さっき抱きつかれた時に、その紙袋の重さを少しだけ感じた。

 結構な重労働だ、今の俺にはとても無理で、以前の俺でもこんなずっと持ち続けて文句も泣き言も言わないのは難しいと思う。普通に体力と腕が持たないだろう。


 それを叢雨くんはヒョイと持ち続け、何事もないようにしている。もしかしたら我慢している可能性もなくはないだろうけど、それでもそれを全く表に出さないのは凄いと思う。


 こういうのを頼れる男って言うんだろうな、そんな風に思い、しみじみと眺めながら家路に着くのだった。


◇◆◇


 「お帰り〜、って! 叢雨くんどうしたのその大荷物!?」


 家に着き、玄関前で叢雨くんと少し話をした。

 と言っても仲の良いおしゃべりなどではなく、俺の服、つまり荷物をどうするかで少し揉めたのだ。


 家に着いたので荷物を受け取ろうとすると、叢雨くんはガンとして部屋まで持っていく、と聞かなかった。

 部屋まで上げたら何が起きるか分からない俺はそれを拒否した、というわけだ。

 でまあ、部屋で荷物を下ろしたらすぐに帰る、という条件を付ける事で着地点としたのだけど。


 ――というわけで、扉を開けて玄関に入るとお母さんが出てきて、叢雨くんの大量の紙袋を見て驚いた、と言うわけ。


「今日は友達と一緒に買い物に行って、ハルの服を大量に買ったから、オレが持ってきたんですよ」


 叢雨くんが荷物を一旦下ろし、靴を脱ぎながらお母さんに事情を説明していた。

 相変わらずお母さんとだけは流暢に喋るやつだ。いつもそれで良いのに。 


「へー、ハルちゃ〜ん。お母さん叢雨くんにだけ持たせるのはどうかと思うなあ?」


「俺も持つって言ったんだけど、叢雨くんがダメだって持たせてくれないんだよ」


「ええ、ハルには持たせられないですよ。それにこんなの大した重さでもないですから」


「お〜〜、流石ね〜。頼もしくて良い男じゃない」


 そう言いながらお母さんは俺の方をめっちゃニヤニヤして見ている。

 そういうのじゃないから!! そういう関係じゃないんだってば!!


「良いから!! ほら、早い行こ!!」


 この2人が一緒にいると完全に勘違いされてしまうと思った俺は、叢雨くんを急かして階段を登った。


「後で飲み物持ってくわねー」


 お母さんはそう言って手を振っていたけど、叢雨くんはこう返した。


「お構いなく、すぐに帰りますから」


 どうやらちゃんと帰ってくれそうだ。


◇◆◇


 階段を上がり、俺の部屋の前。

 別に男の頃と何も変わってない。女の子らしいものは制服が掛けてあるくらいで、それ以外は何も無いはずだ。


 元々部屋は片付けてあるから人に見られる分には問題が無いはずだけど、いざ見られるとなると少し緊張する。相手が俺を女として見ているなら尚更だ。

 俺だって女の子の部屋に入る時はドキドキしたものだし、女の子の部屋が散らかっていたら残念に思う、男とはそう言うものだ。


 ――いやまて、冷静に考えたら俺の部屋が散らかっていて、叢雨くんが幻滅しようが関係が無いじゃないか、そのはずなんだけど。

 そうは思っていても、頭の中で部屋の状況を思い出す、ゴミは落ちてなかったか、服や下着をその辺に置いて無かったか、などなど……うん、よし。大丈夫なはずだ。


「さっきの約束忘れないでよ」


「分かってる」


 心なしか叢雨くんも緊張しているように見えた。


 扉をガチャリと開け、叢雨くんを中に通す。


 うん、部屋は散らかってない、多少埃なんかは溜まってる所はあるけど、まあ綺麗と言って差し支えないだろう。

 と部屋の中の様子を確認していた時だった


「懐かしいな」


 ボソリと発されたその呟きは、俺の耳には届かなかった。


「あ、荷物はこの辺に置いといて」


 紙袋を空いてるスペースに置くように案内して、置いてもらう。


「うん、叢雨くん、今日は色々とありがとう、助かったよ」


 そう感謝を述べて叢雨くんへと振り返ると、彼は距離を詰めて来ていた。


「ハルはオレのモノだ、だからハルの物はオレの物だ、気にするな」


 めちゃくちゃな理屈だ……だけどまあ、筋は通る……のか?

