第25話 モーニングルーティーン。(奈央の視点)

 柏原からひよを奪い取って、いよいよ私のターンが始まる。いつものように右手でグーを作り、顔の前まで持ち上げる。

 すると、ひよも同じように拳を作り、私の拳に近づけてくる。拳と拳が触れ合うや否や、私たちは息を合わせて、

「にゃん」

 と、わざと低く控えめな声を出す。

 今朝も無事、を交わすことができた。私とひよが中学三年生の頃から続けている、朝の挨拶の儀式。もっとも、これはだけの話ではあるんだけど。

 柏原が気を利かせて、先に歩き出す。柏原との間に十分な距離が開いたのを見計らって、私はひよの背中を軽くたたき、歩き始めるように促した。

 柏原のことを邪魔者扱いしているように見えるかもしれないけれど、実際に邪魔だとも思っているけれど、柏原にも他に一緒に登校する友達がいる。そのうち、そいつと合流することだろう。

「ひよもさあ」

 私の不意な呼び掛けを予想していなかったのか、ひよは驚いて目を丸く見開いた。

「あいつのこと、迷惑に思ったらちゃんと断りなよ。来んなって。ボケって。死ねって」

 最後の方の言葉を、わざとおどけた顔で言ったので、ひよは明るい笑顔を見せた。

「大丈夫だよ。すごく気を遣ってくれてるし」

「いやいやいや、そのうち面倒になってくるって。その時はさ、この奈央ちゃんがビシッと」

 私は両腕を上げ、格闘家のようなポーズを取り、空に向かって軽くジャブを繰り出す。

 ひよはそんな私の姿を見て、口元に笑みを浮かべながら言った。

「過保護だなぁ」

 私はその言葉にむっとなり、思わず、

「柏原ほどじゃないわ。あいつちょっとおかしいって。いくら……」

 と、言い掛けて口をつぐんだ。危うくひよのトラウマを刺激しそうになり、背中を冷や汗が伝った。

「まあいいや。続かないんじゃない? あいつも」

 私は、慌てて話題を変えるように言った。

「どうかなぁ」

 ひよは柔らかな笑顔を保ったまま、前を向いたまま静かにつぶやいた。

「奈央ちゃんはさ。ひよには、変なのとくっついて欲しくないんだな。推しだからさ」

 私が冗談交じりに言うと、

「あはは、何言ってんの」

 と、ひよは楽しそうに笑った。

「いやいやいやいや。なんだったら、こう私がさ。ひよを、氷上ひかみひよりちゃんを、こう、手のひらで籠を作って、閉じ込めてさ」

 私は両手のひらを丸めて上下に合わせ、小さな籠を作るジェスチャーをしながら熱弁した。

「それは推しにやっちゃダメでしょ。そういうことは彼氏にだけ言ってなよ」

 ひよの言葉に、私は思わず足を止めた。

「あー。モブひろか……んー……」

 私は難しい顔をして、モブひろの顔を思い描こうとした。けれど、その像は霧の中にあるかのように曖昧で、鮮明な形を思い浮かべられない。

 モブひろは、でもでも私の彼氏で、そこは何も変わらない。ただ、この世界では私は自覚者で、モブひろはそうではないという違いがある。

 自覚者にも様々なタイプがいるらしく、私は両方の世界の記憶をバランスよく持っている……と思う。だけど、彼氏であるモブひろに対する記憶だけはあやふやで、二つの世界の、記憶の境界線もはっきりしない。

 そもそも私が記憶を認識する前、この世界でモブひろとはどんな関係だったのか、それすら明確に思い出せない。モブひろと話をしていても、共有すべき思い出話がみ合わず、少しずつすれ違い始めている……と思う。

 それでも不思議なことに、寂しさも悲しさもあまり感じずにいる。こうなる前から気持ちが冷めていた……なんてことはないと思う。ひよとはの記憶を共有していて、私とモブひろがとても親密だったことを知っている。同じ高校に合格して、二人で涙を流して喜び合った思い出、それが確かに存在したことを、ひよが証明してくれている。

 さらに、もう一人の大切な友人、こと柤岡けびおか若菜わかな……はまだ自覚者ではないけれど、やっぱりこちらの世界で共通の記憶を持っていて、私とモブひろのことをなんて茶化ちゃかしてくる。これも、私たちがちゃんと親密な関係であったことを物語っている。

 もっとも、わかとはでもずっと友達だったのだけれど、その記憶は私の中にしかない。わかとモブひろと三人でいるシーンは、私の思い出の中にしか残っていない。

 モブひろと一緒にいる時は、彼の存在をはっきりと認識できる。だけど、今のように彼と離れている間は、彼の姿を曖昧にしかぼんやりとしか思い出せない。だから私の彼に対する好意も、関係性も、今この瞬間は確信が持てないでいる。

 ひよと視線が合って、心配そうにこちらを見ているのに気づいた。

「わかには言わないでよ。モブひろと上手うまくいってないとかそういう」

 私が言い掛けると、ひよは、

「大丈夫だよ」

 と、にっこりと微笑ほほえんだ。もちろん、ひよが私の信頼を裏切るような行動を取るはずがないことは、よくわかっていた。確認する必要すらないことだった。

 わかも含め、私たちは強いきずなで結ばれた同志だ。ひよが仲間に加わってからは、常に三人で行動を共にし続けている。これからも何一つ変わることがない……と思いたい。

 わかとの合流地点は、学校近くの高台へ続く坂道の入り口だ。いつも少し遅れがちな私たちを、わかは待っていてくれる。帰りは別々になることも多いので、朝に三人で待ち合わせてから登校するこの時間は、私にとって特別な意味を持っていた。

 黙って近づいてくる私たちに気づいたわかは、にやりとした不敵な笑みを浮かべて、両手の拳を顔の前に掲げる。

 私とひよは、各々おのおの片方の拳を、わかの拳にそっと合わせる。

「にゃん」

 三人の低い声が重なり合う。今日もまた、わかとフレンズのは成功を収めた。

「最初に教室に行くんだっけ」

「いや。校庭に直接集合でしょ」

「バスの前で待つんじゃないの?」

 三人それぞれが持ち寄った情報は、混乱を招いただけだった。

 いつものように三人で並んで坂道を歩き、学校へ向かった。

 学校が見えてくると、グラウンド沿いの道に大型バスが数台まっているのが目に入った。その周囲には、既に多くの生徒が集まっていた。

「若菜ちゃんの勝ちかぁ」

 意外と負けず嫌いなひよが、悔しそうに漏らした。

 突然、わかが私の軽く引っ張って、

「ねえ、二組の方に行かなくていいの?」

 と顔を寄せながら聞いてくる。

「○%▲☆くんが待ってるんじゃないの?」

 私は、わかの言葉に一瞬反応できなかった。

「え? 何?」

「だから、※&*■くんが」

 わかがモブひろの本当の名前を言っているんだと理解するのに、私は時間を要した。わかの言葉の一部が、ノイズにかき消されたように聞き取れない。

 名前すら認識できない相手のことを、彼氏と呼べるんだろうか。モブひろって何よ。誰よ。

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