誕生日
毎日は誰かの誕生日である。僕の知人の誕生日も近くにあった。僕も招かれていたが今回は断った。誕生会というのはお祝いムードで大変結構である。今までどんなに辛いことがあったかは当人にしか分からないが、現状持てる人間関係のうちその子を良く思ってくれる人だけが集まり一緒に時間を過ごしてくれるんだろうから心地良いものなんだと思う。
誕生日を純粋に喜べなくなったのはいつからだろう。中学生の頃?子供がキスで出来ないと分かった頃?親の老化を目の当たりにした頃?成人扱いされるようになってから?誕生日とは分かりやすく死に近づいていることを示す節目だ。どうしてそんな不幸なことがはっきり分かるところで祝えるんだろうか。きっと祝わなければいけないのだ。こんな話がある。トラウマの克服のために、人は嫌だと思ってたことを気持ちの良いものと認識しようとするらしい。僕にも思い当たる節はある。バスケ部時代、監督に散々に浴びせられていた罵声が辛くて逃げ出したが、今は言葉責めが好きなのである。「病んでるんじゃない?」「本当に何も出来ないんだね」「死ねば?」流石にどストレートな言葉を受けると泣き出してしまうが、何故か嫌いになれない。少なくとも元気なとき、人格を否定するような言葉を欲してしまうことがある。話は戻るが、人は本質から気づかぬ内に目を逸らしてしまうんじゃないか?死へのカウントダウンを、同じ宿命を負った仲間に祝って貰い、良いことだと思い込んで自分を生かしているんじゃないだろうか。
誕生会は自己愛があるから催されるのか?
知人のように自分を卑下してばかりの子も、自分を可愛いと思うことはあるんだろうか。僕は口では自分を無能だと言うことは常であるが、本当は少し自分が好きである。気分が良いときは自分の存在を「親の愛の結晶」だと思う。気分が沈んでいるときは「醜い行為から生まれたゴミ」だと思う。自分に向けられる愛がこんなにも高低差があるものではあるが、なんとなく恋は激しさが似合い、愛は穏やかさが似つかわしい。やはり僕は自分を愛せていないんだろう。だから少し好きという言葉を選んだんだろうし、自分を思う気持ちも時によって変わるんだろう。
皆さんは自分を愛せてますか?自分も愛せず、人を愛すなど出来るんでしょうか?
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