 いやそもそも俺はお前のモノじゃないから!! 最初から間違ってるから!!


 なんて思っている間にも彼は距離を詰めてきて、俺の胸と彼の胸が接触しそうな距離になっていた。


 来る!!

 そう思い、目を瞑り身構える俺。

 彼は俺の頬に両手を添え、顎を上向かせられ、そのまま口付けをされた。

 当然それだけに留まらず、口腔内への侵入を許し、舌同士を絡ませられ、お互いの唾液を交換した。

 キスの味は、うに、マグロ、いか、はまち、そしていくら、つまり5色海鮮丼の味をはっきりと感じた。

 なんてロマンの無い味だ。


「昼飯の味がする」


 やっと離してくれた叢雨くんは、唇の周りのよだれを拭いながらそう言った。

 人の唇を貪った後に言う事がそれか! おかげで一気に恥ずかしさが上ってきた。


「俺だって同じ味がした」


 まだ呼吸が乱れている俺は、それだけ言い返すのがやっとだった。

 余裕が無く、すぐに言い返そうとした勢いで、いつものような丁寧な言葉使いではなく、友達に対するような話し方になってしまった。


「そうか、良かった」


 叢雨くんはそう言う時、僅かだけど微笑んだような気がした。


 いや別に良くは無いよね!?

 キスしたら5色海鮮丼の味がするって、それってどうなの?

 お互いが同じ物を食べたからまだ良いものを、わざわざそんな事言わなくても良いのに。


「今日は帰る」


 うん、約束通り、ね。


「うん、それじゃあまた明後日」


 そう言って玄関まで送るとお母さんが出てきた。


「あらもう帰るの?どうせなら晩御飯食べて行かない?」


 またお母さんは余計な事を。

 キッと叢雨くんを見た。約束守ってね!と意思を込めて。


 すると叢雨くんはコクと小さく頷き返した。


「いえ、今日はもう帰ります。ハルも疲れてますし、明日また来ますから」


 そう言って、俺には見せた事の無い微笑みをお母さんに返した。


 っておい!!!

 今さらっと言ったけど、明日また来るなんて聞いてないぞ!!


