第106話 ヘライーヌ5
「ヘライーヌ、何か面白いものはないの。手ぶらでこんなところに来る気はないのよ」
「はいはい。どうぞ」
待ってましたと言わんばかりに、隣の棚からごそごそと何かを取り出す。黒く丸い塊は、触れるとふにゃりとした。嫌な予感がする。
「これは?」
「精力剤?」
「アホなの?」
「あはは。魔導流せば分かるよ。前の姫さんは好き」
「今よ」
フィルリーネが言うと、ヘライーヌはふひひ、といたずらっぽく笑った。フィルリーネは言われた通り、魔導を流す。碌な物ではないだろうが、身体に毒のあるものではないだろう。それくらいの分別は持っていてほしい。
途端、ぼばん。と膨らむと、べったりとした粘着質のある物に変化し、地面にべちゃりと落ちて、フィルリーネの足に絡もうとした。
「何、これ」
「ただの罠。捕まると取れなくなるよ」
「お前って子は……」
黒のべとついたものは、生き物のようにうねって触手を伸ばす。それに絡まないように、後方へ下がる。ヘライーヌの作るものは極端だ。取れなくなるということは、触れたら最後である。
「いいよ、怒鳴っても。いつもしてるじゃん」
「お前の腕は買っているのよ」
「分かったよ。だからいつも怒って、近付けないようにするんだ。近くに来たら怒らなきゃならなくなるもんね。そうすると、姫さんに罷免されたやつらって、何かあって逃がされたんだ?」
それに答える必要はない。フィルリーネはエレディナに消えるように言うと、もう一歩下がった。
「耳を塞いでいなさい」
すう、と息を吸い込むと、ヘライーヌがぱっと自分の両耳を手で塞ぐ。それを見て、フィルリーネはお腹から響くような、大きな声を出した。
「わたくしに何てことをするの! この研究所も取り上げるわよ! 不愉快だわ!」
言いながら踵を返し、扉を勢いよく開ける。こちらから開く分には、魔法陣は起動しない。ガツガツと地面に足音を響かせて、フィルリーネはヘライーヌの部屋を出た。
外で待っていたレミアが、急いでついてくる。
「フィルリーネ様、中で何が」
「部屋に戻ります! 邪魔よ、あなたたち!」
「何をしたんだ。ヘライーヌ!?」
「えー、面白いもの見せてあげただけなのにー」
後ろでそんな会話が聞こえたが、それは聞こえないふりをして、がすがすと廊下を進む。後ろからルヴィアーレもついてきて、行きと同じく大世帯でぞろぞろと書庫を通過した。自分の棟まで戻る間も、ずっとルヴィアーレたちが付いてきたが、ルヴィアーレの棟はこちらではない。部屋に入る寸前に、フィルリーネは後方へ言い放つ。
「ご自分のお部屋にお戻りになって!」
ばん。と扉を閉めて勢いよくソファーに座り込んだ。エレディナが現れて、ソファーに座り込むと、すぐにがちゃり、と扉が開いた。ルヴィアーレである。魔法陣の解除を気にせず行なって、入り込むと扉を閉めた。
「自分の部屋に、戻りなさいよ」
「こちらには、まだ説明がされていないが?」
いつもの笑顔はどこへやら。冷めた視線を送ってきて、一定の距離を開けたまま、腕を組んでこちらを睨みつける。口調は違って、偉そうだ。
「言葉遣いが違ってよ?」
「お互い様だ」
ルヴィアーレはすげなく応える。どうやら素らしい。笑顔と優しい言葉遣いはどうした。まったくもって、お互いの演技力に呆れるものだ。人のことは言えないので、そこは黙っておく。
「国に帰りたいのでしょう。そのようにするから、少し我慢なさいな。これが終われば、婚約も破棄致します」
「早まった婚姻までに終わらせる? それが、君にできるのか?」
言いたくなる気持ちも分かるが、こちらはできる限り婚姻前に終わらせたいのだ。イムレスには難しいと言われているし、自分もそう思うが、婚姻が終われば、王はラータニアを襲うだろう。それを回避するには、婚姻前に動かなければならない。
「あなたに、迷惑はかけなくてよ」
「充分、迷惑だ」
ごもっともな言葉に、口を閉じたい。とんでもない迷惑だろう。人質にしては曲者すぎるが、好いている相手と離されて、別の女と婚約である。恨んで当然だ。
「さっきは人質と言っていたけれど、人質を取るなら、娘を取る。いかにも暗躍しそうなあなたを取ろうとはしないわよ。理由は?」
