十体目「気まずいヴリエン・レンテ」

 上よりも前に、早くよりも遠くに出る事を考えて、地面を掘った。

 この丸い穴、というより泡のような形を、秘石術はその形のまま、動かす事が出来る。地竜魚が泥中を泳ぎ進むように、それで体には土が擦り付けられ、汚れる事にはなる。大きな石があると、見えないから顔に、肩に当たる事もある。それでも進んだ。進むしかなかった。

 ホホエニに見つかる事だけは望まれなかった。

 軽くなった壁は、剥がれるよりも一撃で割れ、目が潰れそうな、光が来た。

 誰が居るのか、周りはどうなっているのか。崖や谷、獣の巣穴ではないのか。

 確かめたいのに、固く閉じた目は、糊を塗ったように光を恐れて開かなかった。

 ようよう慣れて来たのは、空を後ろにして、穴の中を少しずつ見ていったからだ。

 そこは森の中だった。

 渓谷からも離れて、目の内には生い茂った木や草しかない。影の向きと地面の傾きで、方角の半々は分かるけど、山から下りるには、一つに街道を探さねばならず、街道を探すには、山は広すぎる。頂上に近づくほど、早く見つかるけど、剣山は山稜が長く国境を繋いでいて、頂上という決まった場所もない。その辺りは森が深いから、遠くまで見通す事も出来ない。

 他は、手に持った石の固さに気を取られ、思う。これを使う事も出来る。

 山を崩しながら進むとか。高く積み上げて遠くを見るとか。言わずも危ない事。

 少しく下りながら、丸太村に近い山の形を考えていた。

 いくつか、似通う所が木の向こうに見えてはいる。

 陽光はまだ高くあり、迷う事はないけど、火を起こしたり、寝床を敷く準備をした方がいいかもしれない。夜の間は動かないで、体を休めたいから。ただ近くに燃えそうな枯れ草も、大きな葉も見ていない。外套と、あとは、腕だけ。ルルガルの、切り離された腕は、外套の切れ端で包んでおいた。少し血が滲んでいるけど、これなら汚れるような事もないだろう。

 僕に石を渡す為に、体を失って腕の一本だけになってしまったルルガル。

 せめて領主に送り届けなければ、と。

 こんな姿で帰すのは名が折れる、と。考えが行きつ戻りつして、足の運びも遅くなる。

 一時足を止めて、眠りに落ちそうになっていると、草を踏む音が近づいていた。短剣に手が行きながら、ルルガルの腕を抱え、三つの石を握った。何が来ても、押し阻めそうな確信があった。気を大きくし、向かって行こうとした所で、兎馬の長い耳と、その頭が見えた。

「レンテか」と聞くと、濁った目が僕を見て、怠けたように鳴いた。

 カバンは、左の物を失い、鞍も落ちかけていた。それより、歯を押し込んだ首の傷が、今も痕になって残っている。駆け寄って、首を撫でてやると、死体と変わらない冷たさで、木像のように動かなくなった。乗れる。早く下りられる。カバンには、いくつか食料もあった。

 活気が腹に満ちて来るのを感じている僕の、懐をレンテが嗅いでいた。布に包まれたルルガルの腕の匂いを見つけた馬の、死んだような顔が悲しそうにも見えた。荷物を纏め、レンテに跨って走らせる。脚の持つ限り、山を下らせる。火も寝床も、カバンの中の物で足りる。

 暗くなって、角灯に火を入れると、時を待たず丸太村が見えてきた。

 ルルガルの不在、腕の在所を隠しながら、訳を話して厩舎に寝床を作ってもらった。食料と飲み水を貰い、体を下ろしたレンテの脇に体を折り曲げて眠った。次の朝、薪割りの手伝いを頼まれ、日が高くなるまで斧を振るった。レンテは空を見続けていた。出発し、やっと街道に乗り入れると、分かれた道の先に異様な光景を見た。何かが倒れている。棒のような、衣を広げたような、投げ出されたような形は人か、他の生物のようで、一つも動く物はなかった。