「あらそうなの?じゃあまた明日ね、叢雨くん」


「ええ。じゃあまた明日な、ハル」


 そう言って、俺の頭を撫でた。

 そしてその目は、鋭く、俺に有無を言わせぬような目になっていた。


 こ、こいつ……お母さんと俺で態度が違いすぎるだろ……。


 ――こうして叢雨くんは明日もまた来る事となって、今日のところは帰って行った。


◇◆◇


「叢雨くんは本当にいい子ねえ、それに格好良いし、学校でもモテモテなんじゃない?」


 お母さんが無邪気にそう言う。

 そりゃあ叢雨くんは何故かお母さんに対してだけは穏やかで爽やか好青年だからな、そう見えても不思議じゃない。

 学校でモテモテなのも当たってる。あれで運動も勉強も出来るんだからそりゃあね。


「うん、学校でモテモテ、前は女の子が凄く言い寄ってた」


 そう返すとお母さんはニヤニヤする。


「ふーん。“前は”? で、今はどうなの?」


「う、今は……いや、今はいない……」


 そう、今は俺がずっと隣にいるからだ。

 まあ俺が見てないところで言い寄られてるかも知れないけど、それは分からない。


「なんで今はいないって分かるの? ……もしかして、ハルちゃんがずっと側にいるからだったりして!!」


「――!?」


 思わず身体がビクリと反応した。……なんで分かるんだろう。


「その反応、図星ね。……全くいつの間にあんなに良い男を捕まえたのかしら」


 捕まえられたのは俺なんだけど。


「まあでも、ハルちゃんは本当に可愛いし美人さんだもんね。これからはちゃんと女を磨かなきゃダメよ」


 正直、まだ可愛くしようとか美しくなるように、とかの自分磨きは興味が無い。

 ただ、男の時と同様に、汚れるのは嫌だとか、清潔でいようとか、みすぼらしくしたくない。

 そんな感情でスキンケアとか髪を扱っているだけだ。

 だから、化粧をしよう、となると話が変わってくるわけで。それには抵抗感がある。


 まあ、今日の買い物で色んな服を着るのは楽しかったと思う。

 少しだけ、本当に少しだけ着飾る女の子の気持ちが分かったような気がした。


「女を磨くのは早くても、せめて綺麗にしとかないとね。叢雨くんに呆れられちゃうぞ」


 そんな事を思っている俺を見透かしたか、もしくは女を磨くのはまだ早いと思ったのか、せめて綺麗に、とお母さんはハードルを下げた。

 叢雨くんに呆れられちゃう分には問題ないんだけど。


「うん、分かってる。清潔にはしとくよ」


 そんな風に適当に返事をするのだった。


◇◆◇


 シャワーを浴びながら考えていた。


 叢雨くんはなんでお母さんにだけはちゃんとおしゃべりをするし、好青年を演じているのだろう。


 学校のクラスメイトは当然として、先生にも、外でも、それに親友である望くんにだって口数は少ないし、愛想だって良いわけでもない。

 というか、俺の知る限りお母さんにだけだ、あんな風に親しくちゃん話すのは。

 それにあんなに微笑んだり、嬉しそうにしたりするのも殆ど見た事がない。

 まるで別人のようだ、なぜだ?


 と、そこまで考えて、一つの答えにいたった。


 ――まさか? いや、有り得る。

 叢雨くんはお母さんが好きなのか!?


 そういえばお母さんにも俺に似て美人だとか言ってたし、あれもある意味口説いていた!?

 凄くしっくりくる。と言うか全て点が繋がった気がする。

 目的は俺じゃなくてお母さんだった!?


 そうだ、そう考えれば俺の家を知っていたのも納得だ。

 前々から狙っていて、そこへタイミング良く俺が女になったので接触してきて、お母さんへの足掛かりにしたのだ!!

 

 やべー、完璧な推理に自分が怖いぜ。


 ……という事は、叢雨くんにとって俺はただの踏み台、都合の良い女、そういう事だったのか。

 なんだか胸の奥にチクリと痛みが走った気がするけど、きっと気のせいだ。


 ――とにかく俺のやる事は決まった。

 多分お母さんに叢雨くんに狙われてると言っても聞いてくれないだろう。

 だから俺のやる事は、叢雨くんをこれ以上お母さんに近づけないようにする事だ!!


◇◆◇


 シャワーから上がった後、ベッドに横になりながら対策を考えた。

 叢雨くんがお母さんに手出しできないようにするにはどうすれば良いか。


 付き合いを一切止める事も考えたけど、すぐに無理だと悟った。

 今更1人には戻れない、友達だって出来たのに。それに1人になったら女子が放っておかないはずだ。間違いなくイジメにあう。


 だからさらに考えた。

 叢雨くんがお母さんを狙ってるなら、お母さんの目の前で俺とイチャイチャするのは避けたいだろう。

 そうだよ、小春ちゃんたちの目の前ならキスだってするのに、お母さんの前では手を繋ぐ事すらしてないのは、そう言う事なんだろう、そうに違いない。


 ――つまりだ!!

 明日ヤツはノコノコと家に来る。愚かにも!!

 そしたらお母さんに見せつけてやれば良いんだ。それでヤツの企みが崩壊すると言うわけだ。

 ざまあ見ろだ!!

 ――お母さんは、俺の家族は俺が守る!!

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