第32話


夕食の準備をしながら、私は心の中で葛藤していた。


どうしても自分自身として見てもらいたいのに、それが叶わない現実に、涙がこみ上げてきた。


手が震え、包丁を握る力が弱まる。


「由莉、大丈夫か?」

社長が心配そうに声をかけてきた。


「はい、大丈夫です」


私は微笑んで答えたけど、心の中はまだ混乱していた。


社長に心配をかけたくない一心で、無理に笑顔を作った。


「何作るの?」

社長が興味津々に尋ねた。


「パスタとサラダ、です」

私は少し緊張しながら答えた。


「へぇ、美味しそう。なんか手伝おうか?」

社長が提案してくれた。


「い、いえ。大丈夫です。ありがとうございます」

私は慌てて断った。


お礼を込めて夕食を作るのに、社長に迷惑をかけたくない手伝ってもらったら意味ない。


「…そ。あ、袖めくってあげる」

社長が言った。


「え、」

「いいから。じっとしてて」


そう言って社長は私の後ろに立ち、袖を捲り上げてくれた。


社長の息が耳にかかり、心臓がドキドキと早鐘を打った。


体が硬直し、動けなくなった。


「しゃ、社長、」

私は声を震わせた。


「よし。できた」

社長は満足そうに言ったあと、私から離れてリビングのソファーに座った。


私は少しずつ心を落ち着かせるために深呼吸をした。


私に優しくするのは私を璦だと思ってるからで…


心の中で、社長の優しさに対する感謝と、自分自身として見てもらえない悲しみが交錯していた。


社長の優しさに触れるたびに、心が揺れ動く。


「出来ました」

私は夕食をテーブルに運びながら言った。


そういえば、前に社長と一緒に食べたパスタも美味しかったなぁ。


「ねぇ、覚えてる?」

社長はふと何かを思い出したかのように、尋ねてきた。


「え?」


「前に一緒に食べた…って悪い」

社長は言葉を詰まらせた。


「いえ、」

私は微笑んで答えたが、心の中は複雑だった。


社長の言葉に、再び心が揺れ動いた。


私は、璦として接されるのが嫌で社長と離れたのに、これじゃ意味無い。


自分の存在が否定されているようで、心が痛んだ。


自分が本当に望んでいるのは、社長に自分自身として愛されることだと、改めて気づいた。


社長の視線を感じながら、私は心の中でその思いを強くした。


涙がこみ上げてきたけど、必死にこらえた。


「由莉…?」


私の名前を呼ばないで。


そんな目で私を見ないで。


私のことを好きでもないのに、そんな風に私の名前を呼ばないで。


離れられなくなるじゃない。



「社長っ…」



言ってしまおう。



璦の振りをしていたのは私だと。




あなたが好きになったのは璦じゃなくて、




私なんだと。


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