友情

 今自分が大学生であるから、一つ前のステージで知り合った、高校の仲間が特別に感じるのだろうか?高校に入り立ての頃は中学で見てきた人間と比較して中学校の同級生を特別に思った記憶がなくは無い。ただ、僕は高校で関わりのあった数少ない人々はやはりこれからも僕の人生に必要な人間だと思う。友情と呼ぶに相応しい絆がちゃんと育めた気がするのだ。中学校での交友関係は今ではほとんど継続していないのもそう思う所以ではあるが、僕は当時周りに劣等感を抱えながら生きて居たから、なんとなく中学の同期たちを全肯定できる自信を待てないのだ。

 僕は「無償で働いてやりたいと自然と思える人」を友達と呼びたい。普通の友情より求め過ぎなところはあるかもしれないが、僕は彼の、彼女の為に理屈抜きで動ける人間で在りたいと願う。それはその人に心を許して、その人を分かった気になって、その人の幸せを思ってないとやれないことだろう。ここまでの信頼関係があれば中々縁が切れてしまうこともあるまい。例え僕に見返りは無くとも、僕自身がその人のために動けるというのは僕が素直な人間であることを認めることが出来る証拠である。友情を通して、その人の利益に貢献しつつ、自己肯定感を高めていけるのだ。もし、双方がこんな気持ちで動けるなら幸せな関係ではないか?

 友達のI君とH君について少し書きたい。I君もH君も僕と同じ文芸同好会に所属していた、同じく旧帝国大学を目指して頑張った人たちである。必ずしも考え方や好みが似ていた訳ではないが、一緒にいると心地良い雰囲気が流れていた。I君は朝に挨拶されると少し機嫌が悪くなったり、ある人に闇があると直感するとそれだけで距離を置いたりする気難しいところがあった。でも、なんとなく古風で、日本語を大切にしていて、真面目な人間であった。大学に入ってからちょっと遊んでいるみたいだが、根は変わっていないと感じる。僕が大学生活での相談をしたときも、ちゃんと彼の言葉で意見を伝えてくれた。H君は同じ大学で頑張っている。彼は本当に頭が良い。中学時代に出会った人間と同じようなにおいを感じる。ただ甘さというか、だらしなさが見えて緊張しないで隣に居れる。受験が近いからって色々自重しようって言った翌日から放課後に大食いしに行ったり、受験真っ最中にポケモンGOを一緒にしたり馬鹿してばっかりな気もする。ただ、ちゃんと日本語で議論できるし、僕の行動パターンや考え方への理解が深く適切な声かけをしてくれる。僕は困ったときにふと二人に話したいと感じてしまうし、ぼーっとしてると二人の今を気にかけてしまうことがある。友情という鎖で解けないんだろうか?鎖というより、違う場所に居ても同じ毛布を被っているような関係が僕らなのかなと思う。そんなに堅苦しくない、でも共通項があって繋がりを忘れることはないような三人でこれからもありたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る