「ユーリファラの相手が、この国にいるとでも?」
「第二夫人の子供がいるじゃない」
「幼児だろうが」
「関係ないでしょう」
フィルリーネがさらりと返すと、ルヴィアーレは口を閉じる。微かな嫌悪感が感じられた。
姪のユーリファラを使われることに対してだろうが、自分ならばユーリファラを使う。王の血を引いてはいないため、若干人質として弱いが、他人の娘を自分の娘とする王ならば、娘を人質にしても効果はあるだろう。
ルヴィアーレのような曲者を、国に引き込む危険性など、ない方がいいのだ。
「王があなたを得ようとする意味が分からないわ。そうでありながら、扱いが悪い」
「知らぬ」
ルヴィアーレは口を割る気はないようだ。何を質に取られているのか。こちらでは想定しかない。
「なら、邪魔をしないでほしいわね。危ないとこにいすぎなのよ、あなたの部下は」
「注意をされたと言っていたな」
「しなければ、ずっとそこにいたのでしょう。私が見ていないところでは、知らないわよ」
王の棟は無理だと分かったはずだ。しかし、それを監視する者もいただろう。だが、王の棟の近くは警備が厳しい。妙な人間が一人混じったら、すぐに気付かれる。
ルヴィアーレはそれに関して何も言わず、むしろこちらに問うてきた。
「君は? どこにいる」
「そこら中」
「何だと?」
そこら中だ。城にもいれば、街にもいる。街の外も別の街も。自分はエレディナたちがいる限り、この国のどこにでも行けた。
「マリオンネの精霊を手にするなど、あり得ない。どうやって、その精霊を得た」
エレディナは、ルヴィアーレの言葉に頬杖をつく。ついたままお尻を上げて、とぼけた顔をして見せた。
「グングナルドじゃ、王族に精霊がつくのは普通なのよ。あのおっさんは、違うけどね」
国王をおっさん呼ばわりして、エレディナは空中でくるくる回った。ルヴィアーレは不快な顔をしてみせたが、概ね間違いではない。王以外の叔父と自分は、エレディナの力を借りられる。
「エレディナを手にしたのは王の弟よ。叔父がどうやって手に入れたかは知らない。聞いていないし、エレディナも話さないからね。だから、聞いても無駄よ」
それについては自分も聞いていない。叔父はエレディナが協力してくれると言っていただけだ。その言葉通り、エレディナは自分を助けてくれている。
「もう少し我慢はしてもらうわ。おそらく王は、婚姻まであなたに手を出したりしないでしょう」
「君が何もしないと、なぜ分かる?」
それは確かに、ルヴィアーレからすれば、こちらが何かをするかもしれないと疑っても仕方がなかった。今までを演じられてきた分、警戒は強い。
「確かに、私を信じる理由はないわね」
「これから、何をしているかは、見させてもらう」
それはつまり、部屋にいる間のことだろう。しかし、城の中も外も、ルヴィアーレを連れて行くのは避けたい。この男は無駄に顔がいいのだ。身長も高いので、外をうろつくと、不審人物に見られるだろう。
なんと言っても、立ち姿がいかにも高貴な人だ。間違っても、ニュアオーマのように猫背で動いたりできない。
「あなたでは目立つのよ。外に出ても、隠しきれない」
ルヴィアーレは納得する気はないと、眇めた瞳で冷眼を向けた。
それに、街の外に出るのに、いないふりも難しいだろう。ルヴィアーレには監視が多いのだから。
「今度、サラディカでも外に出しなさい。部下の中でも、口の堅そうなのがいいわ。メロニオルに、街の外に出られるように頼むのね。私の命令だと言えば、用意してくれるわ」
「メロニオルは、君の手なのか……?」
そこは気付いていなかったらしい。では、アシュタルについても気付いていなかったようだ。
しかし、城の外に出るには、メロニオル以外、伝えられる者がいない。自分はいつもエレディナに連れられて外に出るので、人知れず外に出る方法が分からなかった。
フィルリーネは、長机に置いてある紙片の端を切ると、そこに簡単な地図を描く。
「この場所に、二日後の昼食後。鐘が鳴った時には、その場にいるのね」
渡した紙片に、ルヴィアーレは無表情になると、静かに頷いた。
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