 レンテが一目も残さずに歩き去ろうとするのを止め、横に入った。

 人だ。でもそれは、レプティラだった。

 鱗に覆われた体は、草や土に似た色の斑模様をしていて、鋭い離れた目、大きな口に牙、長い手足に鋭い爪、切っている人も居る、それに長い太い尾を持っている。それがバラバラに切り刻まれ、どれが誰の物かも分からない状態で、五人や十人の物が道に広がっていた。濃い血が地面に滲み、長く作物が育つのを妨げるだろう。レンテが鼻を近づけ、大きく鳴いた。

 荷物も、剣や盾も残っている。破れた袋から硬貨が見えていた。

 物盗りじゃないなら、このレプティラは命を狙われてこうなったのだ。

 埋葬するような時間もない。立ち去ろうとすると、何か音が聴こえた。痛みに負け、漏らしたような弱い声は、掠れ、葉擦れや鳥の声に紛れて聞き洩らしそうだった。レンテを降り、短剣と石に触れたまま、近づいてみる。二人が重なるように倒れている、その下に、体の小さなレプティラが倒れている。糊で張り付いたような目が開かれると、爪よりも鋭い目が僕を見たような気がして、何か尋ねようかと考える前に、目からその色が消えていった。肌に触れると冷たい。固い鱗は、寒暖の移ろいに弱く、その代わりにレプティラは筋骨が頑強で、長い眠りを取る。それでも、これはもう、起きない。起こしようがないくらい血を流している。

 伸ばした手が震えを感じる。でも僕の腕がじゃない。

 元を辿ると、肩に掛けた小包が、中に入れたルルガルの腕が震えていた。

 怖くなり、小包を放り出したくなったけど、開けて、取り出してみる。巻き布を取ると、傷んだ皮の色が土みたいに暗く、肉からも張りが無くなっていた。それでも、何かを掴もうと指を動かし、その爪が掠めて、僕の手に傷が付いた。一度、跳ねて、腕が地面に落ちた。

 地面が揺れた。

 拾おうかと悩んだのは、今の今だけだ。

 その今、地面が割れ、巨大な骨の手が生えて来た。

 低地に生えた花みたいに、空を突いた骨は肘を曲げ、地面を叩きつけた。

 そこに倒れている、レプティラの体を。握り。潰し。食い、垂れ流れる腐肉や血脂が骨に纏わりついて、腐ったままの生物の腕のようになった。そして最後に残った、まだ小さいレプティラの体を持ち上げ、手の中に包んだ。地面に横になった腕は、指から肩の方へ震えの波が伝わって、引き去った所から、肉が平らに潰れていった。そして骨は地の底に去っていった。

 何も出来ず、僕はレンテと同じように見ているだけだった。

 すると、その肉の中でもっと小さな何かが動いた。指だった所の間から這い出し、体を起こしたのはレプティラの小人だ。扁平な頭、柔らかい鱗、短い手足。麦穂みたいな光る色をした体は血と脂で汚れている。そして、目を擦り、咳き込み、僕を見て、怯えながら言った。

「何があったか」風のような声だ。

「他の、レプティラの人が死んでて、小人が一人」と一指を向ける。

 レプティラの小人は周りを見て、声を漏らした。手を触れようとした。何に。どこに、顔形が分かるような物はない。体に巻いていた衣と、鱗のような痕があるだけだ。次に鋭い目が重ねて鋭く、僕を睨んだ。横を向く、そちらに駆け出す。見ている間に、地面を転がった小人の手には、右も左も、片刃の剣が握られていた。柄に革を巻き、丸い鍔に、細長い刀身を持った長剣だ。「ひぃさがやったか」答えるまでもなく、身を縮め、そして飛び出していた。

 風のように早い。

 でも、一つになった剣の先が狙う所は見える。

 レンテを逃がし、剣を避け、胴を抱えて地面に押さえた。

 伏せてもまだ暴れる小人の手から剣を奪い、遠くに投げた。

「来た時からこうなってた」というのは本当じゃないけど。「一人しか助けられなかった」

 これは本当かもしれない。ルルガルの腕が何かしたとすれば、それだろう。

「こんなじゃなかった。ああ、ミハ。カグ。ラク。シャ。どこに行った」

 次は泣き出し、暴れるのも、疲れてくると動きは小さく静かになって、最後には体を丸くして、閉じてしまった。「何があったのか教えてくれないかな」と言うと、小人は少し顔を上げて、何かを吐き戻しそうになった。「水と、干し肉があるけど」と小人に差し出してみる。

