まず一本の真っ直ぐな道のがあって、それをずーっと極めていくように、連作がいくつもいくつも生まれている。
菫野さんはそういう形態に入ったらしい。
芋虫だとか、繭だとか、蝶だとかいうような一つの形態に。
歌人は変態する生き物で、繭に籠る時期もあれば蝶のごとく飛び回る時期もある。
菫野さんは今、何を書いてもある種の美学として「極まってしまう」あるいは「これから更に極まる」、そういう時期に入ってしまったらしい。
もはや私には羨望や嫉妬をすることしか出来ぬ境地にある、無敵状態の菫野さんだけれど、一首だけ私でも何か書けそうな歌があった。
それが
・「たれもたれもひとのかたちのがらんどう、だとしてヴァイオリンと同じだ」である。
単純!
そうだ! 人はヴァイオリンだ! サイズ的にはチェロかもしれないが、とにかくヴァイオリンだ!
単純なフォルムの類似から芸術的な発想を導き出す、
というのは昔ながらの「ダブルイメージ」の手法に似ている。
実際、サルバドール・ダリなんかが
「人をヴァイオリンとして描くことで内面の空虚を表現した絵」とか描いてそうではないか。
この連作は私の評価できるレベルを超えている。私の評者としての限界を超えている。
まあでも真面目な批評ではなくて他の読者たちに向けた「おすすめ」レビューだから気楽にラクガキしちゃおう。
菫野さんの短歌はここで、なんだか「なんでも入れられるけど、そのままでは何にもはいっていない」
「読者が何かを入れるのを待っている」というような「箱」のかたちをとっているように見える。
幾重にも幾重にも「幻想としての現実」
あるいは「現実としての幻想」、
「どこまでも現実的な……どこまでも幻想的な……」(表現が難しい)
から取りだしたイマージュや言葉をかさねる。
それは最終的に「小さな箱」のイメージに収斂されるような気が私にはしたのだ。
歌の解釈はどんどんひろがっている。
イマージュの豊かさもどんどんひろがっている。
しかし、その中心にある(あえて言っちゃうと)「エモい」要素は読者が各自自由に歌の中に持ち込む。
つまり、セルフ方式なのである。スーパーやうどん屋みたいな感じだ。
・「人界へ出てゆくわれのト書きには『理解されざるあいまいな愛』」
なんて、ユーモアとしても一流ではないか?
どうだろう?
読者の諸君はこの歌を読んで素直に「理解されざるあいまいな愛」の悲痛さに泣けるだろうか?
皮肉と、ユーモアと、そしてもちろん悲しみと、そして「理解されざるあいまいな愛」としての人生を認める前向きなパワー……そうした読みが全部「横並び」で成立し得る歌なのではないか。
もし歌を読む作業が「歌にあるパシッション、エモーション、情念などを読めれば成功」だとしたら、
これほど厄介な歌はあるまい。
しかし菫野さんの短歌においては、
読者が各自持ち寄ってきた感情で、
身体で、体調で、時間で、シチュエーション全てに応じて「心」を「箱」としての歌に持ち込むのである。
そしてその箱は静かに輝いている。
私たちは、その美しく空虚なる箱に魅せられるだろう。