 手が伸びて来て、干し肉を奪われた。水筒も、滴になるまで大きく傾けた。

「大きな棍を持った男だ」と小人は言った。「骨の魔獣を使って一族を襲った」

「一族?」

「レプティラのだ。御身はイザーム・ナリ・タ。一族は旅の物売りをしていた」

「じゃあ、ナリタ。襲った男は、どこに?」

「山の向こうだ。パラグラフに向かったのか」

「ああ、そうか。鉄の王を追ってるのかもしれないな」

「ひぃさ誰だ。なんでここ通った」

「人を探して、山を下りる所だけど。レンテ、この兎馬に乗って」

 ナリタが立ち上がり、肉の方に歩いていく。「埋めるの手伝うんだ」と言った。

「もう下りる頃には暗くなるし、埋めても獣に掘り返されるんじゃないかな」

「このままにしておくのか」

「そうなるけど。水も汲みたいし、僕には急ぎの用もあるから」

 レンテに荷物をまとめて積み、跨るとナリタが追い掛けて来て足を掴まれた。「せめて墓にしたい。助けがいるんだ」足蹴にする事も出来ず、僕はまた馬を下りた。ミノ字まで、間に合うだろうか。ナリタは工具を探し回り、剣と、椀状になった籠手の一部を持ってきた。

 森の方に、穴を掘りに行く。

 十人からの肉の塊が収まるように、大きな穴を。

 穴が屈めるような深さになってくると、ナリタは穴を出て肉の方に走って行った。

 見ると、ナリタは衣の上から肉を切り分けていた。そのまま刃は血と脂で汚れ、切れなくなっていった。それでも力押しで前後に押し込むと、骨に当たって、刃が欠けてしまった。次の剣は周りに積んであって、一つ捨てると、別の一つを拾って、そのまま切り続ける。近くに立っていると、血と脂の臭いで胸が苦しくなった。鼻の強いレプティラだったら更に苦しいだろうけど、ナリタは顔を動かさずに一つ、二つ、肉を切り分けて並べ、一抱え揃えると、体を血で汚しながら、肉を穴の方に運んで行った。戻って来ると、また次の肉を切り分け始めた。

 穴の縁に肉が積まれ、土が血と脂で汚れた。

 秘石術を使う事を思い立ち、早々底の見えない穴になった。

「どうやったんだ」と聞くナリタは、気にする様子ではない。「入れていこう」

 二人、黙って肉を落としていった。底に当たった音も聞こえないから、人が落ちたら危ないだろう。掘り出した土も、周りの木が埋もれるくらいの、小さな山になっている。ナリタは肉を切りに行き、また肉を穴に落とした。もう墓にも見えないけど、外に晒しておくよりは埋めた方がいいか。十回、二十回と繰り返し、終わりが見えてきた。散らばった腸とか、衣についた皮まで集める気はないようで、ナリタは急に倒れ込み、終わりだ、と僕に言い切った。

「土、掛けておくけど、他に入れる物は?」

「ない。川は近いか」

「少し街道を行かないと、谷には下りられないな」

「手に付いた血を流したい」

 土を落とす間に、ナリタは落ちていた剣や少ない荷物を袋に詰め、それを肩に掛けた。

 落ちていた板で墓碑を立てて、レンテに跨ると、ナリタが走り寄ってレンテの腹に張り付いた。「御身を連れて行け」という事だ。レンテは羽虫に絡まれたように無関心で、街道の先を眺めていた。走りに変化はない。二人を乗せて山を登って来たのだ。小柄なレプティラくらいは、荷物にもならないのかもしれない。それはそれ、どこまで連れて行けばいいのだろう。

「次の字までは乗せていくけど、そこまでにどうするか考えておけよ」

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